へいじ‐の‐らん〔ヘイヂ‐〕【平治の乱】
平治の乱
平治の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 06:23 UTC 版)
詳細は「平治の乱」を参照 保元の乱の後、摂関家の影響力が後退し、強大な権力を有していた治天の君の不在という事態に陥っていた。そのような中、信西が頭角を現すが、従来の院近臣の間には急速に勢力を台頭させた信西に対する反感が生じた。また後白河天皇が二条天皇に譲位すると、こんどは天皇側近が天皇の親政を目指し、院の側近たる信西を敵視するようになり、藤原信頼が反信西派の中心に座るようになる。信頼は武士にとって必要な物産を産出する陸奥国を押さえ、義朝が基盤とした国の一つである武蔵国の知行国主であるため、義朝は信頼との関係を深めていく。また信頼は、平清盛にも娘を嫁がせて誼を結ぶようになり、朝廷の武の要というべき立場に立つ。 平治元年(1159年)12月9日、反信西派により三条殿焼き討ちが発生し、信西が殺害される。この焼き討ちには義朝も加わっていた。熊野参詣で京を離れる清盛の留守中を狙ってひそかに挙兵しなければならず、また当初、信頼らは清盛が敵に回るとは考えなかったために少数の兵で挙兵したが、義朝は東国にいる義平に援軍を要請した。義平は三浦氏・上総介氏・山内首藤氏など、自身や義朝に私的に親しい東国武士のみを率いて都に上った。 一時的に政権を掌握した反信西派であったが、直ぐに天皇親政派と院政派の間に亀裂が生じる。 やがて清盛が都に戻ると天皇親政派は清盛と手を結び、二条天皇を六波羅に移し、藤原信頼を謀反人として追討することを決定した。12月26日、清盛が弟の経盛・頼盛、嫡子・重盛などに命じて内裏に軍勢を派遣する。この日は数時間、都において戦闘が行われたが、義平は兵力では大幅に平家軍に劣る信頼軍の中にあって奮戦する(この奮戦の状況は虚実交えて『平治物語』に描かれている。後述)が、戦闘においては敗北。信頼は降伏したが捕えられて殺害され、義朝一行は東国を目指して落ち延びる。 その途中で三弟・頼朝は一行からはぐれて行方不明になり、次弟・朝長も落ち延びる途中で負傷しその傷が元で落命。義平は途中で義朝と離れ東山道から東国をめざすが、途中で義朝の死を知る。その後『平治物語』によると、父の仇を討つべく都に戻って清盛の命を狙ったとあるが詳細は不明である。しかし翌年の永暦元年(1160年)に捕えられ、六条河原において処刑された。
※この「平治の乱」の解説は、「源義平」の解説の一部です。
「平治の乱」を含む「源義平」の記事については、「源義平」の概要を参照ください。
平治の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 07:37 UTC 版)
それを如実に示したのが、平治元年(1159年)に起こった平治の乱だった。頼盛は27歳、重盛は22歳であり、「平氏ガ方ニハ左衛門佐重盛・三河守頼盛、コノ二人コソ大将軍ノ誠ニタタカイハシタリケルハアリケレ」とあるように、平氏軍の主力を率いて戦場に臨んだ。『平治物語』では重盛の活躍が華々しく記されているが、頼盛も父から譲り受けた名刀「抜丸」で奮戦するなど、合戦で大きな役割を果たしていたことがうかがえる。 乱は平氏の勝利に終わり、頼盛は尾張守となった。翌永暦元年(1160年)2月、頼盛の郎等・平宗清が逃亡中の源頼朝を捕らえた。尾張国は京都と東国を結ぶ交通の要衝に当たるため、頼盛が尾張守に任じられたのは、東国に逃れる源氏の残党を追捕するための措置だったとも考えられる。『平治物語』では、頼朝が家盛に生き写しだったことから宗子が助命に奔走したとするが、実際には頼朝が仕えていた上西門院(待賢門院の娘、後白河の同母姉)や同じ待賢門院近臣家の熱田大宮司家(頼朝の母方の親族)の働きかけによるものと推測される。
