帰京とは? わかりやすく解説

き‐きょう〔‐キヤウ〕【帰京】

読み方:ききょう

[名](スル)都に帰ること。現在では、東京明治以前京都帰ることをいう。「来月—する予定です」


帰京

作者中野重治

収載図書中野重治全集 第4巻 ある楽しさ
出版社筑摩書房
刊行年月1996.7


帰京

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/28 06:48 UTC 版)

滝川昌楽」の記事における「帰京」の解説

寛文11年1671年以前京都三条大橋東詰に移り高瀬梅盛俳諧学び、後に中島随流師事した寛文13年1673年)随流が編纂したうぐひす笛』春上に2句入集した。延宝5年1677年)師尺五の父貞徳25回忌に当たり刊行された『貞徳居士追福千首』にも「一信」として和歌寄せる。 延宝8年1680年3月随流の談林派論難書『俳諧猿黐(さるとりもち)』に「随有軒木端坊」として跋文寄せ本文に「此神詠の秘訣貞徳より伝へし者は、加藤般斎・広沢長好・山本西武滝川随有子のみ」と言及される。このことで、後に元禄7年1694年)跋『あらむつかし』腹の巻で「随流といふ者、人をたぶらかすの上手也と聞侍るまことにおもへば、昌三(尺五)弟子とやらんかける随有といふ儒者も、たぶらかされて『さるとりもち』などいふ、わけもなき事をかきて、世間にわらはれ侍る。」と反撃された。 天和2年1682年朝鮮通信使江戸から帰る途中9月29日京都本圀寺滞在中の洪滄浪盤谷等を尋ね筆談により漢詩交わし12月すかさず韓筆語唱和集』上巻として刊行させた。 元禄期には再び尺五堂付近に住み、『元禄覚書』では住所を「高倉通」、元禄4年1691年3月多田兵部義元著『多田五代記』に寄せた跋文では「城下」とする。没年不明だが、元禄14年1701年広沢学元重成が貝原益軒宛てた書簡昌楽の死を伝える。

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帰京

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 07:12 UTC 版)

佐久間信恭」の記事における「帰京」の解説

1897年明治30年9月帰京し浄土宗本校実弟松平康国東京専門学校勤務し12月から陸軍砲工学校教師兼ねた前後して正則英語学校にも勤めたが、斎藤秀三郎対立してすぐに辞職した1898年明治31年3月浄土宗本校6月東京専門学校7月陸軍砲工学校辞職し1898年明治31年9月から1899年明治32年3月までに勤めたまた、磯辺弥一郎洋行中国英学会代講引き受け、『ジャパンタイムズ』、『中外英字新聞』とも関係した1900年明治33年8月京都西本願寺文学教頭となったが、同年仏教高等中学として東京移ったため帰京し12月辞職した1902年明治35年4月8日東京高等師範学校英語科講師となり、國學院講師1911年明治44年明治大学講師兼ねた1904年明治37年9月日本中学校東京英語学校再興に関わったが、1年余り閉校した1914年大正3年3月英語科主任岡倉由三郎対立して高等師範学校退職し以後國學院明治大学講義持ちながら著述専念した

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帰京

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:56 UTC 版)

