豊臣秀吉 人物

豊臣秀吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/07 02:05 UTC 版)

人物

出身・家系

秀吉の父・弥右衛門は百姓だったというが、百姓 = 農民とするのは後代の用例であり、弥右衛門の主たる生業は織田家の足軽だったとする説もある。太田道灌北条早雲の軍制に重用された足軽は急速に全国へ広まっていた。ただし、秀吉が初めて苗字を名乗るのは木下家出身のおねとの婚姻を契機とすることを指摘した研究もある。つまりそれ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性も指摘されている[注釈 40]。 『フロイス日本史』では「若い頃は山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた」、『日本教会史』には、秀吉は「木こり」出身と書かれている。また小説家の八切止夫は、秀吉は「端柴売り」出身で、わざとそのことを示す羽柴(=端柴)に改姓し、自分が本来低い身分なのだとアピールすることによって周囲からの嫉妬を避けようとしたのだと推測している。小説家の井沢元彦は「当時の西洋人からは端柴売りが木こりに見えたのだろう」と両者を整合する説をとっている[注釈 41]

秀吉は他の大名と同様に側室を置いていたが[注釈 42]、正室であるねねとの間にも、側室との間にも子供が生まれず、実子の数は生涯を通じても非常に少なかった。秀吉との間に子供が出来なかった側室達には、前夫との間に既に子供がいた者、秀吉と離縁あるいは死別し再婚してから子供が出来た者が幾人かいる。そのため秀頼は秀吉の子ではなく、淀殿が大野治長など他の者と通じて成した子だとする説もある。これについては、秀頼だけでなく鶴松の時点でそうした噂があった[52]

秀吉は子宝に恵まれなかったが、実は長浜城主時代に1男1女を授かっていたという説がある。男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で、幼名は石松丸、後に秀勝と言ったらしい。長浜で毎年4月(昔は10月)に行われる曳山祭は、男子が生まれたことに喜んだ秀吉から祝いの砂金を贈られた町民が、山車を作り長浜八幡宮の祭礼に曳き回したことが始まりと伝えられている。石松丸秀勝は夭折したが、その後秀吉は次々と二人の養子に秀勝の名を与えている(於次秀勝小吉秀勝)。長浜にある妙法寺には、伝羽柴秀勝像という子の肖像画や秀勝の墓といわれる石碑、位牌が残っている。女子の方は名前その他の詳細は一切不明だが、長浜市内にある舎那院所蔵の弥陀三尊の懸仏の裏に「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足虚 八幡宮」という銘記があり、これは秀吉が天正2年(1574年)に生まれた実娘のために寄進したものだと伝わっている[53]。ただし今日舎那院では、これが秀吉の母・大政所のために寄進されたものであると説明している。しかし『多聞院日記』によれば、大政所は文禄元年(1592年)に76歳で死去しているので年代に齟齬が生じる(「御れう人」とは麗人のことであり、76歳の老人にまで解釈が及ぶものかどうか疑問であり、秀吉に女児が生まれたと考える方が自然と思われる)。

その大政所は、秀吉が関白に就任する時、自身も萩中納言の娘であり帝の血を引いていると主張した。側近の大村由己が記した『関白任官記』の他、松永貞徳の『戴恩記』にも同様の記述が見られる。当時の公家に萩中納言という人物は見当たらず、我が子の関白就任を側面から助けるための詭弁だったとみられている[4]

容姿

猿面
「猿面冠者」という言葉が残るように、秀吉が容姿からと呼ばれたことは有名である。『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。また松下之綱は「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。毛利家家臣の玉木吉保は「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」としている(『懲毖録』)。ルイス・フロイスは「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている[54]。また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという[55]
秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の落書「まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白」[注釈 43]に由来するという説もある。また山王信仰(猿は日吉大社の使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したとの説もある[56]
禿げ鼠
「禿げ鼠」の呼び名は、信長がおねへ宛てた書状の中で秀吉を叱責する際に「あの禿げ鼠」と書かれているものが現存している(現在は個人蔵)[57]。ただ、普段でもそう呼ばれていたかどうかは不明。
六本指
秀吉は指が1本多い多指症だったという記録がある(『フロイス日本史』)。右手の親指が1本多く、信長からは「六ツめ」とも呼ばれていた(『国祖遺言』[注釈 44])。当時は(現在もそうだが)多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても生涯六指のままで、天下人になるまではその事実を隠すこともなかったという。しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。そのため、「秀吉六指説」は長く邪説扱いされていた。現在では六指説を真説とする考えが有力であるが、このことに触れない秀吉の伝記は多い[注釈 45]
なお『国祖遺言』のこのくだりを紹介した三上参次は、「又『國祖(前田利家)遺言』といふ書には、太閤には右の手の指が六本あったといふ説が載って居りますが、如何ですか、他に正確なる書にはまだ見當りませぬ。」[58]と記載している。井沢元彦は自著[59]の中で、『国祖遺言』の存在を初めて指摘したのは松田毅一[60]であると記載しているが、松田が指摘するよりも前に三上が指摘をしている。姜沆の『看羊録』にも秀吉の右手が六本指であったと記録されているが、この記録には秀吉が成長した時に自ら刀で指を切り落としたと記載されている[61][62]服部英雄は『国祖遺言』を活字化しており、以下の通りである[63]
大閤様は右之手おやゆひ一ツ多、六御座候、然時蒲生飛騨殿・肥前様・金森法印御三人しゆらくにて大納言様へ御出入ませす御居間のそは四畳半敷御かこいにて夜半迄御咄候、其時上様ほとの御成人か御若キ時六ツゆひを御きりすて候ハん事にて候ヲ、左なく事ニ候、信長公大こう様ヲ異名に六ツめか、なとヽ、御意候由御物語共候、色々御物語然之事[64]
その他
身長は小柄であったが、詳しい数字は不明。150cm以下から160cm余まで諸説ある。髭は薄かったため、付け髭をしていた(当時の武将は髭を蓄えるのが習慣であり、髭の薄い者は付け髭をすることもあった)。

