平安時代末期
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平安時代末期から中世初期には、北上川流域(奥六郡)を中心として奥州藤原氏が栄え、平泉が平安京に次ぐ日本第二の都市になるまで発展する。奥州藤原氏は陸奥・出羽両国の院領や摂関家荘園の租税を徴することで財力を蓄えたとみられる。しかし、源義経を匿ったかどで鎌倉政権側より軍事攻撃を受け、源頼朝によって滅ぼされた。
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平安時代末期
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文治元年(1185年) 紀伊勝浦の山成島にて入水したと見せかけて落ちのびた平維盛を色川郷、藤綱要害の森に匿い、盛広、盛安の二児をもうけ、室町時代~戦国時代に続く紀伊国人衆色川氏の祖となったという。
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平安時代末期
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祖の藤九郎盛長は、平治元年(1160年)の平治の乱に敗れ伊豆国に流罪となった源頼朝の従者として仕え、頼朝の挙兵に伴い各地の坂東武士団の招集にあたり、鎌倉幕府の樹立に尽力した。盛長の父は『尊卑分脈』魚名公孫によれば小野田三郎兼広であるが、新訂増補国史大系の底本である前田家所蔵林家訂正折本によれば、小野田三郎兼盛とある。盛長は『尊卑分脈』魚名公孫によれば、足立六郎、小野田藤九郎と称している。盛長以前の家系は系図によって異なり、はっきりしないが、兄は藤原遠兼で兄の子は足立遠元である。盛長は藤原邦通や平家の筑前房良心など京都の人物と深い繋がりを有しており、藤原氏の末流を称していた。『源平闘諍録』には藤原伊尹の末裔とする記述がある。
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平安時代末期
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「末法」の到来 「末法」とは、釈尊入滅から二千年を経過した次の一万年を「末法」の時代とし、「教えだけが残り、修行をどのように実践しようとも、悟りを得ることは不可能になる時代」としている。この「末法」に基づく思想は、インドには無く中国南北朝時代に成立し、日本に伝播した。釈尊の入滅は五十数説あるが、法琳の『破邪論』上巻に引く『周書異記』に基づく紀元前943年とする説を元に、末法第一年を平安末期の永承7年(1052年)とする。 本来「末法」は、上記のごとく仏教における時代区分であったが、平安時代末期に災害・戦乱が頻発した事にともない終末論的な思想として捉えられるようになる。よって「末法」は、世界の滅亡と考えられ、貴族も庶民もその「末法」の到来に怯えた。さらに「末法」では現世における救済の可能性が否定されるので、死後の極楽浄土への往生を求める風潮が高まり、浄土教が急速に広まることとなる。ただし、異説として、浄土教の広まりをもたらした終末論的な思想は本来は儒教や道教などの古代中国思想に端を発する「末代」観と呼ぶべきもので、仏教の衰微についてはともかく当時の社会で問題視された人身機根の変化には触れることのない「末法」思想では思想的背景の説明がつかず、その影響力は限定的であったとする説もある。 末法が到来する永承7年に、関白である藤原頼通が京都宇治の平等院に、平安時代の浄土信仰の象徴のひとつである阿弥陀堂(鳳凰堂)を建立した。阿弥陀堂は、「浄土三部経」の『仏説観無量寿経』や『仏説阿弥陀経』に説かれている荘厳華麗な極楽浄土を表現し、外観は極楽の阿弥陀如来の宮殿を模している。 この頃には阿弥陀信仰は貴族社会に深く浸透し、定印を結ぶ阿弥陀如来と阿弥陀堂建築が盛んになる。阿弥陀堂からは阿弥陀来迎図も誕生した。 平等院鳳凰堂の他にも数多くの現存する堂宇が知られ、主なものに中尊寺金色堂、法界寺阿弥陀堂、白水阿弥陀堂などがある。 良忍 良忍は、(1072年 - 1132年)は、「一人の念仏が万人の念仏と融合する」という融通念仏(大念仏)を説き、融通念仏宗の祖となる。 天台以外でも三論宗の永観(1033年 - 1111年)や真言宗の覚鑁(1095年 - 1143年)らの念仏者を輩出する。 この頃までに、修験道の修行の地であった熊野は浄土と見なされるようになり、院政期には歴代の上皇が頻繁に参詣した。後白河院の参詣は実に34回にも及んだ。熊野三山に残る九十九王子は、12世紀 - 13世紀の間に急速に組織された一群の神社であり、この頃の皇族や貴人の熊野詣に際して先達をつとめた熊野修験たちが参詣の安全を願って祀ったものであった。
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平安時代末期
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平安時代末期、平清盛が朝廷の内紛に起因する保元の乱と平治の乱で、武功を挙げ武力の重要性を支配貴族層に知らしめて、軍事権門としての地位を確立した。そして、武家としては初めての太政大臣に任じられ、政権を獲得した。平氏政権は、各地の在地武士を家人制で弱い形だが組織化するとともに、全国の武士が天皇の内裏を警護する大番役勤仕の国家的軍役負担を国衙制を間に置くが差配をして、初の武家政権とされる。さらに清盛は守護・地頭などの諸制度を創設し、前述の組織化と内裏警護大番役制度とともに後の頼朝政権に強化され引き継がれた。しかし、伊勢平氏(平家)一門で朝廷の官位を占め、清盛自身は天皇の外戚となるなど、従来の摂関政治と大差は無かった。既存のシステムの中に武家出身者を浸透させる事には成功したものの、武家による独自の政治体制の構築方法が見いだせず旧態依然の政治を行い、その中での平家一門の贅沢な暮らしや異様な出世、繁栄などを誇示するにとどまった。そのため、地方の実効支配者としての地位の向上を望む多数の地方武士は、中央の軍事権門と結んで、強権を得て支配強化を望んでいたが、その利益代表者の位置を十分構築できず、同時多発反乱の中から台頭した源義仲や源頼朝らによって滅ぼされた。
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