保元の乱とは? わかりやすく解説

ほうげん‐の‐らん【保元の乱】

読み方:ほうげんのらん

保元元年1156京都起こった内乱皇室では皇位継承に関して不満をもつ崇徳上皇後白河天皇とが、摂関家では藤原頼長と忠通とが対立し崇徳・頼長側は源為義平忠正の軍を招き後白河・忠通側は源義朝平清盛の軍を招いて交戦したが、崇徳側が敗れ上皇讃岐(さぬき)に流された。貴族無力化と武士の実力示した事件で、武士の政界進出促した


保元の乱

読み方:ホウゲンノラン(hougennoran), ホゲンノラン(hogennoran)

平安後期保元元年起こった京都の乱。


保元の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/05 10:25 UTC 版)

保元の乱(ほうげんのらん)は、保元元年(1156年7月に皇位継承問題や摂関家の内戦により、朝廷後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変である。崇徳上皇方が敗北し、上皇は讃岐に配流された。この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。




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保元の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 12:57 UTC 版)

崇徳天皇」の記事における「保元の乱」の解説

詳細は「保元の乱」を参照 保元元年1156年5月鳥羽法皇が病に倒れ7月2日申の刻午後4時頃)に崩御した。崇徳院臨終直前見舞い訪れたが、対面はできなかった。『古事談によれば法皇側近葉室惟方自身遺体崇徳院見せないよう言残したという。崇徳院憤慨して鳥羽田中殿引き返した法皇崩御して程なく事態急変する7月5日、「上皇左府同心して軍を発し国家傾け奉らんと欲す」という噂が流され法皇初七日7月8日には、藤原忠実・頼長が荘園から軍兵集めることを停止する後白河天皇御教書綸旨)が諸国下される同時に蔵人高階俊成源義朝随兵摂関家の正邸・東三条殿乱入して邸宅没官するに至った。これらの措置は、法皇権威を盾に崇徳院藤原頼長抑圧していた美福門院藤原忠通院近臣らによる先制攻撃考えられる7月9日夜中崇徳院少数側近とともに鳥羽田中殿脱出して洛東白河にある統子内親王御所押し入った。『兵範記同日条には「上下奇と成す、親疎知らず」とあり、子の重仁親王同行しないなど、その行動突発的予想外のものだった崇徳院対す直接的な攻撃はなかったが、すでに世間には「上皇左府同心」の噂が流れており、鳥羽そのまままっていれば拘束される危険もあったため脱出決行した思われる。 翌10日には、藤原頼長宇治から上洛して白河北殿入り崇徳院側近である藤原教長平家弘源為義平忠正などの武士集結する。崇徳上皇方に参じた兵力甚だ弱小であり、崇徳院今は亡き平忠盛重仁親王後見だったことから、忠盛の子清盛味方になることに一縷の望みをかけた。重仁親王乳母池禅尼上皇方敗北予測して、子の平頼盛清盛協力することを命じた『愚管抄』)。後白河天皇方は、崇徳院動きを「これ日来風聞、すでに露顕する所なり」(『兵範記7月10日条)として武士動員し11日未明白河北殿夜襲をかける。白河北殿炎上し崇徳院御所脱出して行方くらました