親鸞」の記事における「帰京」の解説

623歳の頃に帰京する帰京後は、著作活動に励むようになる親鸞帰京した後の東国関東)では、様々な異義異端取り沙汰される様になる帰京の理由 確証となる書籍消息などが無く諸説あり推論である。また複数理由によることも考えられる天福2年1234年)、宣旨により鎌倉幕府専修念仏禁止弾圧したため。 弾圧から逃れるためだけに、東国門徒置き去りにして京都向うとは考えにくく、また京都においても専修念仏対する、弾圧つづいているため帰京の理由としては不適当という反論がある。 主著教行信証』と、「経典」・「論釈」との校合のため。 鹿島神宮には経蔵があり、そこで参照校合作業が可能という反論がある。ただし、親鸞鹿島神宮参詣したという記録は、江戸時代以前書物には存在しないまた、鹿島神宮経論釈は所蔵以来著しく年月経っており、最新のものと参照校合するためには、当時一番早く新し経論釈が入手できる京都に戻らなければなかったとする主張もある。次の説とも関係を持つ説である。 東国において執筆した主著教行信証』をはじめとする著作物内容が、当時経済・文化の中心地である京都趨勢確認する事により、後世通用する検証照合修正するため。 現代比較して機械的伝達手段が無い当時は、経済・文化などの伝播速度極めて遅く時差生じる。その東国京都時差確認修正のために帰京したとする説。 望郷の念によるもの35歳まで京都にいたが、京都街中生活した時間得度するまでと、吉水入室の間と短く、また晩年精力的な著作活動考えると、望郷の念によるとは考えにくいという反論がある。 著作活動専念するため。 当時623歳という年齢は、かなりの高齢であり、著作活動専念するためだけに帰京したとは、リスク大きいため考えにくいという反論がある。 妻・恵信尼の動向 確証となる書籍消息などが無く諸説あり推論である。東国残り没したとする説。(西念寺寺伝京都には同行せずに、恵信尼故郷越後戻ったとする説。 当時女性自立していて、夫の行動に必ずしも同行しなければならないという思想は無い。 京都同行もしくは親鸞京都での生活拠点定めた後に上京したとする説。その後20年間にわたり恵信尼は、親鸞とともに京都生活したとされ、建長6年1254年)に、親鸞身の回り世話末娘覚信尼任せ故郷越後帰ったとする。 帰郷理由は、親族世話生家である三善家の土地管理などであった推定されるまた、親鸞京都における生活は、東国門徒からの援助成り立っており、経済状況余裕無かった考えられる覚信尼残し恵信尼その他の家族は、三善家の庇護を受けるため越後帰ったとする説。 承久の乱 承久の乱により、法然親鸞らを流罪処した後鳥羽上皇が、隠岐島配流されたことによる 寛元5年1247年75歳の頃には、補足改訂続けてきた『教行信証』を完成したとされ、尊書写を許す。 宝治2年1248年)、『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述する。 建長2年1250年)、『唯信鈔文意』(盛岡本誓寺蔵本)を撰述する。 建長3年1251年)、常陸の「有念無念の諍」を書状送って制止する建長4年1252年)、『浄土文類聚鈔』を撰述する。 建長5年1253年)頃、善鸞親鸞息子)とその息子如信親鸞の孫)を正統宗義布教為に東国派遣した。しかし善鸞は、邪義である「専修賢善」(せんじゅけんぜん)に傾いたともいわれ、正し念仏者にも異義異端説き混乱させた。また如信は、陸奥国大網(現、福島県石川郡古殿町)にて布教続け、「大網門徒」と呼ばれる大規模な門徒集団を築く。 建長7年1255年)、『尊号真像銘文』(略本福井県法雲寺本)、『浄土三経往生文類』(略本建長本)、『愚禿鈔』(二巻鈔)、『皇太子聖徳奉讃』(七十五首)を撰述する。 建長8年1256年)、『入出二門偈頌文』(福井県法雲寺本)を撰述する。 ウィキソースに「善鸞義絶状」の原文あります同年5月29日の手紙で、東国関東)にて異義異端説いた善鸞義絶するその手紙は「善鸞義絶状」、もしくは慈信房義絶状」と呼ばれる。 『歎異抄第二条想起される東国門徒訪問は、これに前後する考えられる康元元年1256年)、『如来二種回向文』(往相回向還相回向文類)を撰述する。 康元2年1257年)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王 聖太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類』(広本康元本)を転写する正嘉2年1258年)、『尊号真像銘文』(広本)、『正像末和讃』を撰述する。 南北朝時代には『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を、「三帖和讃」と総称するこの頃書簡は、後に『末燈抄』(編纂:従覚)、『親鸞聖人御消息集』(編纂:善性)などに編纂される。

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