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ふじわら-のひでさと ふぢはら― 【藤原秀郷】
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藤原秀郷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/01/08 14:53 UTC 版)
藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと、生没年不詳)は、平安時代中期の武将。下野大掾藤原村雄の子。藤原北家・魚名の後裔とされる。生母は下野掾鹿島某の女とする。俵藤太(田原藤太とも。読みは「たわらのとうだ」、「たわらのとうた」)の通称で知られる。官位は従四位下、下野守、武蔵守、鎮守府将軍。死後、贈位を受け贈正二位。
室町時代に「俵藤太絵巻」が完成し、近江三上山の百足(むかで)退治の伝説で有名。もとは下野掾であったが、平将門追討の功により、従四位下に昇り下野・武蔵二ヶ国の国司と鎮守府将軍に叙せられ、勢力を拡大。源氏・平氏と並ぶ武門の棟梁として多くの家系を輩出したが、仮冒も多い。
- ^ 豊田武『苗字の歴史』(中公新書、1971年)、武光誠『名字と日本人』(文春新書、1998年)など。
- ^ 延長5年(927年)に下野国押領使に任じられたとする意見[1]もあるが2年後に追討官符を出されていることから疑問視する意見[2]もある。
- ^ 青木和夫 『古代豪族』 講談社(初版小学館)、2007年、初版1974年、ISBN 4061598112 では、天慶3年正月14日(ユリウス暦940年2月24日)に朝廷が将門対策として平公雅ら8人を東国の掾に任命した際に、その一人として叙任されたとする。下向井龍彦 『武士の成長と院政』 講談社、2001年、ISBN 4062689073 では天慶3年(940年)、将門が「新皇」を名乗ったことが京都に伝わったときとの説であり、青木説とほぼ同時期となっている。
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