崇徳天皇
(崇徳院 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/18 00:53 UTC 版)
崇徳天皇(すとくてんのう、旧字体:崇德天皇、1119年7月7日〈元永2年5月28日〉- 1164年9月14日〈長寛2年8月26日〉)は、日本の第75代天皇(在位: 1123年2月25日〈保安4年1月28日〉- 1142年1月5日〈永治元年12月7日〉)。諱は顕仁(あきひと)。
注釈
- ^ 重仁親王の生母である兵衛佐殿は身分が低すぎ、かつ躰仁親王の立太子後の誕生であったために、重仁親王は崇徳天皇在位中は皇位継承の候補者には成りえなかった。また、保延年間以降、崇徳天皇が政務に参加するとともに人事などを巡って父院と対立が生じたとされる[3]。
- ^ ただし、『本朝続文粋』に所収されている藤原頼長の左近衛大将上表文の文中から頼長が「皇太子傅」を兼任していたのことが判明することから、躰仁親王の地位を確定する立太子の宣命には「皇太子」と明記されていたと推定され、譲位の宣命の表現にどれだけ有効性があるか疑問視する見方もある[3]。
- ^ 佐伯智広は近衛天皇が崇徳上皇との父子関係を維持しなければならない理由として、待賢門院流所領の継承問題があるとする。これは藤原璋子(待賢門院)から長男の崇徳上皇に継承された御願寺とその所領、崇徳上皇自身の御願寺である成勝寺とその所領などから成り、近衛天皇より先に崇徳上皇が没していればそれらの所領は「子」とみなされる近衛天皇が相続し得たとする。同様に近衛天皇没後に守仁親王ではなく父親で崇徳上皇とは同母弟であった雅仁親王が即位した理由も守仁親王に待賢門院流所領の継承資格を保持させるために雅仁からの父子継承を必要とし、別に近衛天皇の同母妹である姝子内親王との婚姻や同母姉である八条院の准母待遇を設定する事で彼女達の権利を相続する形で美福門流所領に対する継承権も与えようとしたと説く[3]。
- ^ ただし、覚性以外の崇徳院の兄弟は保元の乱に際して全て院との関わりを拒絶している。覚性は讃岐配流後の院と書状のやりとりをし、行く当てを亡くした院の第二皇子や兵衛佐局を庇護するなど、崇徳院に対して唯一家族としての情と慈悲を示したとする評価もある[11]。
出典
- ^ “(4767) Sutoku = 1983 LH = 1987 GC”. 2022年7月3日閲覧。
- ^ 『今鏡』第八、腹々の御子
- ^ a b c d e f 佐伯智広「鳥羽院政期の王家と皇位継承」『日本史研究』598号、日本史研究会、2012年。/所収:佐伯智広『中世前期の政治構造と王家』東京大学出版会、2015年。ISBN 978-4-13-026238-5。
- ^ 『愚管抄』『今鏡』
- ^ 『本朝世紀』
- ^ 栗山圭子「中世王家の存在形態と院政」『ヒストリア』193号、大阪歴史学会、2005年。/所収:栗山圭子『中世王家の成立と院政』吉川弘文館、2012年。
- ^ 『台記』
- ^ 『愚管抄』
- ^ 『兵範記』7月10日条
- ^ 『保元物語』
- ^ 山内益次郎『今鏡の研究』、桜楓社、1980年、P126-127.
- ^ 元木 2004, pp. 113–115.
- ^ 元木 2004, pp. 115–116.
