天下統一
天下統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 08:08 UTC 版)
司馬炎は王濬を都督益梁二州諸軍事に任命し、王濬と唐彬は継続して東方へ軍隊を進め、巴丘を攻略し、また胡奮と王戎には共に、夏口・武昌から長江を下り建業を攻撃するよう命令した。また、別動隊として杜預は南下し、零陵・桂陽・衡陽を占領した。王濬はこのとき、命令に従い夏口を攻略し、その後、王戎とともに武昌を奪取したため、晋軍の主力は長江の上流地域を完全に制圧した。 3月、王濬軍は三山に達した。孫晧は張象に軍を率いさせ抵抗を試みたが、呉の将兵に既に戦意はなく、旗を振り晋軍に投降した。このため孫晧は、さらに陶濬に2万の軍を率いさせ抵抗しようとしたが、その兵たちも出撃前に殆どが逃亡した。ここに至り、呉には守備する将兵がいなくなってしまい、各方面から進撃した晋軍は建業に到達した。孫晧は薛瑩・胡沖の計略により、投降する旨の書を持った使者を王濬・司馬伷・王渾に派遣し、離間策を試みたが徒労に終わった。3月15日、孫晧は片肌を脱いで後ろ手に縛らせた格好(肉袒面縛)で投降、王濬は捷報を上表した。 呉の滅亡により、後漢末期から続いていた群雄割拠・三国鼎立の時代は終わり、中国はふたたび統一国家となった。 晋の勝利の情報が司馬炎に届くと、司馬炎は涙を流して盃を取り交わし、「これは羊太傅(羊祜)の成功なり、惜しむらくは、彼が自分自身で見ることができなかったことだ(此羊太傅之功也、惜其不親見之耳)」と言った。また、呉から晋に投降して驃騎将軍に任命されていた孫秀は、朝廷から帰る時に長江がある南の方向を向き、「昔、討逆将軍(孫策)が壮年時代に一校尉から呉を作り上げた。しかし、今、孫晧が降伏することで江南を捨てる!悠悠なるかな蒼天、孫晧は何と言う暗君か(昔討逆壮年、以一校尉創立基業;今孫晧挙江南而棄之!悠悠蒼天,此何人哉!)」と泣きながら言った。 1985年、南京市(ほぼ建業に相当)で「大歳庚子晋平呉天下大平」と刻印された墓の磚が発掘された。西晋の統一から間も無い時期に作られたと推定されている。
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天下統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 16:17 UTC 版)
項羽は東へ引き上げ、劉邦も西へ引き上げようとしていたが、張良と陳平は退却する項羽の軍を攻めるよう進言した。もしここで両軍が引き上げれば楚軍は再び勢いを取り戻し、漢軍はもはやこれに対抗できないだろうというのである。劉邦はこれを容れて、項羽軍の後方を襲った。 劉邦は同時に、韓信と彭越に対しても兵士を連れて項羽攻撃に参加するように要請したが、どちらも来なかった。劉邦が恩賞の約束をしなかったからである。張良にそれを指摘された劉邦は思い切って韓信と彭越に大きな領地の約束をし、韓信軍と彭越軍を加えた劉邦軍は一気に膨張した。項羽に対して有利な立場に立ったことで、その他の諸侯の軍も雪崩をうって劉邦に味方し、ついに項羽を垓下に追い詰めた。 追い詰めはしたものの、やはり項羽と楚兵は勇猛であり、漢軍は連日大きな犠牲を出した。このため張良と韓信は無理に攻めず包囲しての兵糧攻めを行い、楚軍を崩壊させた。項羽は残った少数の兵を伴い包囲網を突破したが、楚へ逃亡することを潔しとせず、途中で漢の大軍と戦って自害した(垓下の戦い)。遂に項羽を倒した劉邦は、いまだ抵抗していた魯を下し、残党たちの心を静めるために項羽を厚く弔った。 紀元前202年、劉邦は群臣の薦めを受けて、ついに皇帝に即位した。 論功行賞をした際、戦場の功のある曹参を第一に推す声が多かったが、劉邦はそれを退けて蕭何を第一とした。常に敗れ続けた劉邦は、蕭何が常に用意してくれた兵員と物資がなければとっくの昔に滅び去っていたことを知っていたのである。また韓信を楚王に、彭越を梁王に封じた。張良にも3万戸の領地を与えようとしたが、張良はこれを断った。また、劉邦を裏切って魏咎に就くなど、挙兵時から邪魔をし続けながら、最後はまたぬけぬけと漢中陣営に加わり、功こそあれど劉邦が殺したいほど憎んでいた雍歯を速やかに什方侯にした。これは、論功行賞で不平を招いて反乱が起きないための張良の策で、他の諸侯に「あの雍歯が賞せられたのだから、自分にもちゃんとした恩賞が下るだろう」と安心させる効果があった。 劉邦は最初洛陽を首都にしようと考えたが、劉敬が長安を首都にする利点を説き、張良もその意見に賛同すると、すぐさま長安に行幸し首都に定めた。 劉邦が家臣たちと酒宴を行っていた時、劉邦は「皆、俺が天下を勝ち取り、項羽が敗れた理由を言ってみよ」と言った。これに答えて高起と王陵が「陛下は傲慢で人を侮ります。これに対して項羽は仁慈で人を慈しみます。しかし陛下は功績があった者には惜しみなく領地を与え、天下の人々と利益を分かち合います。これに対して項羽は賢者を妬み、功績のある者に恩賞を与えようとしませんでした。これが天下を失った理由と存じます」と答えた。 劉邦は「お前達はわかっておらぬな。俺は張良のように策を帷幕の中に巡らし、勝ちを千里の外に決する事は出来ないし、蕭何のように民を慰撫して補給を途絶えさせず、民を安心させる事は出来ないし、韓信のように軍を率いて戦いに勝つ事は出来ない。だが俺はこの張良・蕭何・韓信という3人の英傑を見事に使いこなす事が出来た。反対に項羽は范増1人すら使いこなす事が出来なかった。これが俺が天下を勝ち取った理由だ」と答え、その答えに群臣は敬服した。
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天下統一
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:49 UTC 版)
全国を平定し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせた。しかし秀吉は自ら「人を切ぬき申候事きらい申候」と語るように非殲滅主義を貫き、寛容ともいえる態度で毛利氏・長宗我部氏・島津氏といった多くの大名を助命し、これにより短期間で天下一統を成し遂げることができた。しかし、これについて藤田恒春は「当該期の武者であれば武をもって相手を倒す選択肢しかなく、結果的に豊臣政権のアキレス腱となった」と批判している。徳川氏は石高250万石を有し、秀吉自身の蔵入地222万石より多い石高を有するほどであった。 天正19年(1591年)、弟の豊臣秀長、後継者に指名していた鶴松が、相次いで病死した。そのため、甥・秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、太閤(前関白の尊称)と呼ばれるようになる。ただし、秀吉は全権を譲らず、実権を握り二元政を敷いた。この年、重用してきた茶人・千利休に切腹を命じている。その首は一条戻橋に晒された。この事件の発端には諸説がある。 この年、京都の四周を取り囲む御土居を構築した。これは京都の防衛のためだったとも、あるいは戦乱のために定かでなくなっていた洛中と洛外の境を明らかにするためだったともされる。
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