死因

様々な説が唱えられており、脳梅毒、大腸癌、痢病(赤痢・疫痢の類)[65]のほか、沈惟敬による毒殺説もある[注釈 46]。50代後半頃からは、老衰のためか無意識のうちに失禁したこともあったと記録され[66]尿毒症説、脚気[67]、腎虚であるとするものもある[68]。また感冒で亡くなった(そのため藤堂高虎と同様、桔梗湯を処方された[69])説もある。

逸話

豊臣秀吉の花押

人の心を掴む天才とされており、「人たらし」と称せられる。また度量の大きさでも知られ、九州の役において降伏した島津義久に対し、丸腰の義久に自らの佩刀を与え、また小田原征伐で遅参した伊達政宗に佩刀を預け石垣山の崖上で二人きりになった。両名とも秀吉の度量に気を呑まれ斬りつけることは出来なかったという。他にも小牧・長久手の戦いの後に上洛した徳川家康の下を近習一人をつれて密かに訪れ、数万の徳川兵の中で酒を交わしながら翌日の拝謁の打ち合わせをした。また家康の片腕であり秀吉との折衝役であった石川数正が出奔した際、自らの配下とした[70][71][72]

賤ヶ岳の戦いの最中、熱暑に苦しむ負傷兵に秀吉は農家から大量の菅笠を買い敵味方の区別なく被せて回り、「誠に天下を治め給うほどの大将はかく御心の付き給うものかな」とも評価される(『賤ヶ岳合戦記』)。また賤ヶ岳の戦い後、小早川隆景に書状で「無精者は成敗すべきであるが、人を斬るのは嫌いだから命を助け領地も与える」と報じている。ほかにも関白就任後、秀吉が可愛がっていた鶴が飼育係の不注意から飛んで逃げた。飼育係は、打ち首覚悟で秀吉に隠さずに報告したが、「日本国中がわしの庭じゃ。なにも籠の中におらずとも、日本の庭におればよい」と笑って許したという。

小田原征伐の際、鎌倉鶴岡八幡宮の白旗の宮を訪ね、源頼朝の木像[注釈 47]に向かい「小身から四海を平定し天下を手中にしたのは貴方とこのわしだけであり、我らは天下友達である。しかし貴方は御門(みかど)の御後胤で、父祖は東国の守護であり、故に流人の身から挙兵しても多くの者が従った。わしは、元々は卑賤の出で、氏も系図もない男だ。だからこのように天下を平定したことは、貴方よりわしの功が優れている」と木像の肩を叩きながら言ったという。

秀吉はスケールの大きい「大気者」だったともいわれているが、狭量な面もあり、世評を気にした。北野大茶会や華美な軍装などの人々の評判が上がる行為を頻繁に行った。一方、聚楽第に自身を非難する落書が書かれた際は、犯人を探索し7人を鼻削ぎ耳切りにした上で倒磔に処したのち、老若男女63人を磔、最終的には130人に刑罰を下している(『鹿苑日録』[73])。人を殺すことを嫌う人物とされる秀吉であるが、実際には元亀2年(1571年)に湖北一向一揆を殲滅したり(『松下文書』『信長公記』)、天正5年(1577年)に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、子供は串刺しに、女は磔にして200人以上処刑している(同年12月5日の羽柴秀吉書状)。

母・大政所への孝養で知られる。小牧・長久手の戦いの後、家康を上洛させるため母と妹を人質として家康に差し出したが、そこで母を粗略に扱った本多重次を後に家康に命じて蟄居させている。天下人としての多忙な日々の中でも、正室・北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出している。朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京したが、臨終には間に合わず、ショックのあまり卒倒したという[注釈 48]。秀吉が自分が天皇の落胤である噂を広めようと、自分の母がかつて上洛した際に、当時の天皇が手を付けた事があり、その結果生まれたのが自分だと吹聴した事があったが、当の大政所が激怒したため、取りやめたという話もある。

戦国大名は主君と臣下の男色衆道)を武士の嗜みとしていたが[注釈 49]、武士出身ではない秀吉は衆道への関心がなかった。男色傾向のなさを訝しんだ家臣が家中で一番との評判の美少年を呼び出し、秀吉に会わせ二人きりにさせたとき秀吉はその少年に「お前に姉か妹はいるか?」と聞いただけだったと言われる。

ルイス・フロイスは、秀吉の外見以外については、

  • 優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。
  • 極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。
  • 抜け目なき策略家であった。
  • 彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。
  • ほとんど全ての者を汝(うぬ)、彼奴(きゃつ)呼ばわりした。