※この「平治の乱」の解説は、「平頼盛」の解説の一部です。
「平治の乱」を含む「平頼盛」の記事については、「平頼盛」の概要を参照ください。
平治の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/16 15:22 UTC 版)
信濃国佐久郡平賀郷(現在の長野県佐久市)を本拠として、平治元年(1159年)の平治の乱に、源義朝に従って出陣する。『平治物語』には平賀四郎義宣と記され、三条河原での戦いで奮戦する義宣(義信)を見た義朝が、「あぱれ、源氏は鞭さしまでも、をろかなる者はなき物かな。あたら兵、平賀うたすな。義宣打すな。」と郎党達に救うように命じている様が描かれている。義朝敗戦の後、その東国への逃避行に付き随った7人の1人となる。『平治物語』では、尾張国知多郡内海の長田忠致館で義朝の最期を知った直後、逃亡に成功して生き延びる。その後、地理的に本拠地のある信濃へ向かったと考えられるが、以後20年余に渡って史料からは姿を消す。 なお『平治物語』には、佐渡式部大輔重成(八島重成)と共に「従子」と記されている。この従子は現代語訳では従兄弟と訳されることもあるが、この場合は血縁上の従兄弟ではなく「一門ではないが、近い源氏」という意味である。また文脈から「一族同様に信頼した若武者」と解釈する向きもある。
※この「平治の乱」の解説は、「平賀義信」の解説の一部です。
「平治の乱」を含む「平賀義信」の記事については、「平賀義信」の概要を参照ください。
平治の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:40 UTC 版)
詳細は「平治の乱」を参照 平治元年12月9日(1160年1月19日)、義朝は、源光保・源季実・源重成らと共に藤原信頼と組んで後白河院の信任厚い信西らがいると目された三条殿を襲撃する。 平治の乱の原因として旧来の説では先に触れたような『平治物語』の記述を史料に保元の乱での清盛との恩賞の格差に義朝が不満を抱いたという源氏対平家の因縁説、縁談不成立などによる信西への冷遇怨恨説、その結果、同じく信西を憎む藤原信頼と組んだなどと義朝の動機を中心に説明されることが多かった。また信頼も『平治物語』には「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし。ただ朝恩にのみほこりて」と酷評されており、『愚管抄』でも同様である。しかし、そのような通俗的理解は竹内理三や元木泰雄の研究により見直されている。また、信頼に従った武士達も義朝のみではなく、それぞれの独立して各権門に仕える武家が自分の意志で信頼についたのであって、義朝の指示で信頼方についた訳ではない。 平治の乱の原因は実際には後白河院政派と二条天皇親政派の対立、そしてその両派共に反信西グループがいたこと、それらを後白河がまとめきれなかったことにあるとされる。 義朝と藤原信頼の関係も信西憎しの一点で結びついたという説は理解しやすいものの、義朝が信頼に従ったのは信頼は義朝が南関東で勢力を拡大していた時の武蔵守で、その後も知行国主であり、義朝の武蔵国への勢力拡大も突然の従五位下・下野守への除目も信頼らの支援があってのことと思われる。信頼はそうした武蔵国を中心とした地盤から、保元の乱により摂関家家政機構の武力が解体した後においてはそれに代わって関東の武士達を京の公家社会に供給できる立場にあった。 三条殿を襲撃し逃れた信西を倒して以降、信頼が政局の中心に立つ。信西追討の恩賞として義朝は播磨守に任官し、その子・頼朝は右兵衛佐に任ぜられた。しかし信西を倒したことによって元々信西憎しの一点だけで結びついていた後白河院政派と二条天皇親政派は結束する理由も無くなり空中分解を始める。そして今度は藤原信頼と二条天皇親政派との反目が発生する。