みなかた‐くまぐす【南方熊楠】
みなかたくまぐす 【南方熊楠】
南方熊楠
南方熊楠
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南方 熊楠(みなかた くまぐす、1867年5月18日(慶応3年4月15日) - 1941年(昭和16年)12月29日)は、日本の博物学者・生物学者・民俗学者。
注釈
- ^ 熊楠の生まれた時、父弥兵衛は39歳、母住が30歳であった。ちなみに、この二人の間には、長男藤吉、長女くま、次男熊楠、三男常楠、次女藤枝、四男楠次郎の6人が生まれている。生誕地は橋丁二十二番地、その跡地に当たる駐車場の角に、和歌山市によって熊楠の胸像が1994年に建てられている[7]。
- ^ 速成中学校(旧制の高等小学校と同じ)で希望者のみ入学した。
- ^ 中国明代の辞書『正字通』にある「落斯馬」という動物がイッカクであると書いたシュレーゲルに対し、熊楠はセイウチであると主張した論争。熊楠が勝利。
- ^ 発見場所は、稲荷村(現・田辺市)の糸田にある猿神祠(古くは山王権現社と呼ばれていた)で、高山寺のある台地の会津川に臨む見晴らしの良い場所にあった[14]。
- ^ 当時の『ネイチャー』誌における投稿論文は、現在の査読を行わない読者投稿欄のようなものであった[要出典]。
- ^ 写真多数の図版本。長谷川興蔵(1924-1992)は、編集者として生涯かけ平凡社・八坂書房で著作資料の校訂を担当した。
- ^ 同じ谷川健一編で、熊楠を柳田国男・折口信夫と比較論考した『南方熊楠、その他』(思潮社、1991年)がある。
- ^ 著者没後に刊、編者ほか3名による共著。
出典
- ^ 松居竜五・岩崎仁編『南方熊楠の森』(方丈堂出版、2005年)4〜13頁
- ^ a b c d e f g h i j k 南方熊楠大辞典. 勉誠出版. (2012年1月30日)
- ^ a b 田村義也「語学力」(『南方熊楠大事典』129-133頁)
- ^ 飯倉照平「熊楠伝説」、『南方熊楠大事典』(勉誠出版、2012年)124〜129頁などを参照。
- ^ a b c d e f 唐澤太輔「南方熊楠 日本人の可能性の極限」. 中央公論新社〈中公新書〉. (2015年4月)
- ^ a b c d 『読売新聞』よみほっと(日曜別刷り)2021年10月24日1面【ニッポン絵ものがたり】南方熊楠「菌類図譜」F.4198
- ^ 飯倉 2006, p. 2.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc bd be bf bg bh bi bj bk 南方熊楠大事典(第六部 年譜). 勉誠出版. (2012年1月30日)
- ^ a b c d e f g h i 漱石と熊楠 同時代を生きた二人の巨人. 鳥影社. (2019年4月3日)
- ^ Collectors of the UNC Herbarium(英語) - ノースカロライナ大学チャペルヒル校植物標本館(ノースカロライナ植物園の一部門でもある。)
- ^ William Wirt Calkins - ウェイバックマシン(2019年3月13日アーカイブ分)(英語) - イリノイ州自然史調査所
- ^ 松居竜五「ジャクソンヴィルにおける南方熊楠」『龍谷大学国際社会文化研究所紀要』第11号、龍谷大学、2009年6月30日、210-228頁、NAID 110008739278。
- ^ “南方熊楠|南方マンダラ[土宜法龍宛の手紙:1903年7月18日付]|1903年7月18日|ARCHIVE”. ARCHIVE. 2024年3月22日閲覧。
- ^ 飯倉 2006, p. 206.
- ^ 飯倉 2006, p. 200.
- ^ 松居竜五「南方熊楠宛スウィングル書簡について」『龍谷大学国際社会文化研究所紀要』第7号、龍谷大学、2005年3月25日、149-156頁、NAID 110004628956。
- ^ a b 南方熊楠顕彰会>ゆかりの地
- ^ 変形菌分類学研究者 - 日本変形菌研究会
- ^ Minakatella longifila G. Lister -- Discover Life
- ^ Minakatella longifila G.Lister, 1921 - Checklist View
- ^ Gulielma Lister - Wanstead's Wildlife(英語)
- ^ 変形菌分類学研究者の紹介(国外) - 日本変形菌研究会
- ^ 雲藤等「『南方熊楠全集』(平凡社)と書翰原本との異同 : 上松蓊宛・平沼大三郎宛書翰を中心に」『社学研論集』第20巻、早稲田大学大学院社会科学研究科、2012年9月、139-155頁、ISSN 1348-0790、NAID 120005300994。(18)の異同を参照。
- ^ 紀田順一郎「南方熊楠─学問は活物で書籍は糟粕だ─」においては、ブレサドラの『菌誌』とも。
- ^ 南方熊楠顕彰館所蔵資料・蔵書一覧(南方熊楠顕彰館2012) 5.関連p.14の"関連0958"に資料名として『ブレサドラ菌図譜』とあわせて「名誉賛助名簿」とある。
- ^ a b c d e f g h 南方熊楠大事典(第二部 生涯). 勉誠出版. (2012年1月)
- ^ 南方熊楠大事典(第三部 人名録). 勉誠出版. (2012年1月)
- ^ 飯倉 2006, p. 36.