などと記している。

上杉謙信と対決するために北陸へ出兵した際、軍議で大将の柴田勝家に反発し、勝手に領地へ引き上げ、この無断撤退は信長の怒りを買った[注釈 50]。また中国攻めでも、宇喜多直家の寝返り・所領安堵を勝手に許可してしまい、再び信長に怒られている。

文化・芸事

人と同じに振る舞うことを嫌う、傾奇者だった。何回か開いた仮装茶会(名護屋城の仮装茶会が有名)では、参加する武将達にわざと身分の低い者の格好をしてくるように通達し、自身も瓜売りの姿で参加した。武将たちも通達に応じ、徳川家康は同じく瓜売り、伊達政宗は山伏に扮した。

美食家であり、食事には贅沢をした。ただ、後年家来に対し、「位が高くなっていろいろ贅沢なものを食べたが、貧しい時代腹が減ったときに食べた、麦飯ほど美味いものはなかった」と語っている。

文化的修養を積むことに努力し、古典文学を細川幽斎連歌里村紹巴茶道千利休、有識故実を今出川晴季西笑承兌儒学を大村由己、能楽を金春太夫安照に学んだ[74]

能楽に熱中し、前田利家と徳川家康と共に天皇の御前で演じたり、『明智討』『柴田』など自分の活躍を演目にして自ら演じた。和歌もよく詠んだ[注釈 51]。茶人としても独自の境地を切り開き、武家茶の湯の大成者は千利休でも古田重然でもなく、秀吉であるとする評価もある[75]。一方で、著名な茶人の目利きによって、単なる雑器に過ぎないものが、価値ある茶器とされて高額で売買されていたのを快く思っていなかったとされ、千利休に切腹を命じた理由のひとつと推測されている。呂宋助左衛門が献上し、高額な茶器(茶入れ)として珍重されたルソン壷が、現地では便器として使われていると知り激怒したという逸話もある。

能筆家であった。北大路魯山人は秀吉のに対して、新たに三筆を選べば、秀吉も加えられると高く評価した。一方で、文字の正確さにはこだわらない性格で、秀吉の書簡には、誤字や当て字、仮名が多用されている[注釈 52]。 また、「醍醐」の「醍」を祐筆が失念した際、「大」と書くよう指示したという逸話がある(『老人雑話』『武野燭談』『太閤夜話』)。

囲碁は、織田信長から名人という称号を許された日海(後の本因坊算砂)に指導を受けており、伊達政宗の家臣・鬼庭綱元との賭け碁や、龍造寺政家をとても巧妙に負かしたので政家は敗因を考え込んでしまい帰る秀吉の見送りをし忘れたなど、真偽はとにかくエピソードがいくつか残っているほど、かなり強かったらしい。

本能寺の変の黒幕説

千生り瓢箪(伏見城)。豊臣秀吉の馬印として有名。

本能寺の変で最終的に最も得をした秀吉が事件の黒幕とする説もある。その根拠は、秀吉の信長に対する不要な援軍要請である。秀吉は備中高松城攻めのとき、毛利輝元・吉川元春小早川隆景らが高松城の救援に出てきたため、信長に苦境を訴え援軍を要請。ところが当時の毛利氏が高松城救援に用意できた兵力は羽柴軍の半分の15,000ほどでしかなく[注釈 53]、救援は不要であった。信長は三職推任問題や皇位継承問題などで朝廷と頻繁に交渉していたため上洛していた。明智光秀はそこを狙って本能寺の変を起こしたが、軍勢を集める理由が問題であった。ところが秀吉の救援要請で援軍に赴くように命じられたため、信長に疑われることなく軍勢を集め、その軍勢で光秀は京都の信長を討ち果たす。光秀が近衛前久と内通していた説があるように、秀吉も大納言の勧修寺晴豊らと内通しており、その筋から光秀の謀反計画を知り、要請を行ったとされる。

また、秀吉の中国大返しに関しても、沼城から姫路城まで70キロの距離をわずか1日で撤収しており、秀吉が優秀だったとはいえ、事前に用意をしていなければ不可能なこと、中国大返し後の織田方有力武将への切崩しの異常な速さ等、また変を知らせる使者は、本当に毛利方と間違えて秀吉の陣に入ってきたのか、など疑惑が持たれている。元NHKアナウンサーで京都造形芸術大学教授・松平定知は秀吉のブレーンで大返しの中継地であった姫路を領していた黒田孝高が関与していたとの説を主張している[76]