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保元の乱

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藤原頼長」の記事における「保元の乱」の解説

詳細は「保元の乱」を参照 保元元年1156年7月2日鳥羽法皇崩御する事態急変する7月5日、「上皇左府同心して軍を発し国家傾け奉らんと欲す」という風聞対応するため、京中武士の動き停止する措置取られ(『兵範記7月5日条)、法皇初七日7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵集めることを停止する後白河天皇御教書綸旨)が諸国下される同時に蔵人高階俊成源義朝随兵東三条殿乱入して邸宅没官するに至った没官謀反人対す財産没収の刑であり、頼長に謀反の罪がかけられたことを意味する氏長者謀反人とされるのは前代未聞で、摂関家家司平信範その日記『兵範記』に「子細筆端尽くし難し」と慨嘆の念を記している(『兵範記7月8日条)。この前後に忠実・頼長が何らかの行動起こした様子はなく、武士の動員成功して圧倒的優位に立った後白河守仁陣営あからさまに挑発開始した考えられる忠実・頼長は追い詰められ、もはや兵を挙げ局面打開する以外に道はなくなった謀反人烙印押された頼長は挙兵正当性を得るため、崇徳上皇を担ぐことを決意する上皇方拠点となった白河北殿には貴族では上皇側近藤原教長頼長の母方の縁者である藤原盛憲・経憲の兄弟武士では平家弘源為義平忠正などが集結するが、その戦力摂関家私兵集団限定され甚だ弱小劣勢明白だった軍議源為朝高松殿への夜襲献策したが、頼長はこれを斥けて信実率い興福寺悪僧集団など大和からの援軍を待つことに決した天皇方は「これ日来風聞、すでに露顕する所なり」(『兵範記7月10日条)として武士動員し11日未明白河北殿夜襲をかける。白河北殿炎上し戦いは数に勝る天皇方勝利終わった上皇方総崩れとなる中、頼長は家司藤原成隆抱えられ騎馬御所から脱出するが、源重貞放った矢が頸部刺さり重傷負った出血による衰弱苦しみながら、12日嵐山方面13日には舟で大井川(現桂川)を渡り巨椋池経て木津へと逃亡続け最後望みとして奈良逃れていた忠実に対面を望むが拒まれ14日に、失意の内に頸部の傷が原因で、絶命した(「保元物語によれば頼長は舌を噛み切り自害したという)。享年37遺骸奈良般若野埋葬されたが、信西の命によって暴かれ検視されるという恥辱を受ける羽目になった。なお、頼長の所有名義となっていた京極殿領は忠実によって再び忠通の所有として朝廷による没官免れたが、頼長個人所領没官されて後白河天皇後院領にあてがわれ、後の大荘園群である長講堂領基軸となった。 頼長の死後長男師長次男の兼長・三男の隆長・四男の範長はみな配流となり、師長を除く3名はそれぞれの配所にて死去した唯一生き残って都に戻ることができた師長は、後に太政大臣にまで昇進するものの、今度平清盛によって再び配流される波乱の生涯送っている。 保元の乱が終結してしばらくの間は、頼長は罪人として扱われた。頼長を罪人とする朝廷認識は、頼長の子の師長帰京許され後白河院側近になっても変わることはなかった。しかし21年経た安元3年1177年)、延暦寺強訴安元の大火鹿ケ谷の陰謀といった大事件が都で連発する及んで朝廷は保元の乱の怨霊による祟り恐怖するうになる同年8月3日怨霊鎮魂のため、崇徳上皇当初追号讃岐院」を「崇徳院」に改め、頼長には正一位太政大臣追贈された(『百錬抄』)。

