信西
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/13 03:54 UTC 版)
信西(しんぜい、嘉承元年〈1106年〉 - 平治元年12月13日〈1160年1月23日〉)は、平安時代後期の貴族、学者、僧侶。信西は出家後の法名、号は円空、俗名は藤原 通憲(ふじわら の みちのり)、または高階 通憲(たかしな の みちのり)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下、少納言。
注釈
- ^ 『尊卑分脈』(吉川弘文館、1958年)第2篇、485頁の通憲傍注に「長門守高階経敏、子と為して姓を改む。他家に入るに依りて儒業を遂げず、儒官を経ず」とある。
- ^ 長男の俊憲は仁安2年(1167年)に46歳で死去しているので(『山槐記』仁安2年4月10日(1167年4月30日)条)、保安3年(1122年)生まれである。
- ^ この両者の婚姻の時期は特定されていない。
- ^ ただし、山田邦和は当時(後白河即位以前)の信西には皇位を動かすだけの政治力は無かったとして、雅仁親王擁立は関白藤原忠通の策動とする[2]。
- ^ 古澤直人によれば、信西は息子が多く、そのいずれも急激な昇進を遂げたことで彼らと競合を迫られて超越される危機感を抱いた院近臣や天皇側近がやがて父親の信西に対して反発を強めたとする[3]。
- ^ 『平治物語』によると、後白河から信頼の大将就任を諮問された信西は先例を挙げて諫止するとともに、唐の玄宗皇帝と楊貴妃の悲劇を題材とした『長恨歌』の絵巻を作成し、信頼を寵臣でありながら反乱を起こした安禄山になぞらえて、その危険性を悟らせようとした。この絵巻は『玉葉』建久2年11月5日(1191年11月23日)条に記されており、実在が確認できる。絵巻を見た九条兼実は「この図、君の心を悟らせんがため、かねて信頼の乱を察して画き彰はす所なり。当時の規模、後代の美談なる者なり。末代の才子、誰か信西に比せんや。褒むべく、感ずべきのみ」と最大級の賛辞を呈している。
- ^ ただし、河内祥輔は信西襲撃の際、信西一族以外の院近臣のほとんどが信頼方についていることや信西一族への処分が信頼処刑後もすぐに解除されなかったことから、後白河上皇が「仏と仏との評定」に基づいて二条天皇親政への移行を進める信西を排除するために信頼らに信西を討たせたと解する[4]。
- ^ 『平治物語絵巻』信西巻では、獄門の棟木にかけられているが、平治物語一類本には「検非違使、大炊御門河原にて信西が首をうけ取、大路を渡、東の獄門のまゑなる樗(オウチ、楝とも書く)の木にぞかけてける」とある。
- ^ 信西の息子達は流刑の宣告を受けた。流刑地への護送は、二条親政派と手を結んだ平清盛によって信頼ら後白河院政派が一掃された後に行われた。その後、二条親政派の経宗と惟方が失脚すると、帰京を許されている。
出典
信西と同じ種類の言葉
固有名詞の分類
- >> 「信西」を含む用語の索引
- 信西のページへのリンク