- ^ 飯倉 2006, p. 277.
- ^ 飯倉 2006, p. 279.
- ^ 飯倉 2006, p. 273.
- ^ 萩原(1999)、p.244
- ^ a b 南方熊楠大事典. 勉誠出版. (2012年1月)
- ^ 和歌山県神社庁公式サイト 鬪鷄神社
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 南方文枝「父 南方熊楠を語る」、付神社合祀反対運動未公刊史料. 日本エディタースクール出版部. (1981年・昭和56年7月)
- ^ 唐澤太輔「〈研究論文 ワーキングペーパー 報告書〉「南方曼陀羅」と『華厳経』の接点」『2015年度 研究活動報告書』、龍谷大学世界仏教文化研究センター、2016年3月、191頁、NAID 120005969550。
- ^ 『日本学者フレデリック・ヴィクター・ディキンズ』秋山勇造 松岡正剛の千夜千冊・遊蕩篇
- ^ 飯倉 1974, p. 290.
- ^ 「平家蟹の話」
- ^ 紀田(1994)
- ^ “資料” (PDF). 和歌山県教育センター学びの丘. 2018年4月28日閲覧。
- ^ 大本泉『作家のごちそう帖』(平凡社新書 2014年)pp.33-42
- ^ 世界的植物学者、奇行の巨人死去『東京日日新聞』(昭和16年12月30日)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p747 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 飯倉 2006, pp. 334–335.
- ^ 英国科学誌での熊楠の研究に、志村真幸『南方熊楠のロンドン 国際学術雑誌と近代科学の進歩』慶應義塾大学出版会、2020年 がある。
- ^ https://www.youtube.com/watch?v=UJLa7Vl4b6A&t=4976s
- ^ “知の巨人に和歌山・田辺市が名誉市民章授与 10月22日、紀南文化会館で南方熊楠生誕150周年記念式典 - 産経WEST”. 産経新聞. (2017年9月27日) 2018年10月16日閲覧。
- ^ “「熊楠は日本人の夢」 生誕150周年で中沢新一さんら”. 紀伊民報. (2017年2月22日) 2017年2月24日閲覧。
- ^ 清酒 世界一統-知られざる巨人-南方熊楠-南方熊楠と世界一統の歩み
- ^ a b c II 南方熊楠をめぐる人名目録南方熊楠を知る辞典
- ^ 縛られた巨人、南方熊楠 -何によって縛られていたか『天皇と日本国憲法(毎日新聞出版): 反戦と抵抗のための文化論』なかにし礼、PHP研究所, Mar 7, 2014
- ^ a b 南方熊楠 履歴書(口語訳5)ロンドンに渡るMikumano.net
- ^ 南方熊楠 履歴書(口語訳13)母と兄Mikumano.net
- ^ 南方熊楠 履歴書(口語訳15)帰国Mikumano.net
- ^ 南方熊楠 履歴書(口語訳16)和歌山Mikumano.net
- ^ 熊楠を支えた弟/和歌山『毎日新聞』2017年3月20日
- ^ 南方熊楠の家族と日常南方熊楠記念館
- ^ 飯倉 2006, p. 359.
- ^ 飯倉 2006, p. 337,360.
- ^ 遺著に『長谷川興蔵集 南方熊楠が撃つもの』南方熊楠資料研究会
南方熊楠
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南方熊楠(みなかた くまぐす)
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南方熊楠(みなかた くまぐす)
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南方熊楠(みなかた くまぐす)
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「九十九眠るしずめ」の記事における「南方熊楠(みなかた くまぐす)」の解説
北里の知り合いの共立学校生。辞令で日本中を巡回させられる事になった北里の紹介で、菌核を調べる。
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南方熊楠
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南方熊楠は共立学校時代に仲間と賄征伐を行った。その内容は、ご飯を多く食べて賄方を困らせるというもので、熊楠は参加者の中で最も多い28椀をたいらげた。他の人が飯櫃を投げつけたり鍋をひっくり返したりしている中で、熊楠はただ黙々と食べるだけであった。そのため、後にこの件が問題になった時も、熊楠に関しては、賄方から「かような静かな御仁はない。決して乱暴はなさらぬ」と擁護された。しかしその後熊楠は胃病となって大いに苦しんだ。
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南方熊楠(みなかた くまぐす)
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「JIN-仁-」の記事における「南方熊楠(みなかた くまぐす)」の解説
佐分利の故郷・紀州で仁と出会った赤ん坊。仁と同姓だが、血縁の有無については不明。手が触れ合った際、仁はお初の時と同様の奇妙な感覚に襲われた。
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