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保元の乱

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源義平」の記事における「保元の乱」の解説

保元元年1156年)保元の乱が勃発し義朝後白河天皇側に立って参戦し戦後左馬頭任じられているが、義平の動向定かではない

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保元の乱

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平頼盛」の記事における「保元の乱」の解説

久安6年1150年)、宗子崇徳上皇第一皇子重仁親王乳母となり、忠盛は乳父(めのと)になった重仁親王次期皇位最有力候補であり即位実現すれば忠盛大きな権力を手にできるはずだった。しかし仁平3年1153年)、忠盛公卿昇進目前病死した。 久寿2年1155年)、近衛天皇崩御した。後継天皇信西画策により、重仁親王ではなく雅仁親王後白河天皇)が指名され政情大きく変化する保元元年1156年)、鳥羽法皇崩御により保元の乱が勃発すると、忠盛宗子重仁親王後見する立場にあったことから平氏一門難し立場に立たされた。宗子は「コノ事ハ一定新院御方ハマケナンズ。勝ツベキヤウモナキ次第ナリ」と崇徳上皇方の敗北予測して、頼盛に「ヒシト兄ノ清盛ニツキテアレ」と協力することを命じた。この決断により平氏一族分裂回避し今まで築き上げてきた勢力保持することに成功した。 保元の乱の後、頼盛は兄・教盛とともに昇殿を果たす。清盛が乱の功績により播磨守になったことで、頼盛は清盛知行国安芸国受領となった。頼盛自身知行国常陸国受領には代わりに兄・経盛任じられる。教盛は淡路守であり、平氏兄弟4つ知行国確保した保元2年1157年)になると信西大内裏再建行い、頼盛は貞観殿造営担当したことで従四位下に叙せられる。翌保元3年1158年8月には2回目常陸介となり、10月には藤原顕長知行国交換して三河守となったこの年には清盛長子重盛遠江守となっている。頼盛と重盛叔父と甥だったが5歳年齢差で、ほぼ同年代といってよかった平氏清盛棟梁として全体取りまとめ、頼盛・重盛屋台骨支える形となった

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保元の乱

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源義朝」の記事における「保元の乱」の解説

詳細は「保元の乱」を参照 保元元年1156年7月の保元の乱の際に崇徳上皇方の父・為義、弟の頼賢・為朝らと袂を分かち後白河天皇方として東国武士団を率いて陣した平清盛と共に作戦の場に召された義朝先制攻撃夜襲主張し、頭をかきむしりながら信西と共に躊躇する関白藤原忠通に対して決断迫った攻撃の命が下ると、義朝は「(坂東での)私合戦では朝家咎め恐れ思うようにならなかったが、今度の戦は追討宣旨を受け、心置きなく戦う事が出来る」と官軍として赴く事に喜び勇んで出陣し戦況逐一報告するなど後白河方の中核となって戦った。 乱は後白河天皇方が勝利し敗者となった為義義朝元に出頭した『保元物語』には、義朝自身戦功替えて父の助命訴えたが、信西によって却下され、父や幼い弟達を斬る事になる悲劇的な場面詳しく描かれている。7月30日船岡山辺り為義その子らは義朝の手により処刑された。父を殺した義朝は「ヲヤノクビ切ツ」と世の誹り受けたという。 乱後恩賞として右馬権頭任じられるが、不足を申し立てたため左馬頭となる。義朝助命嘆願にもかかわらず為義・頼賢ら親兄弟多く処刑され、また左馬頭任官ですらも清盛平家一門への待遇比べて相当見劣りすることから大いに不満を持ったとも言われていた。 しかし清盛少年の頃より親王にも等し待遇を受け、11歳元服同時に叙爵されて従五位下17歳にして既に従四位下にまで官位上げ保元の乱の10年前に正四位下となり公卿地位一歩手前にまで達しており、対して保元の乱の直前叙爵されて従五位下下野守となりようやく受領レベルとなった義朝地位にはもともと大きな開きがあり、恩賞の差に不満を抱いたという説明はあまり妥当とはいえない。また左馬頭はその位階以上に武門にとってはそれこそ武士の棟梁にも比されるほどの重要な官位であるから、それへの任官は妥当、むしろ破格恩賞であるという意見近年では提示されている。また為義処刑あくまでも彼らを謀反人断じ朝廷裁決であり、清盛もまた敵側についた同族朝命により処刑しており、このことへの義朝の不満が平治の乱つながったという見方にも疑問呈されている。その一方で平将門の乱における藤原秀郷前九年の役源頼義などの例から、謀反鎮圧対す武家への恩賞現在の本人官位関わらず越階」「希望する国の受領への任命」「子弟郎党対す官位授与」とするのが先例として成立しており、義朝その先例に倣って四位への越階豊かな国の受領への任命長男の義平らに対す任官期待していた筈で、それらを何も得られなかった以上、むしろ冷遇され恩賞であったとする反論出されている。

