藤原秀郷
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藤原 秀郷(ふじわら の ひでさと、旧字体:藤󠄁原 秀鄕)は、平安時代中期の貴族、豪族、武将。下野大掾・藤原村雄の子。別名は、俵(田原)藤太。
注釈
- ^ 延長5年(927年)に下野国押領使に任じられたとする意見[10]もあるが2年後に追討官符を出されていることから疑問視する意見[11]もある。
- ^ 青木和夫 は天慶3年正月14日(ユリウス暦940年2月24日)に朝廷が将門対策として平公雅ら8人を東国の掾に任命した際に、その一人として叙任されたとする[12]。下向井龍彦は天慶3年(940年)、将門が「新皇」を名乗ったことが京都に伝わったときとの説であり[13]、青木説とほぼ同時期となっている。
- ^ この兜の実際の制作年代は南北朝時代とみられる[15]。多数の鉄板を矧ぎ合わせて兜鉢を構成している点、星(兜に打たれた鋲の頭を指す)が小型化している点、頂辺の孔(てっぺんのあな)が小さい点などはこの兜が平安時代の作ではなく時代が下降することを示す。
- ^ 祖父以来三代にわたって下野国に住み、平安京への出仕経験も無いため六位官人に留まっていた秀郷が越階して一気に四位に昇ったことは、後世の武士にとって謀叛・反乱鎮圧に対する最大の評価・褒賞の事例とみなされるようになり、後世に至るまで武家の先例となった[16]。
- ^ 「三上山を七巻き半と聞けばすごいが、実は八巻き(鉢巻)にちょっと足りない」という洒落がある。これは古典落語「矢橋船」などで用いられている。
- ^ 『氏郷記』(江戸初期?)では"太刀を抜[き]寸々に切捨たり"と太刀を使用したことが明記されている[30]。
- ^ 金箔張りの小札(こざね)のこと[31]。
- ^ 『閑田次筆』に先駆して提唱されている説[47]。
- ^ これも現宇都宮市街・田原街道(栃木県道藤原宇都宮線)側傍の「百目鬼通り」の地名になっている。
出典
- ^ a b c d 水野拓昌 編『最初の武士は藤原秀郷』まんがびと、2023年、6頁。ASIN B0CLY2LZ5M。
- ^ a b c d e f 『田原族譜』第4版 山士家左伝
- ^ a b 野口 2001, p. 46.
- ^ a b 『系図纂要』より。
- ^ 『月岡芳年の武者絵 大日本名将鑑』アスキー・メディアワークス、2012年、46頁
- ^ 鈴木哲雄『平将門と東国武士団』(吉川弘文館、2015年)
- ^ a b 太田亮「フヂハラ」『姓氏家系大辞典』第五巻、国民社、1944年、3261頁。
- ^ 豊田武『苗字の歴史』(中公新書、1971年)、武光誠『名字と日本人』(文春新書、1998年)など。
- ^ 山本享史. “「藤原秀郷」はどんな人物?〜史実と伝説のあいだで〜”. 坂東武士図鑑. 栃木の武将『藤原秀郷』をヒーローにする会. 2024年2月3日閲覧。
- ^ 佐野が生んだ偉人=藤原秀郷
- ^ 武士の発生と成立 下向井龍彦氏の「兵=武士」
- ^ 青木和夫『古代豪族』講談社(初版小学館)、2007年(初版1974年)、ISBN 4061598112
- ^ 下向井龍彦『武士の成長と院政』講談社、2001年、ISBN 4062689073
- ^ 「宇都宮二荒山神社公式サイト」
- ^ 栃木県教育委員会サイトの解説参照
- ^ 古澤直人「謀叛に関わる勲功賞」『中世初期の〈謀叛〉と平治の乱』吉川弘文館、59-69頁。ISBN 978-4-642-02953-7。
- ^ 『官報』第32号、「叙任」1883年08月07日。
- ^ a b 橋本鉄男『俵藤太の百足退治』67号 。
- ^ 校注日本文学大系『俵藤太物語』 1925, pp. 86–101.
- ^ a b 志田 1941, p. 4.
- ^ 神明あさ子「近世怪談集と中国説話--『拾遺御伽婢子』を中心に」『同志社国文学』第67号、20-31頁。doi:10.14988/pa.2017.0000011419 。
- ^ 小峯和明「物語の視界50選(その二)その限りない魅力を探る 俵藤太物語」『國文學 : 解釈と教材の研究』第46巻、第11号、140-141頁、1981年11月 。
- ^ a b c 兵藤裕己「縁起の中世的展開 日光山縁起と山民」『國文學:解釋と鑑賞』第52巻、第9号、105-106頁、1987年9月 。
- ^ 校注日本文学大系『俵藤太物語』 1925、pp. 87- "女房";pp. 93- "我が故郷..龍宮"
- ^ a b 志田 1941, pp. 4–5.
