豊太閤とは? わかりやすく解説

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ほう‐たいこう〔‐タイカフ〕【豊太閤】

読み方:ほうたいこう

豊臣秀吉敬称


豊太閤

読み方:ホウタイコウ(houtaikou)

作者 山路愛山

ジャンル 史伝


豊臣秀吉

(豊太閤 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/10 06:01 UTC 版)

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、旧字体豐臣 秀吉)は、戦国時代 - 安土桃山時代日本武将戦国大名公卿天下人、(初代)武家関白太閤三英傑の一人[3][4]織田信長の後を継いで天下を統一し、近世封建社会の基礎を築いた[5]官位従一位関白太政大臣、贈正一位


注釈

  1. ^ 生年は天文5年1月1日1536年2月2日)とも江戸時代にされている(『太閤素性記』)。
  2. ^ 木綿のように使い勝手が良く、くたびれにくい、という意味。
  3. ^ 秀吉の馬印を「千成瓢箪」とするのは誤伝。
  4. ^ 『太閤素性記』には元鉄砲足軽であったとの記述があるが、日本で初めて種子島鉄砲が伝わったのが1543年8月であり、同年1月に弥右衛門が亡くなっていることなどから信憑性に疑問が持たれている。
  5. ^ 一説に秀吉自身は仕官以前の放浪時代に針の行商人であったという。
  6. ^ この説を支持している代表的な人物として、歴史学者の石井進が挙げられる。また小和田哲男は、秀吉本人ではなく、その先祖や周囲の人々が非農業民だったのではないかとしている。
  7. ^ 日本家紋研究会高澤等は秀吉の一族が用いる沢瀉紋と、秀吉の通称「藤吉郎」、また姉日秀、妹朝日の夫の出身地などの関係から、水野氏説のある継父竹阿弥を含め、秀吉自身も水野氏族を意識していたのではないかとの説を『歴史読本』に寄稿している。
  8. ^ この説を唱えている代表的な人物として、作家の八切止夫小林久三が挙げられる。歴史小説家加藤廣も、『秀吉の枷』と『空白の桶狭間』の中でこの説を採用している。
  9. ^ 『太閤記』といった秀吉の伝記では、松下之綱烏帽子親となって元服させ、最初は故郷の名を取って中村藤吉郎と名乗り、後に木下に改姓したと書かれている。なお、加兵衛もしくは信長と最初に会った時に「木の下」に立っていたのでこれを名字としたとする俗説は極めて信憑性が薄く、事実ではないと考えられている。
  10. ^ 『太閤素性記』のように、朋輩に妬まれて虐めを受ける藤吉郎を不憫に思った加兵衛が金を与えて送り出した、と書いてある史料が多い。藤吉郎が使いの金を盗んで出奔したとする『甫庵太閤記』や『真書太閤記』などの説もあるが、いずれにせよ真偽は不明である。
  11. ^ 仕官のいきさつについては、信長に直訴した(『太閤記』)、信長に仕えていた友人の紹介(『太閤素性記』)、信長の側室・吉乃の紹介(『武功夜話』)など諸説あり、真相は不明である。
  12. ^ 絵本太閤記』が初出。
  13. ^ 森家先代実録』によると、名古屋因幡守(名古屋山三郎の父)がねねの父を説得し、信長にも秀吉のことを執り成したとする。因幡守の妻・養雲院がねねに読み書きを教えていたからだという。そのため因幡守の死後、養雲院は秀吉から知行をもらい京都四条の屋敷で栄耀に暮らしたとする。因幡守の娘(お岩)は弟・秀長の嫡男小一郎の正室となったが、夭折したため森忠政に再嫁した。[信頼性要検証]
  14. ^ 一夜城の逸話はよく知られたものであるが『絵本太閤記』『武功夜話』などを典拠とするこのエピソードは当時の史料に関係する記述がなく、江戸時代の創作であるとする説が強い。
  15. ^ ともに川並衆とも言われるが、「川並衆」の記述がある文書は『武功夜話』のみの為、呼び名に関して創作説がある。
  16. ^ 従来は『信長公記』や『三河物語』に書かれているように秀吉が殿軍を率いたとされてきたが、近年は当時の序列から考えて池田勝正が率いたのではないかともされる。