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保元の乱

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信西」の記事における「保元の乱」の解説

詳細は「保元の乱」を参照 そのような中で久寿2年1155年)に近衛天皇崩御し後継天皇決め王者議定開かれる候補としては重仁親王最有力だったが、美福門院もう一人養子である守仁親王(後の二条天皇)が即位するまで中継ぎとして、その父の雅仁親王立太子しないまま29歳即位することになった後白河天皇)。守仁親王はまだ年少であり、存命中である実父雅仁親王飛び越えて即位如何なものかとの声が上がっためだった。 突然の雅仁親王擁立背景には、雅仁親王養育していた信西策動があったと推測される保元元年1156年7月鳥羽法皇崩御する信西はその葬儀取り仕切り直後の保元の乱では対立勢力である崇徳上皇藤原頼長挙兵追い込み源義朝夜襲献策積極採用して後白河天皇方に勝利をもたらした乱後信西薬子の変最後に公的に行われていなかった死刑復活させて、源為義らの武士処断した。また、摂関家弱体化天皇親政進め保元新制定め記録荘園券契所再興し荘園整理を行うなど、絶大な権力振るうまた、大内裏再建相撲節会復活なども信西の手腕によるところが大きかった。 この政策行なう上で信西自分息子たち要職就けたそのこと旧来の院近臣貴族反感を買ったまた、強引な政治刷新反発招いた一方保元3年1158年8月には鳥羽法皇が本来の皇位継承者であるとした二条天皇即位する。この皇位継承は「仏と仏との評定」、すなわち美福門院信西協議行われた。この二条天皇即位に伴い信西天皇側近自分の子送り込むが、今度そのこと天皇側近反感招き院近臣天皇側近双方に「反信西」の動き生じようになった

