帰京
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寛文11年(1671年)以前に京都三条大橋東詰に移り、高瀬梅盛に俳諧を学び、後に中島随流に師事した。寛文13年(1673年)随流が編纂した『うぐひす笛』春上に2句入集した。延宝5年(1677年)師尺五の父貞徳25回忌に当たり刊行された『貞徳居士追福千首』にも「一信」として和歌を寄せる。 延宝8年(1680年)3月随流の談林派論難書『俳諧猿黐(さるとりもち)』に「随有軒木端坊」として跋文を寄せ、本文に「此神詠の秘訣を貞徳より伝へし者は、加藤般斎・広沢長好・山本西武・滝川随有子のみ」と言及される。このことで、後に元禄7年(1694年)跋『あらむつかし』腹魚の巻で「随流といふ者、人をたぶらかす事の上手也と聞侍る。まことにおもへば、昌三(尺五)弟子とやらんかける随有といふ儒者も、たぶらかされて『さるとりもち』などいふ、わけもなき事をかきて、世間にわらはれ侍る。」と反撃された。 天和2年(1682年)朝鮮通信使が江戸から帰る途中、9月29日京都本圀寺に滞在中の洪滄浪・李盤谷等を尋ね、筆談により漢詩を交わし、12月すかさず『桑韓筆語唱和集』上巻として刊行させた。 元禄期には再び尺五堂付近に住み、『元禄覚書』では住所を「高倉通」、元禄4年(1691年)3月多田兵部義元著『多田五代記』に寄せた跋文では「銅駄城下」とする。没年は不明だが、元禄14年(1701年)広沢学元重成が貝原益軒に宛てた書簡が昌楽の死を伝える。
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帰京
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1897年(明治30年)9月帰京し、浄土宗本校、実弟松平康国と東京専門学校に勤務し、12月から陸軍砲工学校教師を兼ねた。前後して正則英語学校にも勤めたが、斎藤秀三郎と対立してすぐに辞職した。 1898年(明治31年)3月浄土宗本校、6月東京専門学校、7月陸軍砲工学校を辞職し、1898年(明治31年)9月から1899年(明治32年)3月までに勤めた。また、磯辺弥一郎の洋行中国民英学会で代講を引き受け、『ジャパンタイムズ』、『中外英字新聞』とも関係した。 1900年(明治33年)8月京都で西本願寺文学寮教頭となったが、同年仏教高等中学として東京に移ったため帰京し、12月辞職した。 1902年(明治35年)4月8日東京高等師範学校英語科講師となり、國學院講師、1911年(明治44年) 明治大学講師を兼ねた。1904年(明治37年)9月日本中学校で東京英語学校再興に関わったが、1年余りで閉校した。 1914年(大正3年)3月英語科主任岡倉由三郎と対立して高等師範学校を退職し、以後國學院、明治大学で講義を持ちながら著述に専念した。
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帰京
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62、3歳の頃に帰京する。帰京後は、著作活動に励むようになる。親鸞が帰京した後の東国(関東)では、様々な異義異端が取り沙汰される様になる。 帰京の理由 確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。また複数の理由によることも考えられる。天福2年(1234年)、宣旨により鎌倉幕府が専修念仏を禁止・弾圧したため。 弾圧から逃れるためだけに、東国門徒を置き去りにして京都に向うとは考えにくく、また京都においても専修念仏に対する、弾圧はつづいているため帰京の理由としては不適当という反論がある。 主著『教行信証』と、「経典」・「論釈」との校合のため。 鹿島神宮には経蔵があり、そこで参照・校合作業が可能という反論がある。ただし、親鸞が鹿島神宮を参詣したという記録は、江戸時代以前の書物には存在しない。