  17. ^ 反対した理由の一つに秀信の母が武田信玄の五女・松姫(信松尼)説の存在がある(『西山家文言覚書秘伝録』)。また、勝家が三法師の後継に反対したという話は『川角太閤記』の創作によるもので、事実ではないとする説もある[27]
  18. ^ 当時としては他に類を見ない巨大な要塞だったが、大坂の陣で焼失した。現在の大阪城天守閣は、この秀吉の大坂城と後年江戸幕府によって再建された大坂城の姿を折衷したもので、昭和6年(1931年)に復元した鉄筋コンクリート製の「復興天守」である。
  19. ^ のちに昇進のための辻褄合わせが行われ、従五位下・左近権少将叙爵の綸旨は2年さかのぼった天正10年に発給されたことになっている。天正11年5月5日に従四位下・参議と任官された文書もあるが、これも同様と見られている。
  20. ^ 多聞院日記』にある、天正12年(1584年)10月16日条で、朝廷から将軍になるよう勧められたが断ったという記述による[37][38]
  21. ^ 家康は翌年7月にも真田領への侵攻を計画するが、秀吉が諫めたことで未遂に終わっている[40]
  22. ^ これを「羽柴」から「豊臣」への改姓と誤解されることが多いが、「羽柴」は名字、「豊臣」は本姓であり、両者は性質が異なる。詳細は「豊臣氏」を参照。
  23. ^ 公卿補任』には12月19日と記載されているが、『兼見卿記』には後陽成天皇即位式当日、式に先立って任官が行われたと記されており、『公卿補任』はその事実を憚ったものと考えられている[44]
  24. ^ 秀吉は征夷大将軍に就いて幕府を開くため足利義昭に自身を養子にするよう依頼したが断られたために関白を望むに至ったというのは今日では事実ではないと考えられている。林羅山の『豊臣秀吉系譜』や『後鏡』にそうした記述がみられるものの、これを裏付ける史料はない。これが後に武内確斎の『絵本太閤記』に採られて通説となった。
  25. ^ 天正地震の結果、家康側もこれ以上の戦争継続が困難となり、天正14年正月の織田信雄の岡崎城訪問による説得を受け入れて秀吉に降伏と臣従の意思を伝えたとする説もある[45]。この説では朝日姫と家康の婚姻も、家康の臣従を前提にした関係締結とされる。
  26. ^ このとき、井伊直政榊原康政大久保忠隣など多くの徳川家臣が豊臣姓で叙位任官されている[46]
  27. ^ 豊臣秀吉は「人心鎮撫の策」として、遊女屋の営業を積極的に認め、京都に遊廓を造った。1585年に大坂三郷遊廓を許可。89年京都柳町遊里(新屋敷)=指定区域を遊里とした最初である。秀吉も遊びに行ったという。オールコックの『大君の都』によれば、「秀吉は・・・・部下が故郷の妻のところに帰りたがっているのを知って、問題の制度(遊廓)をはじめたのである」やがて「その制度は各地風に望んで蔓延して伊勢の古市、奈良の木辻、播州の室、越後の寺泊、瀬波、出雲碕、その他、博多には「女膜閣」という唐韓人の遊女屋が出来、江島、下関、厳島、浜松、岡崎、その他全国に三百有余ヶ所の遊里が天下御免で大発展し、信濃国善光寺様の門前ですら道行く人の袖を引いていた。」 [71]のだという。
  28. ^ 秀吉の蔵入地222万石というのは多くの直臣に所領を分け与えた残りであり、一方の家康の250万石は直臣に分け与えた所領もあわせての数字であり、純粋な石高で家康が秀吉を上回る訳ではない。家康自身の蔵入地は約100万石であるので秀吉の方が大きい。
  29. ^ 異説では、宮部継潤・前田玄以・中村一氏・堀尾吉晴(堀秀政)・山内一豊の5名。
  30. ^ 高野山に秀次が送られた理由は「不慮之御覚悟」とあるのみで内容は明記されていない。断罪した側がその口実すら記さないという状態で、その他の文書でもぼかした表現のものしか存在しない。秀次が謀反を起こしたというのは『御湯殿上日記』や『伊達文書』という一次史料ではあるものの豊臣家の外の記録が根拠とされている。
  31. ^ 事件後に使者となった奉行衆は加増されており、石田三成らは秀次の助命に動いたという説がある一方で、その逆に秀吉の意を汲んで秀次を亡き者にすべく謀反を捏造したという陰謀説もあり、相反する評価がある。