- ^ 『法華経』『華厳経』『涅槃経』『大集経』『大品般若経』
- ^ 『風雅和歌集』
- ^ 『遠島百首』
- ^ 『平安遺文』2848
- ^ a b 『百錬抄』
- ^ 『皇代記』
- ^ 山内益次郎「崇徳院慰霊」『今鏡の周辺』和泉書院、1993年。
- ^ 『吉記』寿永元年6月21日条
- ^ 『玉葉』寿永2年8月15日条
- ^ 樋口健太郎「「保安元年の政変」と鳥羽天皇の後宮」」『龍谷大学古代史論集』創刊号、2018年。/所収:樋口健太郎『中世王権の形成と摂関家』吉川弘文館、2018年。ISBN 978-4-642-02948-3。
崇徳院(すとくいん)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 22:08 UTC 版)
「妖狐伝義経千本桜」の記事における「崇徳院(すとくいん)」の解説
本作では呼称は崇徳院で統一される。怨霊となり自らを魔王(魔界の王)と名乗る。魂を吸い上げるなど驚異的な力を持ち、白狐を引き入れ従わせようとし、戦乱を招くために義経の命を狙う。大天狗。
※この「崇徳院(すとくいん)」の解説は、「妖狐伝義経千本桜」の解説の一部です。
「崇徳院(すとくいん)」を含む「妖狐伝義経千本桜」の記事については、「妖狐伝義経千本桜」の概要を参照ください。
崇徳院(*)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 20:31 UTC 版)
「ちりとてちん (テレビドラマ)」の記事における「崇徳院(*)」の解説
第6週で取り上げられた噺。草々の台詞にもある通り、崇徳院が詠んだ歌が草若の弟子達の心情を表すキーポイントとなっている。
※この「崇徳院(*)」の解説は、「ちりとてちん (テレビドラマ)」の解説の一部です。
「崇徳院(*)」を含む「ちりとてちん (テレビドラマ)」の記事については、「ちりとてちん (テレビドラマ)」の概要を参照ください。
崇徳院(すとくいん)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 21:11 UTC 版)
先代の帝にして、重仁の父。表向きは鳥羽院の息子だが、実はその祖父である白河院の子である。その出自ゆえに鳥羽院に疎まれて皇位を取り上げられてしまい、現在はなんとか重仁を帝にしようと画策している。
※この「崇徳院(すとくいん)」の解説は、「久遠の絆」の解説の一部です。
「崇徳院(すとくいん)」を含む「久遠の絆」の記事については、「久遠の絆」の概要を参照ください。
崇徳院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 17:33 UTC 版)
ある時(1141年以降)西行にゆかりの人物(藤原俊成説がある)が崇徳院の勅勘を蒙った際、院に許しを請うと崇徳院は次の歌を詠んだ(山家集)。 「最上川 つなでひくとも いな舟の しばしがほどは いかりおろさむ」 意:最上川では上流へ遡行させるべく稲舟をおしなべて引っ張っていることだが、その稲舟の「いな」のように、しばらくはこのままでお前の願いも拒否しよう。舟が碇を下ろし動かないように。 対して西行は次の返歌を詠んだ。 「つよくひく 綱手と見せよ もがみ川 その稲舟の いかりをさめて」 意:最上川の稲舟の碇を上げるごとく、「否」と仰せの院のお怒りをおおさめ下さいまして、稲舟を強く引く綱手をご覧下さい(私の切なるお願いをおきき届け下さい)。
※この「崇徳院」の解説は、「西行」の解説の一部です。
「崇徳院」を含む「西行」の記事については、「西行」の概要を参照ください。
崇徳院(尼崎市)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 15:15 UTC 版)
「日本の人名地名一覧」の記事における「崇徳院(尼崎市)」の解説
江戸時代には浜田村の小字名。保元の乱に敗れ讃岐に流される崇徳院が休息したという伝承がある。崇徳院を祀る「粟田宮」が京都に建立された際に当地を含む浜田荘が粟田宮に寄進されたこと、および当地近傍の神社の相殿神として崇徳院が祀られていることが確認される
※この「崇徳院(尼崎市)」の解説は、「日本の人名地名一覧」の解説の一部です。
「崇徳院(尼崎市)」を含む「日本の人名地名一覧」の記事については、「日本の人名地名一覧」の概要を参照ください。
- 崇徳院のページへのリンク