また、鹿島神宮の経論釈は所蔵以来著しく年月が経っており、最新のものと参照校合するためには、当時一番早く新しい経論釈が入手できる京都に戻らなければなかったとする主張もある。次の説とも関係を持つ説である。 東国において執筆した主著『教行信証』をはじめとする著作物の内容が、当時の経済・文化の中心地である京都の趨勢を確認する事により、後世に通用するか検証・照合・修正するため。 現代と比較して、機械的伝達手段が無い当時は、経済・文化などの伝播の速度が極めて遅く、時差が生じる。その東国と京都の時差の確認・修正のために帰京したとする説。 望郷の念によるもの。 35歳まで京都にいたが、京都の街中で生活した時間は得度するまでと、吉水入室の間と短く、また晩年の精力的な著作活動を考えると、望郷の念によるとは考えにくいという反論がある。 著作活動に専念するため。 当時62、3歳という年齢は、かなりの高齢であり、著作活動に専念するためだけに帰京したとは、リスクが大きいため考えにくいという反論がある。 妻・恵信尼の動向 確証となる書籍・消息などが無く、諸説あり推論である。東国に残り、没したとする説。(西念寺寺伝) 京都には同行せずに、恵信尼は故郷の越後に戻ったとする説。 当時の女性は自立していて、夫の行動に必ずしも同行しなければならないという思想は無い。 京都に同行、もしくは親鸞が京都での生活拠点を定めた後に上京したとする説。その後約20年間にわたり恵信尼は、親鸞とともに京都で生活したとされ、建長6年(1254年)に、親鸞の身の回りの世話を末娘の覚信尼に任せ、故郷の越後に帰ったとする。 帰郷の理由は、親族の世話や生家である三善家の土地の管理などであったと推定される。 また、親鸞の京都における生活は、東国門徒からの援助で成り立っており、経済状況に余裕が無かったと考えられる。覚信尼を残し恵信尼とその他の家族は、三善家の庇護を受けるため越後に帰ったとする説。 承久の乱 承久の乱により、法然・親鸞らを流罪に処した後鳥羽上皇が、隠岐島に配流されたことによる 寛元5年(1247年)75歳の頃には、補足・改訂を続けてきた『教行信証』を完成したとされ、尊蓮に書写を許す。 宝治2年(1248年)、『浄土和讃』と『高僧和讃』を撰述する。 建長2年(1250年)、『唯信鈔文意』(盛岡本誓寺蔵本)を撰述する。 建長3年(1251年)、常陸の「有念無念の諍」を書状を送って制止する。 建長4年(1252年)、『浄土文類聚鈔』を撰述する。 建長5年(1253年)頃、善鸞(親鸞の息子)とその息子如信(親鸞の孫)を正統な宗義布教の為に東国へ派遣した。しかし善鸞は、邪義である「専修賢善」(せんじゅけんぜん)に傾いたともいわれ、正しい念仏者にも異義異端を説き、混乱させた。また如信は、陸奥国の大網(現、福島県石川郡古殿町)にて布教を続け、「大網門徒」と呼ばれる大規模な門徒集団を築く。 建長7年(1255年)、『尊号真像銘文』(略本・福井県・法雲寺本)、『浄土三経往生文類』(略本・建長本)、『愚禿鈔』(二巻鈔)、『皇太子聖徳奉讃』(七十五首)を撰述する。 建長8年(1256年)、『入出二門偈頌文』(福井県・法雲寺本)を撰述する。 ウィキソースに「善鸞義絶状」の原文があります。 同年5月29日付の手紙で、東国(関東)にて異義異端を説いた善鸞を義絶する。その手紙は「善鸞義絶状」、もしくは「慈信房義絶状」と呼ばれる。 『歎異抄』第二条に想起される東国門徒の訪問は、これに前後すると考えられる。 康元元年(1256年)、『如来二種回向文』(往相回向還相回向文類)を撰述する。 康元2年(1257年)、『一念多念文意』、『大日本国粟散王 聖徳太子奉讃』を撰述し、『浄土三経往生文類』(広本・康元本)を転写する。 正嘉2年(1258年)、『尊号真像銘文』(広本)、『正像末和讃』を撰述する。 南北朝時代には『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』を、「三帖和讃」と総称する。 この頃の書簡は、後に『末燈抄』(編纂:従覚)、『親鸞聖人御消息集』(編纂:善性)などに編纂される。
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