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へいじ-のらん へいぢ― 【平治の乱】
保元(ほうげん)の乱後、1159年(平治1)12月、京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし、平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。以後、平氏の政権が成立した。
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平治の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/14 03:06 UTC 版)
平治の乱(へいじのらん)は平安時代末期の平治元年12月9日(1160年1月19日)、院近臣らの対立により発生した政変である。
- ^ 元木泰雄は、『百錬抄』に「信頼の兵」が六波羅に攻め寄せたと記され、また成立年代の古い学習院本「平治物語」でも「信頼方勢揃えの事」という表記があることから、この日の戦いの総大将は藤原信頼であったとみなすべきとしている(『河内源氏- 頼朝を生んだ武士本流』中央公論新社〈中公新書〉、2011年)。
- ^ 『平治物語』諸本のうち学習院本が最も成立年代が古いものとされている。なお、学習院本は新日本古典文学大系43『保元物語・平治物語・承久記』(岩波書店)に所収されている
- ^ なお、従来この乱のきっかけの一つの要因として源義朝の不満が大きなものとして上げられていたが、現在はその見方は否定されている。詳細は源義朝を参照。
- ^ 当時の内裏の構造を考慮すると位置関係がおかしくなる(日下力「平治物語解説」(新古典文学大系『保元物語・平治物語・承久記』(岩波書店)内所収))
- ^ 元木泰雄は、平治の乱は保元の乱と異なり王権の分裂ではなくあくまでも信西と反信西派の私闘であり、首謀者以外は巻き込まれただけと見なされて処罰は軽く済んだのではないかと推測している(『河内源氏- 頼朝を生んだ武士本流』中央公論新社〈中公新書〉、2011年)。
- ^ 元木泰雄は、成親らと同様の理由で義朝の子や郎党たちも処罰は軽く済んだのではないかと推測している(『河内源氏- 頼朝を生んだ武士本流』中央公論新社〈中公新書〉、2011年)。また、岩田慎平は、義朝縁者は保護的といっても良い扱いを受けており、義朝は信頼一派に巻き込まれただけだとう同情が貴族社会にあったのではないかと見ている。(『乱世に挑戦した男 平清盛』(新人物往来社))
- ^ 『愚管抄』には「ナクナク仰有ケレバ(泣いて頼み込んだ)」とあり、実際には平身低頭に近かったと思われる。
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