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みなもと-のためよし 【源為義】
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源為義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/07 11:19 UTC 版)
源 為義(みなもと の ためよし、源爲義)は、平安時代末期の武将。父は源義親。叔父の源義忠暗殺後に河内源氏の棟梁と称す。通称は六条判官、陸奥四郎。
当初は白河法皇・鳥羽上皇に伺候するが度重なる不祥事で信任を失い、検非違使を辞任する。その後、摂関家の藤原忠実・頼長父子に接近することで勢力の回復を図り、従五位下左衛門大尉となって検非違使への復帰を果たすが、八男の源為朝の乱行により解官となる。保元の乱において崇徳上皇方の主力として戦うが敗北し、後白河天皇方についた長男の源義朝の手で処刑された。
- ^ 『尊卑分脈』の記載から源義親の四男とする見解が一般的であるが、佐々木紀一は『尊卑分脈』成立以前の中世系図(北酒出本『源氏系図』、長楽寺本『源氏系図』、妙本寺『源家系図』、『佐竹家系譜』)や藤原忠実の日記『殿暦』天仁2年2月17日条の「義家朝臣四郎男為義」の文言などから、為義は義家の四男であったとする説を提唱している(「源義忠の暗殺と源義光」『山形県立米沢女子短期大学紀要』45、2009年)。
- ^ 『尊卑分脈』によれば義親の男子は、為義を含めて6人いる。義親の正室は肥後守・高階基実の娘であるが、義父の基実は義親の乱行により肥後守を罷免され、贖銅の刑を科された。角田文衛は、義信(長男)・義俊(次男)・義泰(三男)・義行(五男)がそれぞれ対馬太郎・対馬次郎・対馬三郎・対馬四郎の呼び名を持つことから、この4人が正室所生の同母兄弟で、為義は庶子だったのではないかと推測している。為義の母の項目には「同義国、中宮亮有綱女」とあるが、これは義家の妻(義国・義忠の母)が為義を養育していたことを示すものと考えられる(角田文衛「源為義の母」『王朝の明暗-平安時代史の研究 第2冊』東京堂出版、1977年)。また、為義を義家の四男とする説(佐々木紀一「源義忠の暗殺と源義光」『山形県立米沢女子短期大学紀要』45、2009年)を採るならば、「同義国、中宮亮有綱女」の記述は養母ではなく実母ということになる。
- ^ 『尊卑分脈』の義忠傍注によれば義綱は冤罪であり、真犯人は義綱の弟の義光とされる。
- ^ 覚鑁に出した書状の署判は「正六位上源朝臣為義」で官名がない。為義は書状の中で「院のきそくのあしく候へハ、よにはゝかりて何事もしらぬやうにて候也」と苦境を訴えている。
- ^ 康治2年(1143年)、摂関家家人の源頼盛と源惟正が私闘を起こすと、為義は忠実の命を受けて頼盛らを拘禁した(『本朝世紀』6月13日条)。一方で、為義が逆に制裁を受けるケースもあり、仁平元年(1151年)には、頼長の命を受けた源頼憲によって為義の摂津旅亭が焼かれている(『本朝世紀』7月16日条)。
- ^ 後年、源通親の推挙で大江広元が左衛門大尉に任じられた際、九条兼実は為義の例を引き合いに出し「上古大尉に任ず。近代頗る希」と記している(『玉葉』建久2年(1191年)4月1日条)。
- ^ 熱田大宮司季範の娘を母とする頼朝は久安3年(1147年)生まれなので、義朝の上京は遅くても久安2年(1146年)と見られる。
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