いん‐せい〔ヰン‐〕【院政】
院政
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/21 09:14 UTC 版)
院政(いんせい)は、上皇(太上天皇)または出家した上皇である法皇(太上法皇)が天皇に代わり政務を行う政治形態のことである。この政治形態は、「院」すなわち上皇の執政を常態とする[1]。もうひとつの意味としては(上皇の院政に喩えて)、現職を引退した人が引退後も実権を握っていることを指す[2]。
注釈
- ^ 奈良時代には聖武天皇(紫香楽宮)と元正上皇(難波宮)のもとで短期間ながら宮廷が分裂し、平安時代には天皇の内侍宣を掌る尚侍藤原薬子が平城上皇の復位を画策したために、嵯峨天皇が命令系統を一時的に喪失する危機にさらされた薬子の変などの教訓から蔵人所の設置など天皇権力の強化が行われた影響もある[6]。また、薬子の変を教訓として太上天皇は天皇が居住する内裏には立ち入れない慣習が成立し、院政の成立後もその原則は守られ続けた[7]。
- ^ 本来は父院である一条上皇の役目であるが、上皇は既に死去している。なお、彰子は道長の娘、頼通の姉にあたる。
- ^ 母后である藤原賢子の関与の可能性も考えられるが、賢子は既に死去している。なお、賢子は師実の養女にあたる。
- ^ 摂関政治全盛期である上東門院と藤原道長・頼通親子の先例を範として成立した白河天皇(上皇・法皇)と摂関(大殿)藤原師実の先例は後世の摂関家においては「吉例」として考えられていたのである[8]。
- ^ 『古事談』によると崇徳天皇は白河天皇の実子であるとされており、両者の疎遠な関係の傍証とされてきたが、近年の研究では信憑性は疑問とされている[11]。
- ^ 当時の社会において、訴訟とりわけ所領関係の紛争の解決が期待されていたが、天皇に代わって上皇が裁許する形式が取られたのは、天皇が直接裁許することで敗訴した側の怨恨が天皇に向けられるのを回避する意図があったとも考えられている[12]。なお、同様の流れは同じ時期に将軍が直接裁許することを回避して執権が裁許を行う仕組を完成させた鎌倉幕府にも見受けられる[13]。
- ^ 直仁親王の本当の父親は光厳院であるとする見解がある[14]。
- ^ 甘露寺親長の『親長卿記』や甘露寺家に伝わっていた「案文書類巻」(国立歴史民俗博物館所蔵)より、親長が院司として作成した院宣の存在(応仁2年12月25日付庭田中納言(雅行)宛・文明2年10月18日付備前国薬師寺宛、ともに所領安堵)が確認できる。
- ^ これは摂関政治や武家政治(幕府)に対する理解にも影響を与えることとなった。本来君臣共治を基本としていた朝廷概念からすれば、摂関政治や武家政治なども朝廷への参画の形態の1つであって、貴族や武家は一時的な対立はあっても根本においては天皇権力と対立する存在ではないとされる[19][20]。
- ^ ヨーゼフ2世が神聖ローマ皇帝に即位後も母マリア・テレジアが統治権を持っていた事例については、マリア・テレジア自身が終生オーストリア大公・ハンガリー王・ボヘミア王の君主位を保持しており、夫フランツ1世在世時と変化はない。
出典
- ^ 『日本大百科全書』「院政」
- ^ 『デジタル大辞泉』「院政」
- ^ 『NHK高校講座 日本史』第9回「院政と荘園」2017年6月9日放送
- ^ 『日本外史』巻之一 源氏前記 平氏(平治の乱後):「この時に当たり、政、(後白河)上皇に在り。藤原経宗、藤原惟方、帝(二条天皇)に勧めて政を親らせしむ。両宮交々(こもごも)悪(にく)む」。
- ^ 『日本外史』巻之一 源氏前記 平氏「平氏論賛」:「是に由りて之を観れば、平宗を延いて以て相門に抗するは、院政・廟論、相伝承する所、其れ猶を寛平の菅氏を擢任するが如きか」(大意: これらの歴史的事例から察するに、平氏の一族の力を借りて藤原氏に対向するのは、天皇家において代々相伝されたことであり、寛平年間に菅原道真を抜擢任用したようなものだろうか)
- ^ 筧、2002年[要ページ番号]
- ^ 樋口、2018年、P58-61
- ^ 樋口、2011年[要ページ番号]
- ^ 岡野、2013年、序章 院政と荘園制 p.212(kindle版)
- ^ 樋口、2018年、P23-24・34-35.
- ^ 美川圭 2006
- ^ 近藤、2016年、P520
- ^ 近藤、2016年、P512
- ^ 岩佐美代子『光厳院御集全釈』風間書房、2000年ほか
- ^ 岡野、2013年、第四章 足利義満の「院政」と院政の終焉 p.2007(kindle版)
- ^ 桃崎有一郎『室町の覇者 足利義満―朝廷と幕府はいかに統一されたか』(筑摩書房、2020年)第十章 義持の試行錯誤の終着点―直義的正義感と義満的強権のバランス p.4005(kindle版)
- ^ 井原今朝男『室町期廷臣社会論』(塙書房、2014年)P166-168
- ^ 岡野、2013年 第四章 足利義満の「院政」と院政の終焉 p.2033(kindle版)
- ^ 河内 1986年[要ページ番号]
- ^ 河内 2007年[要ページ番号]
- ^ a b 『デジタル大辞泉』「院政」の、2番めの定義。
- ^ “お家騒動の血”が騒ぐ! NEC矢野新会長院政のムリクリトップ人事(1) - 週刊実話 2010年3月11日
- ^ 2年間は江沢民院政で合意 02年党大会で指導部 共同通信 2005年2月7日
- ^ “宇野首相、足元固めへ長老めぐり 「粉骨砕身」と協力要請 派閥解消へ声高く”. 読売新聞 (読売新聞社). (1989年6月15日)
- ^ “[90総選挙 話題の人最前線] リクルート事件みそぎへ執念(連載)”. 読売新聞 (読売新聞社). (1989年12月26日)
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