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信西
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/05 15:44 UTC 版)
信西(しんぜい、嘉承元年(1106年) - 平治元年12月13日(1160年1月23日))は、平安時代末期の貴族・学者・僧侶。信西は出家後の法名、号は円空、俗名は藤原通憲(ふじわら の みちのり)、または高階通憲(たかしな の みちのり)。藤原南家貞嗣流、藤原実兼の子。正五位下・少納言。
- ^ 『尊卑分脈』の通憲傍注に「長門守高階経敏、子と為して姓を改む。他家に入るに依りて儒業を遂げず、儒官を経ず」とある。
- ^ 長男の俊憲は仁安2年(1167年)に46歳で死去しているので(『山槐記』4月10日条)、保安3年(1122年)生まれである。
- ^ 角田文衛『平安の春』講談社学術文庫,1999年。
- ^ この両者の婚姻の時期は特定されていない。
- ^ 『平治物語』によると、後白河から信頼の大将就任を諮問された信西は先例を挙げて諫止するとともに、唐の玄宗皇帝と楊貴妃の悲劇を題材とした『長恨歌』の絵巻を作成し、信頼を寵臣でありながら反乱を起こした安禄山になぞらえて、その危険性を悟らせようとした。この絵巻は『玉葉』建久2年11月5日条に記されており、実在が確認できる。 絵巻を見た九条兼実は「この図、君の心を悟らせんがため、かねて信頼の乱を察して画き彰はす所なり。当時の規模、後代の美談なる者なり。末代の才子、誰か信西に比せんや。褒むべく、感ずべきのみ」と最大級の賛辞を呈している。
- ^ 『平治物語』の諸本の中には、掘り起こした時はまだ目が動き、息もしていたと記すものもある。
- ^ 信西の息子達は流刑の宣告を受けた。流刑地への護送は、二条親政派と手を結んだ平清盛によって信頼ら後白河院政派が一掃された後に行われた。その後、二条親政派の経宗・惟方が失脚すると、帰京を許されている。
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