当時の社会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/15 15:10 UTC 版)
狩猟や農業を主な生業とし、わずかに漁業も行う。はじめは宗教的性格が強く、のちに軍事的性格が強まる。奴隷制は見られないが社会階層は厳格であったという。庶民は葦の骨組みに泥を塗ったキンチャと呼ばれる住居に住み、宗教的なピラミッドなどの公共建築物を築き、灌漑用水路を整備した。 生業のうち農業では野菜として豆類、ライマメ(ライマビーン、リママメ)、トウモロコシ、トウガラシ、カボチャを、根菜ではジャガイモ、サツマイモ、アチラ、ヤーコン、果物ではグアバ、アボカドなどを栽培した。食用以外の用途に使われる栽培食物として、ヒョウタンは網漁に用いる漁網の浮きとして栽培し、綿花やフジは布・建材として用いた。ほか、刺激興奮剤・医療用植物であるコカの葉も栽培した。 家畜利用はリャマ、アルパカ、モルモット、イヌのみが存在している。リャマは食肉、運搬、体毛を毛織物原材料として利用したほか、宗教儀礼における生贄としても用いられた。アルパカは採毛用として用いられ、モルモットは儀礼用の動物で、特別な機会に際して食用にされた。イヌやサル、オウムはペットとして飼育され、美術における意匠にも現れる。 漁業は海岸沿いの網漁、船を用いてエビ・カニ類、貝類、アザラシ・ラッコ類、海鳥など対象を捕獲した。漁法は手づかみのほか棍棒、石付き投げ縄である「ボラ」、槍などを用いた狩猟としての面も有する。捕鯨は行われないが、沿岸に打ち上げられたクジラの肉や骨格・歯は利用していた。
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当時の社会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 15:31 UTC 版)
380年にキリスト教徒のテオドシウス1世は、異端アリウス派と異教に対してローマ帝国全域での迫害の方針を定めた。 391年、テオドシウス1世はアレクサンドリアの司教テオフィロスの求めに答えて、アエギュプトゥスの非キリスト教の宗教施設・神殿を破壊する許可を与えた。暴徒は、サラピス寺院やアレクサンドリア図書館や他の異教の記念碑・神殿を破壊した。その後、393年には暴力、特に略奪とユダヤ人のシナゴーグの破壊を法律で抑えようとの試みがなされた。 だが、412年、アレクサンドリアの総司教であったアンティオキアのヨハネス1世(英語版)が後ろ盾となっていた強硬派のキュリロスによる異教徒迫害および破壊活動が起きた。 そして414年、キリスト教徒の集団により、アレクサンドリアからの違法で強制的なユダヤ人の追放がなされ、緊張がその頂点に達した。
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