  32. ^ 摂政関白をもじったもの。太田牛一『大かうさまくんきのうち』で初めて登場。正親町上皇が崩御の後に秀次は喪に服さずに鹿狩りをしたということから「院の御所に たむけのための 狩なれば これをせつせう 関白といふ」と落首が詠まれたという逸話から来ているが、この句自体は後世の作とされ、また鹿狩りをしたのは実際には秀次ではなく秀吉であったとする説もある。太田牛一の書いたものが小瀬甫庵の『太閤記』など他のほぼ全ての出典となっているが、秀次と最も親しかった公家山科言経の日記に符合する記述がないことなどが指摘され、後述する史家はそもそも殺生関白と当時の人々に呼ばれていたのかに疑念を呈しており、議論がある。
  33. ^ フランス生まれのイエズス会宣教師。秀次の逸話は実際に秀次と親しくしていたブロエー師の記述から得た話としている。
  34. ^ 同書には、その後、秀次は悪行を止めたが、誓紙を交わすなどして味方を集めるなどして具体的に謀反を計画したと疑われ、最終的には謀反のかどで処罰されたという話になっている。
  35. ^ 著者のアルノルドゥス・モンタヌス(宣教師兼歴史学者)はクラッセよりもさらに7年後に生まれた人物で、およそ1世紀後に文書記録を元にしてこの本をまとめている。
  36. ^ 江戸時代前期の歴史学は儒学者を中心として行われ、儒学思想に基づいた解釈が強い影響を与えた。
  37. ^ 現在、阿弥陀ヶ峰山頂には伊東忠太の設計になる巨大な石造五輪塔が建っているが、この工事の時(明治30年)、土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸とおぼしきものが発見された[112]
  38. ^ 秀吉の死の直後の8月22日に方広寺大仏境内三十三間堂を会場として大規模な千僧供養が実施されている。参会者にも知らされなかったが、これが実質的に仏式による供養(葬儀)であったと考えられる。事情を察してか前日には多くの民衆が大仏に集まったという(『義演准后日記』)。
  39. ^ 架空の葬儀として描かれた『豊太閤御葬式之図』が残っている[114]
  40. ^ a b 1582年10月4日以前はユリウス暦、それ以降はグレゴリオ暦。日付は宣明暦長暦。
  41. ^ これと次の任官は、『公卿補任』では天正10、11年のこととされているが、事実ではなく秀吉の急激な昇進を辻褄合わせするために書かれたものだと考えられている[115]
  42. ^ なお、おねは従一位に昇進した際に朝廷から「豊臣吉子」の名を賜っている(高台寺文書)[120]
  43. ^ 当時の百姓身分は農業や手工業の比較的規模の大きい経営者階層であり、この層に出自する者が地侍などの形で武士身分に食い込みを図るときには、勢力地盤となっている村の名前などを苗字とするのが普通であるし、そもそもこの階層は惣村共同体の足軽中で通用する程度に権威のある私称の苗字を保持しているのが通例だった。それすらも自前で名乗る地盤を持たなかったとすれば、秀吉の出自は百姓身分ですらない、さらに下層の出身者である可能性がある。
  44. ^ 井沢はさらに「秀吉」という名前も、「稗よし(稗くらいは良く食べられますように)」という当時の貧民層にみられた名前を変えたもので、これも自分をへりくだるための命名だと推測している。
  45. ^ 『フロイス日本史』に「300名の側室を抱えていた」と記録がある。だが、『伊達世臣家譜』には「秀吉、愛妾十六人あり」という記述が見られる。歴史学者の桑田忠親は、秀吉の正式な側室は20人足らずだと推定している。フロイスが挙げた数字は、側室の世話をする女官を含めた数字とするのが自然である。また、大名から取った人質を愛人として囲っていると宣教師が誤認した可能性もある。
  46. ^ 「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味の皮肉。
  47. ^ 前田利家の回想録。