上記の説についての反論には以下のものがある。

  • 信長公記』によれば、高松城への援軍、西国への出陣を立案したのは信長自身であり、秀吉は毛利家主力の出陣を報告したのみで、秀吉側から援軍の要請があったという記述はない。
    『浅野家文書』には毛利軍5万人と記されており、秀吉は初期情報のこの数字を元に信長の援軍を請求した。
    秀吉の援軍要請は、手柄を独占することによって信長に疑念を持たれるのを避ける(信長自身を招いて信長に手柄を譲る)ための保身であり、有利な状況でありながら援軍を求める必然性は存在する(『常山記談』)。
  • 本能寺の変直後の6月3日には、江北周辺の武田元明京極高次らの武将は光秀に呼応し秀吉の居城である長浜城を接収し、同城には光秀の重臣である斎藤利三が入城している。また、長浜にいた秀吉の家族らは本能寺の急報を聞き、美濃へ避難している(『言経卿記』『豊鑑』)。このことから、光秀と秀吉に先立っての接触があったとは考えづらい。
    もし秀吉が光秀と共謀していたなら、山崎の合戦で光秀はそのことを黙って討たれたことになる。共謀が事実ならばそれを公表することで秀吉は謀反の一味となり、他の織田旧臣や信孝ら織田一族との連合は不可能となり、光秀方に有利な情勢を作り出せた。
    当時の武士から見ても不自然な状況であったり、連携を疑わせる情報が流れていれば、後に秀吉と敵対した織田信雄・信孝・柴田勝家・徳川家康などがそれを主張しないのは不自然である。
  • 明智光秀の援軍は、対毛利戦線の山陰道方面に対してのものであり、秀吉が現在戦っている山陽道方面ではない。
  • 事前の用意については、 中国大返しは信長自身による援軍を迎えるための準備が、功を奏したもので、当時、中国大返しを疑問視した発言や記録はない。そもそも沼城から姫路城まで、わずか1日で70キロ走破とは、事前の準備があってもあり得ない。実際には1日で撤収したのは最初に姫路城に到着した騎馬武者であり、徒歩の兵士を含めての全てが姫路城まで到着するには、もっと時間がかかっている(『天正記』「惟任謀叛記」)。
  • 本能寺の変を知った吉川元春は和睦を反古にして秀吉軍を攻撃することを主張したが、小早川隆景らの反対[注釈 54]によって取り止めになっている。一歩間違えば秀吉は毛利勢と明智勢の挟み撃ちにあった恐れが大であり、現に滝川一益のように本能寺の変が敵方に知られたことにより大敗し領土を失った信長配下の武将も存在し、秀吉がこのような危険を謀略としてあえて意図したとは考えにくい。
    また迅速な撤収も、沼城から姫路城までに限られており、それ以降の光秀との決戦までの行軍は常識的な速度である。姫路城までの迅速な撤収は毛利の追撃を恐れての行動であり、姫路城からは上方の情報収集や加勢を募っての行軍であった。これは、事前に用意した上での行動というよりは、予期せぬ事態への対処とみるのが妥当である。

なお、「豊臣秀吉黒幕説」は、数多い「本能寺の変黒幕説」のひとつに過ぎない(黒幕候補は他にも存在する)し、また「本能寺の変黒幕説」そのものが、明智光秀の謀反の理由として推測されるひとつに過ぎないことは留意する必要がある。明智光秀の謀反の動機が不明で、現在に至るまで定説が確立していないことが、光秀自身以外に動機を求める「豊臣秀吉黒幕説」を含めた黒幕説を生み出す要因となっている。