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保元の乱

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源為朝」の記事における「保元の乱」の解説

保元元年1156年)、鳥羽法皇崩御すると、治天の君の座を巡って対立していた崇徳上皇後白河天皇衝突避けられない情勢になっていた。双方名だたる武士それぞれの陣営に招くなか、為朝の父・為義上皇方大将として招かれる老齢理由再三これを辞したものの、遂に承諾させられ為朝ら6人の子引連れて崇徳上皇御所白河北殿参上した。一方為義嫡男坂東地盤としていた義朝多く東国武士とともに天皇方参じた為朝三尺五寸太刀差し五人張り強弓持って西河原面の門を守った7月11日軍議開かれ為朝は「九州多く合戦しました夜討に勝るものはありません。ただちに高松殿(天皇方本営)へ攻め寄せ、火を放て容易に勝てましょう。兄の義朝出てくれば私が射落としますし、清盛なぞは敵にもなりません。逃げ出してくる主上の駕車の人夫を射散らして主上お連れすればよろしい」と夜討献策するが、左大臣藤原頼長は「乱暴なことを言うな。夜討などは武士同士私戦ですることだ。主上上皇の国を巡る戦いである。興福寺僧兵到着待って決戦するべし」と退けてしまった。為朝は兄の義朝は必ず夜討しかけてくるだろうと予見して口惜しがった。 その夜為朝予見通り天皇方白河北殿夜討をかけてきた。為朝宥めるために急ぎ除目行い蔵人任じるが、為朝は「もとの鎮西八郎でけっこう」と跳ね付けた。なお、『愚管抄』では夜襲献策した人物為朝ではなく父の為義としている。 平清盛軍勢為朝の守る西門攻めてきた。清盛郎党伊藤景綱その子忠景(忠清)・忠直名乗りをあげると為朝は「清盛ですら物足りないのに、お前らなぞ相手にならん、退けと言う景綱が「下郎の矢を受けてみよ」と矢を放つ為朝ものともせず物足りない敵だが、今生面目にせよ」と先が七寸五分(22センチ)もある、鑿に矢軸をつけたような太矢を射かけ、矢は忠直の体を貫き後ろの忠清の鎧の袖突き刺さった。忠清は矢を清盛のもとに持ち帰って報告し清盛たちは驚愕し怖気づいてしまう。清盛部署変えて北門へ向かうが、嫡男平重盛口惜しいことだと挑もうとして清盛あわてて止めさせた。 剛の者伊賀国住人山田伊行は矢一本引き退くのは口惜しい思い進み出て名乗りをあげて射かけるが、一の矢損じ二の矢つがえるところを為朝射落とされてしまった。 清盛に代わって兄の義朝の手勢が攻め寄せ郎党鎌田政清進み出名乗りを上げた。為朝は「主人の前から立ち去れと言い返すが、政清は「主人ではあったが、今は違勅凶徒と言うや矢を放ち為朝の兜に当たる。これに為朝激怒して「お前なぞ矢の無駄だ手打ちにしてくれる」と鎮西強者28騎を率いて斬り込みをかけ、政清は敵わずと逃げ出し、「これほどの敵には遭ったことがございません」と義朝報告した義朝は「馬上の技は坂東武者の方が上である」と坂東武者200騎を率いて攻めかかり乱戦となった義朝は「勅命である、退散せよ」と大声をあげるが、為朝は「こちらは院宣をお受けしている」と言い返した義朝は「兄に弓を引けば神仏加護を失うぞ」と言うと為朝は「では、父(為義)に弓を引くことはどうなのか」と言い返し義朝言葉窮してしまった。再び乱戦になり、無勢為朝はいったん門内に兵を引くが、義朝勢は追撃にかかる。義朝の姿を確認した為朝射ようとするが、よもや父と兄とに密契があるかもしれんと思いとどまった接戦となると無勢為朝は不利であり、大将義朝威嚇して退かせようと考えた狙い誤らず、為朝の矢は義朝兜の星を射削る。義朝は「聞き及んでいたが、やはり乱暴な奴だ」と言うや、為朝は「お許しいただければ二の矢お見舞いましょう。どこぞなりと当てて見せますと言って矢をつがえるとっさに、深巣清国が間に割って入り為朝はこれを射殺した大庭景義・景親の兄弟挑みかかるが、為朝は試にと鏑矢放ち、景義の左の膝を砕き、景親は落馬した兄を助け上げて逃げ帰った。後に源頼朝仕えて御家人になった景義は酒宴でこの合戦について為朝無双弓矢達者だが、身の丈よりも大きい弓を使い馬上での扱い慣れず狙い誤ったのだろうと語っている。 義朝坂東武者為朝鎮西武者との間で火が出るほどの戦い繰り返されたが、為朝28騎のうち23騎が討ち死にしてしまった。一方坂東武者53騎が討たれている。 他の門でも激戦続き勝敗容易に決しなかった。義朝内裏使者送り火攻め勅許求め後白河天皇はこれを許した。火がかけられ風にあおられて、白河北殿はたちまち炎上崇徳上皇方は大混乱に陥り、上皇藤原頼長脱出為義、頼賢、為朝武士たちも各々落ちた為義息子たちと共に東国での再挙を図るが、老体あり気弱になり、出家して降伏することに決めた。「義朝勲功代えても父や弟たち助けるだろう」と為義希望を持つが、為朝反対してあくまでの東国落ちることを主張する結局為義出頭して降伏する。しかし、為義許されず、息子たちも捕えられ、勅命により義朝によって斬首されてしまった。 為朝逃亡続け近江国坂田滋賀県坂田郡)の地に隠れた。病に罹り湯治をしていたところ、密告があり湯屋佐渡重貞の手勢に囲まれ真っ裸であり抵抗もできず捕えられた。京へ護送され時には名高い勇者一目見よう群衆集まり天皇までが見物行幸した。 既に戦後処理も一段落しており、為朝武勇惜しまれ助命され、8月26日に肘を外し自慢の弓を射ることができないようにされてから伊豆大島流刑となった。だが元木泰雄は、強弓惜しまれ減刑されたという話はにわかに信じがたく、合戦直後混乱興奮の中で多く死刑執行されてから一月経ち朝廷冷静な空気高まり死刑対す非難強まったことが関係したのだろうと推測している。

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