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ふじわら-のよりなが ふぢはら― 【藤原頼長】
(1120-1156) 平安後期の廷臣。忠実の二男。左大臣。通称、悪左府・宇治左大臣。兄忠通と対抗し、父の後援を得て氏長者(うじのちようじや)となったが、鳥羽法皇の信任を失い、崇徳上皇と結んで挙兵し(保元の乱)、敗死した。和漢の才に富み、日記「台記」がある。
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藤原頼長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/04 05:27 UTC 版)
藤原 頼長(ふじわら の よりなが)は、平安時代末期の公卿。兄の関白・忠通と対立し、父・忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない性格により「悪左府」と呼ばれた。後に鳥羽法皇の信頼を失って失脚。政敵の美福門院・忠通・信西らに追い詰められ、保元の乱で敗死した。
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- ^ ここで言う「学生」は、現代における学生とは異なり、学者という意味である。
- ^ この「悪」も現代でいう「悪い」という意味ではなく、性質・能力・行動などがあまりに優れているのを恐れて冠したものである。僧兵、悪党も参照のこと。
- ^ 白河・鳥羽両院の近臣で博学多才を謳われた信西も「閣下(頼長)の才、千古に恥ぢず。漢朝に訪ぬるにまた比類少なし。既にして我が朝中古の先達を超ゆ」(『台記』天養2年6月7日条)と激賞している。
- ^ 「大殿の若君、摂政殿の御子と成し給う」(『中右記目録』天治2年4月13日条)。保延2年(1136年)の内大臣任命の宣命でも、忠通の「長男」として遇されている(『台記』12月9日条)。
- ^ 『台記』2月11日条には「大相国張本と為す。或いは曰く、美福門院張本と為す。法皇またこれを許し、詐って大相をもって張本と為す」とある。
- ^ 頼長は儒教教育の場として大学寮の再興に務めたが、その一方で大学寮の築垣を修造した藤原憲孝を成功によって文章生に合格させ(『台記』仁平4年6月20日条)、自らが推挙する菅原登宣のために給料生の試験を行う(『本朝世紀』6月3日条・『宇槐記抄』仁平3年6月8日・21日条。結果として菅原登宣と藤原光範の2名だけが合格し、落第者には今後の望みを絶つよう書状を送る)など、学界への勢力拡大を図っている。
- ^ 世の乱れを治め、正しい世の中に戻すという意味で、出典は『春秋公羊伝』哀公14年である。
- ^ 仁平2年(1152年)、近衛天皇の方違行幸において、輿から降りる天皇の裾を頼長が取ろうとしたところ、天皇は拒絶して自ら裾を取って降りた。頼長はこの天皇の態度を「自分を憎んでいるためであり、関白の讒言によるのだろう」と記している(『宇槐記抄』10月1日条)。
- ^ これは忠通と美福門院の仕組んだでっち上げである可能性が高い。5、6年前に何者かが像の目に釘を打つという異常な行為を目撃しておきながら、それを誰にも報告しないでいたのは不自然である。
- ^ 頼長の負傷については、主要な武将に戦死者がいないことからハプニングとする説(河内祥輔)、新手の軍勢が投入され放火戦術まで採られている事から、激しい戦闘を裏付けるものとする説(元木泰雄)がある。
- ^ 興福寺の僧・玄顕による朝廷への申告では、母方の叔父で興福寺にいた千覚の房に担ぎ込まれ死去したという。
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