注釈

  1. ^ 生年は天文5年1月1日1536年2月2日)とも伝わる。
  2. ^ 『江源武鑑』によると六角義秀の偏諱で元吉から秀吉に改めたとあるが、『江源武鑑』は偽書とするのが一般的であり信憑性は薄い。
  3. ^ 木綿のように使い勝手が良く、くたびれにくい、という意味。
  4. ^ 秀吉を馬印を「千成瓢箪」とするのは誤伝。
  5. ^ 『太閤素性記』には元鉄砲足軽であったとの記述があるが、日本で初めて種子島鉄砲が伝わったのが1543年8月であり、同年1月に弥右衛門が亡くなっていることなどから信憑性に疑問が持たれている。
  6. ^ 一説に秀吉自身は仕官以前の放浪時代に針の行商人であったという。
  7. ^ この説を支持している代表的な人物として、歴史学者の石井進が挙げられる。また小和田哲男は、秀吉本人ではなく、その先祖や周囲の人々が非農業民だったのではないかとしている。
  8. ^ 日本家紋研究会高澤等は秀吉の一族が用いる沢瀉紋と、秀吉の通称「藤吉郎」、また姉日秀、妹朝日の夫の出身地などの関係から、水野氏説のある継父竹阿弥を含め、秀吉自身も水野氏族を意識していたのではないかとの説を『歴史読本』に寄稿している。
  9. ^ この説を唱えている代表的な人物として、作家の八切止夫小林久三が挙げられる。歴史小説家加藤廣も、『秀吉の枷』と『空白の桶狭間』の中でこの説を採用している。
  10. ^ 『太閤記』といった秀吉の伝記では、松下之綱烏帽子親となって元服させ、最初は故郷の名を取って中村藤吉郎と名乗り、後に木下に改姓したと書かれている。なお、加兵衛もしくは信長と最初に会った時に「木の下」に立っていたのでこれを名字としたとする俗説は極めて信憑性が薄く、事実ではないと考えられている。
  11. ^ 『太閤素性記』のように、朋輩に妬まれて虐めを受ける藤吉郎を不憫に思った加兵衛が金を与えて送り出した、と書いてある史料が多い。藤吉郎が使いの金を盗んで出奔したとする『甫庵太閤記』や『真書太閤記』などの説もあるが、いずれにせよ真偽は不明である。
  12. ^ 仕官のいきさつについては、信長に直訴した(『太閤記』)、信長に仕えていた友人の紹介(『太閤素性記』)、信長の側室・吉乃の紹介(『武功夜話』)など諸説あり、真相は不明である。
  13. ^ 絵本太閤記』が初出。
  14. ^ 一夜城の逸話はよく知られたものであるが『絵本太閤記』『武功夜話』などを典拠とするこのエピソードは当時の史料に関係する記述がなく、江戸時代の創作であるとする説が強い。
  15. ^ 従来は『信長公記』や『三河物語』に書かれているように秀吉が殿軍を率いたとされてきたが、近年は当時の序列から考えて池田勝正が率いたのではないかともされる。
  16. ^ 井沢元彦は「ハシバ」という音に注目し、「これは“端柴”、つまり柴の木の切れ端を意味し、自分をあえて卑下することで周囲の嫉妬を避ける狙いがあったのではないか」と主張している。[10]
  17. ^ 反対した理由の一つに秀信の母が武田信玄の五女・松姫(信松尼)説の存在がある(『西山家文言覚書秘伝録』)
  18. ^ 当時としては他に類を見ない巨大な要塞だったが、大坂の陣で焼失した。現在の大阪城天守閣は、この秀吉の大坂城と後年江戸幕府によって再建された大坂城の姿を折衷したもので、昭和6年(1931年)に復元した鉄筋コンクリート製の「復興天守」である。
  19. ^ のちに昇進のための辻褄合わせが行われ、従五位下左近権少将叙爵の綸旨は2年さかのぼった天正10年に発給されたことになっている。天正11年5月5日に従四位下参議と任官された文書もあるが、これも同様と見られている。
  20. ^ 多聞院日記』にある、天正12年10月頃朝廷から将軍になるよう勧められたが断ったという記述による。[17]
  21. ^ これを「羽柴」から「豊臣」への改姓と誤解されることが多いが、「羽柴」は名字、「豊臣」は本姓であり、両者は性質が異なる。詳細は「豊臣氏」を参照。
  22. ^ 公卿補任』には12月19日と記載されているが、『兼見卿記』には後陽成天皇即位式当日、式に先立って任官が行われたと記されており、『公卿補任』はその事実を憚ったものと考えられている。[21]
  23. ^ 秀吉は征夷大将軍に就いて幕府を開くために足利義昭に自身を養子にするよう依頼したが断られたために関白を望むに至ったというのは今日では事実ではないと考えられている。林羅山の『豊臣秀吉系譜』や『後鏡』にそうした記述がみられるものの、これを裏付ける史料はない。これが後に武内確斎の『絵本太閤記』に採られて通説となった。
  24. ^ このとき、井伊直政榊原康政大久保忠隣など多くの徳川家臣が豊臣姓で叙位任官されている。[22]
  25. ^ 秀吉の蔵入地222万石というのは多くの直臣に所領を分け与えた残りであり、一方の家康の250万石は直臣に分け与えた所領もあわせての数字であり、純粋な石高で家康が秀吉を上回る訳ではない。家康自身の蔵入地は約100万石であるので秀吉の方が大きい。
  26. ^ 異説では、宮部継潤・前田玄以・中村一氏・堀尾吉晴(堀秀政)・山内一豊の5名。
  27. ^ 高野山に秀次が送られた理由は「不慮之御覚悟」とあるのみで内容は明記されていない。断罪した側がその口実すら記さないという状態で、その他の文書でもぼかした表現のものしか存在しない。秀次が謀反を起こしたというのは『御湯殿上日記』や『伊達文書』という一次史料ではあるものの豊臣家の外の記録が根拠とされている。
  28. ^ 事件後に使者となった奉行衆は加増されており、石田三成らは秀次の助命に動いたという説がある一方で、その逆に秀吉の意を汲んで秀次を亡き者にすべく謀反を捏造したという陰謀説もあり、相反する評価がある。
  29. ^ 摂政関白をもじったもの。太田牛一『大かうさまくんきのうち』で初めて登場。正親町上皇が崩御の後に秀次は喪に服さずに鹿狩りをしたということから「院の御所に たむけのための 狩なれば これをせつせう 関白といふ」と落首が詠まれたという逸話から来ているが、この句自体は後世の作とされ、また鹿狩りをしたのは実際には秀次ではなく秀吉であったとする説もある。太田牛一の書いたものが小瀬甫庵の『太閤記』など他のほぼ全ての出典元となっているが、秀次と最も親しかった公家山科言経の日記に符合する記述がないことなどが指摘され、後述する史家はそもそも殺生関白と当時の人々に呼ばれていたのかに疑念を呈しており、議論がある。
  30. ^ フランス生まれのイエズス会宣教師。秀次の逸話は実際に秀次と親しくしていたブロエー師の記述から得た話としている。
  31. ^ 同書には、その後、秀次は悪行を止めたが、誓紙を交わすなどして味方を集めるなどして具体的に謀反を計画したと疑われ、最終的には謀反のかどで処罰されたという話になっている。