- ^ a b 志田 1941, p. 5.
- ^ 『太平記』[20]、『御伽草子』[23]。
- ^ 寒川辰清「巻之卅九 秀郷社」『近江輿地志略 : 校定頭註』、西濃印刷出版部、466-468頁、1915年 。
- ^ 校註日本文學大系『俵藤太物語』 1925.
- ^ a b c 近藤瓶城 編「別記第182 氏郷記巻上」『改定史籍集覧: 別記類』、近藤活版所、623-624頁、1902年 。
- ^ 中田祝夫; 和田利政; 北原保雄『こがねーさね【黄金札・金札】』1994年 。
- ^ 校註日本文學大系 1932.
- ^ 寺島良安「俵藤太秀郷」『和漢三才図会. 巻之26 神社仏閣名所』、内藤書屋、1890年 。、江州第71巻5–6頁
- ^ 秋里籬島「秀郷祠」『東海道名所図会. 上冊』、吉川弘文館、第2巻26頁、1910年 。
- ^ 小和田哲男『石田三成: 「知の参謀」の実像』PHP研究所、1997年、12頁 。
- ^ 南方熊楠「十二支考 田原藤太竜宮入りの話 1916年;中村 1971, p. 214。
- ^ 新井白石(君美)『本朝軍器考』 9巻、1987年9月、4-5頁 。
- ^ 志田 1941, p. 7中村 1971, p. 214が指摘。
- ^ 南方熊楠「十二支考 田原藤太竜宮入りの話 1916年
- ^ Jungu Chōko Museum Agriculture Pavillion (1941年). “神宮徴古館陳列品図録”. pp. 23–24
- ^ 松平定信 編「伊勢国大神宮蔵俵藤太秀郷蜈蚣切太刀図」『集古十種 刀剣之部』、郁文舎、(1)4頁、1905年 。
- ^ “秀郷に焦点、武士のルーツ知って 栃木県立博物館で企画展 伝説の宝刀「蜈蚣切」も”. 産経新聞. (2018年11月19日)
- ^ 松平定信 編「近江国竹生島社蔵俵藤太秀郷所納太刀図」『集古十種 刀剣之部』、郁文舎、(2)18頁、1905年 。
- ^ 本間順治 (監); 佐藤貫一 (監)『日本刀全集 第6巻 (日本刀の風俗)』徳間書店、1966年、53頁 。
- ^ 大藤時彦『日本民俗学の研究』学生社、1979年、121頁 。"この伝説は「太平記春十五、三井寺合戦丼当時撞鐘事附俵藤太事」が文献上の初見とされている。この釣鐘は竜神たちが海底から引上げて三井寺に寄進したのであるが、後叡山に移されたとき、「三井寺へ行こう」と鐘がわめいたという。"。
- ^ 宮尾 2009, p. 33.
- ^ 志田 1941, p. 3.
- ^ 志田 1941, pp. 3–4, 6。
- ^ 志田 1941, pp. 6–8.
- ^ 中村 1987, pp. 105–106.
- ^ 若尾五雄『黄金と百足』。野口 2001, p. 2に拠る。
- ^ 栃木県連合教育会編『しもつけの伝説 第4集』(1980年)「百目鬼ものがたり」25–31頁。
- ^ 渡辺昭五編;井田安雄〔ほか〕著「藤原秀郷鬼退治」『日本伝説大系』第4巻(北関東〔茨城・栃木・群馬〕)みずうみ書房 、1986年、68–69頁。
- ^ 徳田浩淳「秀郷と百目鬼」『宇都宮の歴史 増補新版』落合書店 、1979年、307–309頁。
- ^ 宇都宮市教育委員会事務局社会教育課編「百目鬼」『宇都宮の民話』宇都宮市教育委員会、1983年、47頁
- ^ 宇都宮市役所総務部庶務課編「百目鬼の話」『宇都宮市六十周年誌』宇都宮市役所、1960年、1228–1229頁。
- ^ 飯坂温泉オフィシャルサイト
- ^ 石原洋三郎によれば、大百足とは未だ治水がなされていない赤川であるとのこと。俵藤太によって、赤川の治水がなされたことにより、赤川は荒々しいムカデ川から穏やかな大蛇の川になったと考えられるとのことである。佐藤基治(湯庄司)の先祖(俵藤太)が初めて飯坂を拠点とし、治めた際の逸話であろうとしている。
- ^ 石原洋三郎『石那坂』、平成29年八月八日 第一印刷
- ^ 『邪馬台国』18.石那坂(P104-135) 石原洋三郎 令和元年十月八日 第一印刷
- ^ 野口実『坂東武士団の成立と発展』(戎光祥出版、 2013年)
- ^ 樋口清之(監);丹羽基二(著)『姓氏』秋田書店。
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