離京していた清盛は勝者・信頼に臣従するそぶりを見せて都に戻るがその後、二条天皇親政派らの謀略によって二条天皇が清盛六波羅邸に脱出し形勢不利を察した後白河上皇も仁和寺に脱出する。この段階で義朝は全ての梯子を外されたかたちとなった。 藤原信頼らに当初同意していた光保は元々二条天皇親政派であるため信頼陣営から離反、源頼政も信頼陣営から距離を置き廷臣たちも続々と六波羅に出向いたため清盛は官軍の地位を獲得した。こうして一転賊軍となった信頼・義朝らは討伐の対象となり、ついに12月27日(2月6日)に京中で戦闘が開始される。平家らの官軍に兵数で大幅に劣っていた義朝軍は壊滅する。
※この「平治の乱」の解説は、「源義朝」の解説の一部です。
「平治の乱」を含む「源義朝」の記事については、「源義朝」の概要を参照ください。
平治の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 07:34 UTC 版)
詳細は「平治の乱」を参照 やがて院政派の藤原信頼、親政派の大炊御門経宗、葉室惟方らは政治路線の違いを抱えながらも、信西打倒に向けて動き出すことになる。信頼は源義朝を配下に治め、二条天皇に近い源光保も味方につけ、軍事的な力を有するようになっていく。その中にあって最大の軍事貴族である平清盛は信西、信頼双方と婚姻関係を結んで中立的立場にあり、親政派、院政派とも距離を置いていた。 平治元年(1159年)12月、清盛が熊野詣に出かけ都に軍事的空白が生じた隙をついて、反信西派は院御所の三条殿を襲撃する。 信西は事前に危機を察知して山城国の田原に避難し、郎党に命じ、竹筒で空気穴をつけて土中に埋めた箱の中に隠れていたが、郎党を尋問した追手に発見された。掘り返された際に、自ら首を突いて自害した。享年55。掘り起こした時には、目が動き息もしていたという。追っ手は信西の首を切って京に戻り、首はさらし首にされた。また、信西の息子たちも信頼の命令によって配流された。 学問に優れ、藤原頼長と並ぶ当代屈指の碩学として知られた。『今鏡』でもその才能を絶賛する一方で、陰陽道の家の出でもないのに天文に通じたがために災いを受けたのだと評されている。
※この「平治の乱」の解説は、「信西」の解説の一部です。
「平治の乱」を含む「信西」の記事については、「信西」の概要を参照ください。
平治の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:52 UTC 版)
詳細は「平治の乱」を参照 平治元年(1159年)12月9日、義朝は藤原信頼と共に後白河上皇と二条天皇を内裏に捕える。14日、13歳の頼朝は右兵衛権佐へ任ぜられる。26日、上皇と天皇は内裏から逃れる。27日、官軍となった清盛らが内裏へと攻め寄せ、賊軍となった義朝らは敗れて京を逃れ、東国を目指す。 永暦元年(1160年)2月9日、頼朝は近江国で捕えられ京の六波羅へ送られ、死刑を当然視されるが、清盛の継母の池禅尼の嘆願などにより死一等を減ぜられる。なお、助命嘆願には後白河院、上西門院の意向が働いていたとの説もある。また、平治の乱の本質は院近臣同士の争いであり義朝は信頼に従属する者の一人に過ぎず、その子供達の処分が軽度であったのも当然とする見解も示されている。3月11日に伊豆国へと流刑された。 なお、次兄の朝長は負傷により美濃国青墓で落命し、義朝は尾張国野間にて長田忠致により謀殺され、長兄の義平は都で処刑され、同母弟の源希義は土佐国へ流刑されている。
※この「平治の乱」の解説は、「源頼朝」の解説の一部です。
「平治の乱」を含む「源頼朝」の記事については、「源頼朝」の概要を参照ください。
「平治の乱」の例文・使い方・用例・文例
- 平治の乱
平治の乱と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- 平治の乱のページへのリンク