  32. ^ 著者のアルノルドゥス・モンタヌス(宣教師兼歴史学者)はクラッセよりもさらに7年後に生まれた人物で、およそ1世紀後に文書記録を元にしてこの本をまとめている。
  33. ^ 江戸時代前期の歴史学は儒学者を中心として行われ、儒学思想に基づいた解釈が強い影響を与えた。
  34. ^ 國學院大学講師
  35. ^ 現在、阿弥陀ヶ峰山頂には伊東忠太の設計になる巨大な石造五輪塔が建っているが、この工事の時(明治30年)、土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸とおぼしきものが発見された。[46]
  36. ^ 秀吉の死の直後の8月22日に方広寺大仏境内三十三間堂を会場として大規模な千僧供養が実施されている。参会者にも知らされなかったが、これが実質的に仏式による供養(葬儀)であったと考えられる。事情を察してか前日には多くの民衆が大仏に集まったという。(『義演准后日記』)
  37. ^ 架空の葬儀として描かれた『豊太閤御葬式之図』が残っている[49]
  38. ^ a b 1582年10月4日以前はユリウス暦、それ以降はグレゴリオ暦。日付は宣明暦長暦。
  39. ^ これと次の任官は、『公卿補任』では天正10,11年のこととされているが、事実ではなく秀吉の急激な昇進を辻褄合わせするために書かれたものだと考えられている朝尾直弘『大系日本の歴史8天下一統』小学館ライブラリー、pp.199-201
  40. ^ 当時の百姓身分は農業や手工業の比較的規模の大きい経営者階層であり、この層に出自する者が地侍などの形で武士身分に食い込みを図るときには、勢力地盤となっている村の名前などを苗字とするのが普通であるし、そもそもこの階層は惣村共同体の足軽中で通用する程度に権威のある私称の苗字を保持しているのが通例だった。それすらも自前で名乗る地盤を持たなかったとすれば、秀吉の出自は百姓身分ですらない、さらに下層の出身者である可能性がある。
  41. ^ 井沢はさらに「秀吉」という名前も、「稗よし(稗くらいは良く食べられますように)」という当時の貧民層に見られた名前を変えたもので、これも自分をへりくだるための命名だと推測している。
  42. ^ 『フロイス日本史』に「300名の側室を抱えていた」と記録がある。だが、『伊達世臣家譜』には「秀吉、愛妾十六人あり」という記述が見られる。歴史学者の桑田忠親も、秀吉の正式な側室は20人足らずだと推定している。フロイスが挙げた数字は、側室の世話をする女官も含めた数字とするのが自然である。また、大名から取った人質を愛人として囲っていると宣教師が誤認した可能性もある。
  43. ^ 「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味の皮肉。
  44. ^ 前田利家の回想録
  45. ^ 漫画『センゴク』『シグルイ』に登場する秀吉は六指である。
  46. ^ 朝鮮の古文書『燃黎室記述』による。ただし沈惟敬が日本に来たのは慶長元年(1596年)で、秀吉が死亡したのはその3年後である。
  47. ^ 「伝源頼朝坐像」(重要文化財)、現在は東京国立博物館所蔵。「e国宝」に画像と解説あり。
  48. ^ 秀吉が親孝行であったことは明治時代国定教科書でも好意的に記述された。
  49. ^ 織田信長と長谷川秀一武田信玄と小姓・春日源助
  50. ^ 『信長公記』。『絵本太閤記』では、謙信の武勇を軽視した勝家に対する面当てだったとされる。
  51. ^ 秀吉の和歌は、八条宮智仁親王によって『豊臣太閤御詠草』として編纂された。
  52. ^ 歴史学者桑田忠親は、当時の私的な書状では慣例的に当て字や仮名が使用されるのは当然で、秀吉が無教養なためではないとした。
  53. ^ 相次ぐ対外戦争による財政的問題、豊後の大友宗麟や山陰の南条元続たちへの備えといった理由による。
  54. ^ 『萩藩閥閲録』などによれば、毛利・小早川勢には信長・信忠・信孝が既に討たれ、謀反に加担した者は光秀の他に津田信澄・柴田勝家らがいるとの情報(誤報)が入っていた。仮に秀吉軍を追撃して破ったところで、柴田・津田らの軍勢を含めた明智勢と再度事を構えるまでの余裕はないため、追撃を諦め、正確な情報が入るまで静観するべきだという結論に至ったと考察されている(谷口克広説など)。
  55. ^ 織田信長も誠仁親王の第五王子の興意法親王を猶子としていた。
  56. ^ 豊臣政権は座の撤廃も積極的に行った。大村由己の『秀吉事記』の「座を破らる」という記述から、研究者の中には秀吉の楽座を特に「破座」と呼んで区別する者もいるが、実際にはこの記述がある1585年には秀吉はまだ前田玄以に命じて畿内の座を安堵する文書も発給していた。[78]
  57. ^ 秀吉は織田政権下ではまだ存在していた七口の関を廃止しているが、一方で徳川家康の領地の関所は廃止された形跡がなく、江戸時代までそのまま存続していた。[79]
  58. ^ アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1582年12月14日のフィリピン総督宛の書簡において、明征服のためには日本でキリスト教徒を増やし、彼らを兵として用いることを進言している。また、ペドロ・デ・ラ・クルスは、1599年2月25日付けのイエズス会総会長宛ての書簡で、日本は海軍力が弱く、スペイン海軍をもってすれば九州または四国を征服できると進言している。当時の西洋の強国にとって、武力で手に入れた港を拠点とし、そしてさらなる征服を進めるのが常套手段であり、ポルトガルは、ゴア、マラッカ、マカオをこの方法で征服している[84]
  59. ^ 当時は神功皇后の三韓征伐が史実と考えられていたし、また鎌倉時代の『曽我物語』(妙本寺本)においても日本の西の果てを「鬼界・高麗・硫黄嶋」と記している。秀吉のこうした振舞いは朝鮮を惣無事令などの日本の法令の適用対象として認識していた可能性を示している。
  60. ^ 秀吉側近の山中長俊の書状「組屋文書」による[89]
  61. ^ さらに南蛮つまりヨーロッパや西アジアまでを射程にいれていたとする説もある(佐藤信淵『宇内混同秘策』)。
  62. ^ 当時、台湾に存在するとされた国
  63. ^ 生誕の地には、1967年(昭和42年)に開館した豊清二公顕彰館がリニューアルされた、名古屋市秀吉清正記念館が存在する。また、名古屋まつりでは毎年織田信長・徳川家康とともに彼に扮した人物がパレードする。
  64. ^ 大阪では秀吉に言及する時には「太閤さん」と呼ばれることも多く、住之江競艇のGIレース「太閤賞」など秀吉にちなんだ文物も多い。江戸期の大坂商業発達の基盤を築いたという見方も強い。
  65. ^ 外苑部分は破却された。

