東大寺金堂(大仏殿)
名称: | 東大寺金堂(大仏殿) |
ふりがな: | とうだいじこんどう(だいぶつでん) |
名称(棟): | |
名称(ふりがな): | |
番号: | 0057 |
種別1: | 近世以前/寺院 |
国宝重文区分: | 国宝 |
指定年月日: | 1952.03.29(昭和27.03.29) |
員数(数): | 1 |
員数(単位): | 棟 |
代表都道府県: | 奈良県 |
都道府県: | 奈良県奈良市雑司町 |
所有者名: | 東大寺 |
指定基準: | |
管理団体名: | |
管理団体住所: | |
管理団体指定年月日: | |
構造形式: | 桁行五間、梁間五間、一重もこし付、寄棟造、本瓦葺、正面唐破風付、銅板葺 |
時代区分: | 江戸中期 |
年代: | 宝永2(1705) |
解説文: | 聖武天皇が創建した東大寺は、平安末期と室町末期の二度、焼失した。現金堂は宝永6年(1707)に落慶供養された三代目である。莫大な費用と工期を抑えるため、創建規模から桁行で4間縮めたが、梁間や高さは踏襲し、今なお世界最大の木造建築である。正面裳階を唐破風とし、柱を集成材にするなど、江戸時代の創意と工夫も伺える。 |
大仏殿
大仏殿
大仏殿
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 09:27 UTC 版)
木造如意輪観音・虚空蔵菩薩坐像 重要文化財。江戸時代。像高如意輪観音722.5センチ、虚空蔵菩薩710.0センチ。 大仏の脇侍(きょうじ)は、左脇侍(向かって右)が如意輪観音、右脇侍(向かって左)が虚空蔵菩薩と呼ばれている。如意輪観音は施無畏与願印(せむい・よがんいん、右手は掌を正面に向けて上げ、左手は掌を上に向けて膝上に置く)をむすんで坐し、虚空蔵菩薩は対称的に右手を膝上に置き、左手を上げる。大仏の脇侍像は永禄10年(1567年)の兵火の後、長らく再興されなかった。江戸時代の中期になって、京都の仏師山本順慶一門、大坂の仏師椿井賢慶一門らによって再興造像が開始された。享保11年(1726年)に脇侍像の御衣木加持が順慶・賢慶によって行われ、享保15年(1730年)に如意輪観音像が造立されるが、光背と台座が完成したのは享保20年(1735年)のことであった。虚空蔵菩薩像は宝暦2年(1752年)、了慶、尹慶らによって造立されたものである。両像は本体と台座を貫通する心柱の周囲に桶状ないし箱状に材を寄せて造られている。仏教美術衰退期の江戸時代において、巨像を破綻なくまとめた佳作と評されている。 聖武天皇が発した「盧舎那仏造立の詔」には大仏の脇侍についての言及はない。『東大寺要録』等の古記録にも脇侍像についての詳しい言及はなく、当初の脇侍像の造立事情や形態の詳細は不明である。平安時代末期の絵巻『信貴山縁起』には、創建大仏殿が描かれており、扉の隙間からわずかに左脇侍の姿が見えるが、ここに描かれた左脇侍は左脚を踏み下げて坐していることがわかる。このことから、当初の大仏脇侍像は現状のような結跏趺坐像ではなく、腰かけて片脚を曲げ、片脚を下に下ろした踏み下げ坐像であったと推定される。儀軌に説く如意輪観音は六臂であり、大仏左脇侍のような二臂の如意輪観音は経典に説かれず、日本独自のものである。大仏左脇侍像が「如意輪観音」と称されるようになるのは平安時代以降のことで、当初は単に「観音」と称されていたことが指摘されている。盧舎那仏の脇侍として観音と虚空蔵を配することも経典に見えず、典拠が明らかでない。 虚空蔵菩薩 如意輪観音
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