  48. ^ 漫画『センゴク』『シグルイ』に登場する秀吉は六指である。
  49. ^ 朝鮮の古文書『燃藜室記述』による。ただし沈惟敬が日本に来たのは慶長元年(1596年)で、秀吉が死亡したのはその2年後である。
  50. ^ 「伝源頼朝坐像」(重要文化財)、現在は東京国立博物館所蔵。重要文化財 伝源頼朝坐像 「e国宝」に画像と解説あり。
  51. ^ 織田信長と長谷川秀一武田信玄と小姓・春日源助など。
  52. ^ 『信長公記』。『絵本太閤記』では、謙信の武勇を軽視した勝家に対する面当てだったとされる。
  53. ^ 秀吉の和歌は、八条宮智仁親王によって『豊臣太閤御詠草』として編纂された。
  54. ^ 現実には千利休は、天正19年(1591年)切腹を命じられ死んでいる。
  55. ^ 増川宏一は算砂が「信長に名人とされたこと」「秀吉に仕えたこと」、いずれも否定している。
  56. ^ 相次ぐ対外戦争による財政的問題、豊後の大友宗麟や山陰の南条元続たちへの備えといった理由による。
  57. ^ 『萩藩閥閲録』などによれば、毛利・小早川勢には信長・信忠・信孝が既に討たれ、謀反に加担した者は光秀の他に津田信澄・柴田勝家らがいるとの情報(誤報)が入っていた。仮に秀吉軍を追撃して破ったところで、柴田・津田らの軍勢を含めた明智勢と再度事を構えるまでの余裕はないため、追撃を諦め、正確な情報が入るまで静観するべきだという結論に至ったと考察されている(谷口克広説など)。
  58. ^ 織田信長も誠仁親王の第五王子の興意法親王を猶子としていた。
  59. ^ 豊臣政権は座の撤廃も積極的に行った。大村由己の『秀吉事記』の「座を破らる」という記述から、研究者の中には秀吉の楽座を特に「破座」と呼んで区別する者もいるが、実際にはこの記述がある1585年には秀吉はまだ前田玄以に命じて畿内の座を安堵する文書も発給していた[162]
  60. ^ 秀吉は織田政権下ではまだ存在していた七口の関を廃止しているが、一方で徳川家康の領地の関所は廃止された形跡がなく、江戸時代までそのまま存続していた[163]
  61. ^ 東京大学史料編纂所HP「近世史料部」参照。
  62. ^ アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1582年12月14日のフィリピン総督宛の書簡において、明征服のためには日本でキリスト教徒を増やし、彼らを兵として用いることを進言している。また、ペドロ・デ・ラ・クルスは、1599年2月25日付けのイエズス会総会長宛ての書簡で、日本は海軍力が弱く、スペイン海軍をもってすれば九州または四国を征服できると進言している。当時の西洋の強国にとって、武力で手に入れた港を拠点とし、そしてさらなる征服を進めるのが常套手段であり、ポルトガルは、ゴア、マラッカ、マカオをこの方法で征服している[204]
  63. ^ スペインはサンフランシスコ会、ポルトガルはイエズス会を
  64. ^ 当時は神功皇后の三韓征伐が史実と考えられていたし、また鎌倉時代の『曽我物語』(妙本寺本)においても日本の西の果てを「鬼界・高麗・硫黄嶋」と記している。秀吉のこうした振舞いは朝鮮を惣無事令などの日本の法令の適用対象として認識していた可能性を示している。
  65. ^ 秀吉側近の山中長俊の書状「組屋文書」による[214]
  66. ^ さらに南蛮つまりヨーロッパや西アジアまでを射程にいれていたとする説もある(佐藤信淵『宇内混同秘策』)。
  67. ^ 当時、台湾に存在するとされた国。
  68. ^ 本能寺の変の後に、父・恒興と秀吉との間に輝政が養子になること、恒興の娘(若政所)が秀次に嫁がせることが取り決められた。輝政は信長の大徳寺での葬儀の際、同じ秀吉の養子である羽柴秀勝と共に棺を担いでいる。
  69. ^ 他奉行が従五位下なのに対して、朝廷や寺社との交渉を主に担当の前田は四品の民部卿と一回り高い官位[要出典]
  70. ^ 外苑部分は破却された。

出典

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