出典

  1. ^ 特別展 三英傑と名古屋”. 名古屋市博物館. 2015年11月17日閲覧。
  2. ^ 『信長・秀吉・家康―天下統一と戦国の三英傑』 学研〈歴史群像シリーズ〉、2006年。ISBN 978-4-056-04248ー1。
  3. ^ a b c d 池上, pp. 147-149
  4. ^ a b 小和田 1985, p. 44
  5. ^ 小和田 1985, pp. 50-52.
  6. ^ a b 田端.
  7. ^ 桑田忠親『女性の名書簡』(東京堂出版、1993年)
  8. ^ 『坪内系譜』
  9. ^ 小和田哲男『豊臣秀吉』(中公新書)P103
  10. ^ 井沢元彦 『逆説の日本史 11 戦国乱世編』 小学館 2004年
  11. ^ 桑田忠親『太閤の手紙』31頁、天正元年十二月廿二日秀吉書状
  12. ^ 太田牛一; 中川太古 『現代語訳 信長公記』 (Kindle版) 中経出版〈新人物文庫〉、2013年、182頁。 ASIN B00G6E8E7A
  13. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、11頁〜[要ページ番号]
  14. ^ a b 尾下成敏「清洲会議後の政治過程-豊臣政権の始期をめぐって-」(『愛知県史研究』10号、2006年)
  15. ^ 口宣案(足守木下家文書)(山陽新聞社 1982, p. 13)[写真掲載あり]
  16. ^ 堀新 「信長・秀吉の国家構想と天皇」『日本の時代史 (13) 天下統一と朝鮮侵略』 吉川弘文館、2003年、ISBN 4642008136
  17. ^ 『NHK歴史番組を斬る!』鈴木眞哉 P.154-155 洋泉社歴史新書 2012年
  18. ^ 宣旨(足守木下家文書)(山陽新聞社 1982, p. 18)[写真掲載あり]
  19. ^ 秀吉、重臣にくどくど 天下統一前などの書状33通見つかる”. 東京新聞. 2016年2月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年2月6日閲覧。
  20. ^ 秀吉、信長を呼び捨て。公開の書状で権威誇る。”. 神戸新聞NEXT. 2016年1月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年1月26日閲覧。
  21. ^ 橋本政宣『近世公家社会の研究』
  22. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年[要ページ番号]
  23. ^ 村川浩平『日本近世武家政権論』近代文芸社、2000年、49-60頁。
  24. ^ a b 白峰旬、「『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における織田信長・豊臣秀吉・豊臣秀頼・徳川家康・徳川秀忠に関するイエズス会宣教師の認識について」、p.8、別府大学大学院紀要 (17)、別府大学会、2015年。
  25. ^ 黒田基樹 「小田原城開城へ」『小田原合戦と北条氏』 吉川弘文館〈敗者の日本史 10〉、2013年1月、197-215頁。ISBN 978-4-642-06456-9
  26. ^ 渡辺 1919, pp. 94-95.
  27. ^ a b c 小和田哲男 『豊臣秀次:「殺生関白」の悲劇』 PHP新書、2002年ISBN 456962104X 
  28. ^ 徳富 1935, pp. 205-208; 渡辺 1919, pp. 95-96.
  29. ^ 徳富 1935, p. 215.
  30. ^ 徳富 1935, pp. 212-214.
  31. ^ 西村真次 国立国会図書館デジタルコレクション 『安土桃山時代』 早稲田大学出版部〈国民の日本史;第8編〉、1922年、pp.588-591頁http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/969928/330 国立国会図書館デジタルコレクション 
  32. ^ a b クラツセ 1925, pp.574-587
  33. ^ 渡辺 1919, pp. 113-115.
  34. ^ 徳富 1935, pp. 244-245.
  35. ^ 徳富 1935, p. 223.
  36. ^ アルヌルヅス・モンタヌス 国立国会図書館デジタルコレクション 『モンタヌス日本誌』 丙午出版社、1925年http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020052/155 国立国会図書館デジタルコレクション 
  37. ^ 渡辺 1919, pp. 106-108.
  38. ^ 宮本義己「豊臣政権の番医―秀次事件における番医の連座とその動向―」(『国史学』133号、1987年)
  39. ^ 宮本義己「豊臣政権における太閤と関白―豊臣秀次事件の真因をめぐって―」(『國學院雑誌』89巻11号、1988年)
  40. ^ & 谷口.
  41. ^ 松田毅一『秀吉の南蛮外交』新人物往来社、昭和47年、227-228頁
  42. ^ 『立花家文書』他「慶長二年二月二十一日付朱印状」
  43. ^ 『日本戦史 朝鮮役』/日本陸軍参謀本部393項
  44. ^ 『立花家文書』「慶長三年三月十三日付朱印状」、『鍋島家文書』「慶長三年五月二十二日付朱印状」等
  45. ^ 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ』付録
  46. ^ 湯本文彦『豊太閤改葬始末』「史学雑誌17-1」1909所収
  47. ^ 吉田神主二位兼見承號豊國大明神與。日本之總名豊葦原中津國ト云ヘル故也。 続群書類従第三輯上 神祇部p.225『豊國大明神祭禮記』
  48. ^ 河内将芳『秀吉の大仏造立』
  49. ^ 豊太閤御葬式之図
  50. ^ 『押小路文書』
