院政
院政期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 05:28 UTC 版)
平安後期に即位した後三条天皇は、摂関家を外戚に持たない立場だったことから、摂関の権力から比較的自由に行動することができた。そのため、記録荘園券契所の設置など、さまざまな独自の新政策を展開していった。後三条天皇は、譲位後も上皇として政治の運営にあたることを企図していたという説がある。 後三条天皇の子息の白河天皇は自らは退位して子息堀河天皇・孫鳥羽天皇をいずれも幼少で即位させた。これは、父後三条天皇の遺志に反し、異母弟の実仁親王と輔仁親王を帝位から遠ざけるため、当時の天皇の父・祖父として後見役となる必要があったためである。さらにその結果として、次第に朝廷における権力を掌握したため、最終的には専制君主として朝廷に君臨するに至った。 この院政の展開により、摂関家の勢力は著しく後退した。院政を布いた上皇(院)は、多くの貴族たちと私的に主従関係を結び、治天の君(事実上の君主)として君臨したが、それは父としての親権と貴族たちの主人としての立場に基づくもので、天皇の外祖父ゆえに後見人として振る舞った摂関政治よりもいっそう強固なものであった。 治天の君は、自己の軍事力として北面武士を保持し、平氏や源氏などの武士とも主従関係を結んで重用したが、このことは結果的に、武力による政治紛争の解決への道を開くことになり、平氏政権の誕生や源氏による鎌倉幕府の登場につながった。政治的には、院政期に権門勢家が国家からの自立の度合いを深めるに従い、皇室という一権門の代表に滑り落ちた。理念面では、歴代の天皇が神や仏といった超越者の力によって失脚に追い込まれるという説話や主張が度々見られるようになる。仏法に敵対した罪によって地獄に堕ちたという逸話も広く知られている。殊に、後白河天皇のように、聖代の帝王と対比して仮借ない批判も投げつけられた者もいる。即位灌頂により地位の正当化を弁証せざるを得ない程に、仏教の流布を背景にした相対化と脱神秘化が生じていた。また上皇の地位は天皇ほど律令に左右されず、恣意的な行動が可能なため、治天の私生活は乱れ、公的にも暴政に陥った。 後鳥羽上皇はさらに西面武士を設置したが、承久の乱の敗北により廃止された。承久の乱以後は、朝廷は独自の軍事力を失って、幕府に対して従属的な立場に立たされることになり、時には幕府の命令で天皇が任免される事態にまで至った。 時に、両統迭立の時代になると、神孫為君の論理に安住出来なくなり、徳治と善政を標榜するようになる。花園天皇は「皇胤一統」の論理に寄りかかる事を戒め、君主としての徳の涵養を力説している。また同じく儒教精神から、後鳥羽上皇のように『承久記』や『六代勝事記』によって激しく批判、失脚の正当化がされる事はあっても、天皇という制度が否定される事は個々の天皇に対して激しい攻撃がなされた中世期にあってもなかった。それは、儒教的徳治論の核心をなしていた易姓革命思想は、皇位継承者の中でも徳の高い人物が就くべき、徳のある人物が政治を行うべきという論理に姿を変えて日本に定着する事になった。 院政はこの後江戸時代まで続くが、実体的な政権を構成したのは、白河院政から南北朝時代の後円融院政までの約250年間とされている。後円融上皇の崩御後、わずかに残っていた朝廷の政治的権力も足利義満の手で、ほとんどすべて幕府に接収され、貴族たちも多くは室町殿と主従関係を結んで幕府に従属し、院政は支配する対象自体を失い朝廷も政府としての機能を失った。
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院政期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 05:55 UTC 版)
白河天皇の永保2年(1082年)に焼亡した内裏は、康和2年(1100年)の再建までに足掛け19年を要した。このため、応徳3年(1086年)に譲位された堀河天皇は、堀河院という里内裏で践祚することとなった。また堀河天皇は内裏再建後も里内裏で暮らした期間が長く、天皇在位期間の大半を里内裏で過ごした。以後の院政期の天皇たちも同様で、鳥羽天皇は15年半の在位期間中合計7か月程度しか内裏で暮らしておらず、崇徳天皇は儀式などのために大内裏に4回赴き滞在したが、内裏には一度も足を踏み入れなかった。天永3年(1112年)に鳥羽天皇の里内裏である高陽院が焼失した際には、本来の内裏が存在して使用可能であるにもかかわらず「次の里内裏」を選ぶ議論が行われた。『中右記』によれば、治天である白河法皇が「内裏の殿舎は甚だ広博なり」(内裏は広すぎる)という理由を挙げて幼少の天皇の内裏住まいに反対したといい、孫である天皇を法皇の御所である小六条殿に同居させて(それまで天皇と院の同居は異例であった)天皇を庇護・後見する院という政治体制を体現した。院政を敷く治天は大内裏の修築・活用を嫌い、慈円の『愚管抄』には藤原忠通(慈円の父)が「捨てられた」大内裏の復興を提起したものの鳥羽院が退けた話が載せられている。康和2年(1100年)再建の内裏は承久元年(1219年)まで119年間焼失を免れるが、天皇が日常的に暮らさなくなったために火を使わなくなったことが理由と考えられる。 大内裏全体は荒廃の一途をたどったが、特定の建物は儀礼の場として維持された。即位式を行う大極殿などで、即位式が行われる時期だけは修造・復興がなされた。保元2年(1157年)、後白河天皇の近臣である信西(藤原通憲)が主導して大内裏再建が着手された。算術に明るい信西は自ら計算を行って各国に無理なく費用を分担させたといい、1年足らずで造営を終えた。ただし近年の研究によれば信西が再建したのは朝堂院(その正殿である大極殿や回廊・会昌門)・朱雀門など限られたものであり、二条天皇の即位式(保元3年(1158年))の会場として整備されたものと考えられる。 安元3年(1177年)に発生した安元の大火(太郎焼亡)は、朝堂院(大極殿を含む)が焼失するなど、大内裏に壊滅的被害を与えた(内裏は焼失を免れた)。大極殿再建が間に合わなかったために、安徳天皇は内裏の紫宸殿で即位式を行ったが、安徳天皇が平家とともに没したために内裏での即位は「凶例」と見なされ、後鳥羽天皇は太政官庁で即位した(後三条天皇が、焼失した大極殿の代わりに太政官庁で即位式を行った前例があった)。以後室町期まで、中世の天皇は太政官庁で即位することが定例となる。 治承・寿永の乱を経て朝廷は明白な財政難に陥った。安元の大火で焼失した大内裏の再建は遅々として進まず、文治5年(1189年)にようやく再建が始まった。承久元年(1219年)に承久の乱で内裏を含めた大内裏が焼失。その再建途上の安貞元年(1227年)に火災によって全焼し、これをもって大内裏の再建は放棄された。
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