後白河上皇が平治の乱の背後にいたとする説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:39 UTC 版)
「平治の乱」の記事における「後白河上皇が平治の乱の背後にいたとする説」の解説
近年になって、河内祥輔が『平治物語』では、後白河上皇・二条天皇は藤原信頼に押籠められたことになっているが、『愚管抄』では二条は「とりまいらせ」、後白河は「すゑまいらせ」と区別され後白河が拘束を受けたとは書かれていないこと、『公卿補任』によると、信西の子・俊憲の配流先の変更(越後国⇒阿波国)が信頼一派の壊滅後の翌年正月に行われている(配流を命じた信頼らが謀反人として討たれても、信西一族への処分は取り消されていない。2月になって赦免が出される)ことなどを挙げ、藤原信頼の信西殺害は後白河の命令によるものであったとする説を提示している。 同説ではそもそも鳥羽法皇が後継者として指名したのは二条天皇であり、後白河はその即位までの中継ぎに過ぎず鳥羽法皇の死去によって本来であれば院政を行う資格のない後白河上皇が形式的に院政を行うことになったものとする。信西は経歴的に「鳥羽法皇の側近」であって、法皇の生前の意向通りに二条天皇による親政を実現させる役割を担っており、将来的には信西によって自己の院政が停止させられると考えた後白河が、二条の親政が始まる前に信西を排除して名実ともに自己の院政を実現させるために引き起こしたのが平治の乱であったと結論づけている(なお、河内説では「二条親政派」と後白河上皇の対立の開始を平治の乱以後とし、藤原経宗・惟方ら二条天皇側近もこの段階では信西との対立はあっても後白河とは対立していなかったとする。また、三条殿の炎上が信頼・義朝側の放火とする十分な裏付けは無く、失火ではないかと推測している)。だが、信西と同様の立場に立つ三条公教によって二条天皇が平清盛の軍事的保護下に置かれ、公卿たちがそこに結集したことで公家社会に擁立された子の天皇が父の上皇と対決するという構図が形成されたために、後白河はやむなく信頼らを切り捨てた。つまり、25日の晩の二条天皇の六波羅行幸の段階で既に「平治の乱」は終わって、翌日の戦闘は義朝による最後の抵抗に過ぎず、清盛側から見れば残敵への掃討戦であったということになる。 この説に対しては元木泰雄が、「院の立場から信西を排除するなら罪をかぶせて配流すればよいはず」「二条親政を阻止するためには信西より二条側近の排除が第一のはず」「外戚である経宗が親政阻止に加担するのは不自然」「後白河が以仁王を含めた藤原成子所生の皇子を顧慮した形跡がない」との趣旨で批判している。古澤直人も「信西一家の台頭は貴族社会に深刻な動揺を与え、親政派と院政派の対立は後白河と二条の対立とは別の次元で進行していた(院近臣である信頼と親政派である経宗に"信西排除"の共通目標・大義名分を与えた)」「信頼が処刑された後も"信西排除"を掲げる経宗・惟方・源光保ら親政派が中央で健在である以上、信西の子への処分は取り消されなかった(ただし、配流の強行が院による親政派排除につながった可能性はある)」との趣旨で批判している。
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