  51. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
  52. ^ 『完訳フロイス日本史5 「暴君」秀吉の野望』第34章
  53. ^ 近江坂田郡誌
  54. ^ 『完訳フロイス日本史4 秀吉の天下統一と高山右近の追放』第16章
  55. ^ 『完訳フロイス日本史4 秀吉の天下統一と高山右近の追放』第14章
  56. ^ 藤田達生
  57. ^ 「徳川美術館」 織田信長書状 おね宛て(個人蔵) : 平成19年度企画展示 天下取りへの道 戦国の武将たち”. 2011年6月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年1月7日閲覧。
  58. ^ 三上 1915, p. 168.
  59. ^ 井沢元彦『逆説の日本史11 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎』小学館、2004年) p,8
  60. ^ 松田毅一『西洋との出会い(上)』(大阪書籍、1982年)、p.142
  61. ^ 渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社、2013年),85-86p
  62. ^ 跡部信『豊臣秀吉と大坂城』(吉川弘文館、2014年)9p
  63. ^ 服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社、2012年)p,572
  64. ^ 東大史料編纂所写真集、十八表―裏
  65. ^ 『日本西教史』
  66. ^ 『駒井日記』
  67. ^ 脳神経外科医若林利光『寿命戦争 - 武将列伝 』 (かりばね書房、2009年
  68. ^ 平凡社『大百科事典』
  69. ^ 曲直瀬玄朔『医学天正記』。
  70. ^ 『日本史人物辞典』70頁
  71. ^ 『戦国人物700傑』119頁
  72. ^ 『家康名臣伝』255頁
  73. ^ 林屋辰三郎「豊臣秀吉」『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞出版。
  74. ^ 桑田忠親 『豊臣秀吉の発想力と知謀』 広済堂文庫、1990年、222頁。ISBN 4-331-65065-0
  75. ^ 矢部良明 『茶人豊臣秀吉』 角川選書、2002年、255-261頁。ISBN 978-4047033474
  76. ^ SAPIO2011年1月6日号
  77. ^ 井沢元彦『逆説の日本史11 戦国乱世編 朝鮮出兵と秀吉の謎』
  78. ^ 脇田修 『秀吉の経済感覚 経済を武器とした天下人』 中公新書、1991年、112-123頁。ISBN 978-4121010155
  79. ^ 平山優『天正壬午の乱』学習研究社、2011年
  80. ^ その時歴史が動いた「戦国北条氏 百年王国の夢」
  81. ^ 石高制”. 2016年3月18日閲覧。
  82. ^ 朝尾直弘『近世とはなにか』
  83. ^ 池上裕子『日本中近世移行期論』
  84. ^ 高橋裕史『イエズス会の世界戦略』講談社、1999年
  85. ^ 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ』付録
  86. ^ 『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ』第34章
  87. ^ 『妙法院文書』
  88. ^ a b 清水紘一「博多基地化構想をめぐって -天正禁教令との関連を中心として-」(藤野保先生還暦記念会編 『近世日本の政治と外交』 雄山閣、1993年、ISBN 4639011954
  89. ^ a b 『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年、43頁
  90. ^ 『秀吉と文禄・慶長の役』 佐賀県立名護屋城博物館、2007年、16頁
  91. ^ 木村展子 「四天王寺の慶長再建について」 『美術史論集』 (9), 21-33, 2009-02
  92. ^ a b 三鬼清一郎 「豊国社の造営に関する一考察」『名古屋大学文学部研究論集』第98号、1987、206頁
  93. ^ 故従一位豊臣秀吉贈位ノ件』 アジア歴史資料センター Ref.A11112488700 
  94. ^ 鄭潔西「秀吉の中国人説について
  95. ^ 高野山戦国大名の墓
  96. ^ 新発見「豊臣期大坂図屛風」の魅力関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター、2009年3月31日







豊臣秀吉と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

豊臣秀吉に関連した本

辞書ショートカット

カテゴリ一覧

全て

ビジネス

業界用語

コンピュータ

電車

自動車・バイク

工学

建築・不動産

学問

文化

生活

ヘルスケア

趣味

スポーツ

生物

食品

人名

方言

辞書・百科事典

すべての辞書の索引

「豊臣秀吉」の関連用語

豊臣秀吉のお隣キーワード

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   
検索ランキング

画像から探す

宮沢海水浴場

神子元島灯台

雛菊桜

輓曳競馬

デ・ハビランド式DHC-8-103型

高度道路交通システム

さんとす丸

バクトロサウルス・ジョンソニ





豊臣秀吉のページの著作権
Weblio 辞書情報提供元は参加元一覧にて確認できます。

  
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの豊臣秀吉 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2017 Weblio RSS