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摂政・関白の一覧
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/11/16 05:41 UTC 版)
(摂関 から転送)
- ^ 『日本三代実録』同日条。『公卿補任』は天安2年11月7日(858年12月15日)とするが、これは幼帝の時に摂政を必ず置くとする観念に基づく説である。
- ^ 『日本三代実録』同日条。『公卿補任』は貞観14年11月29日(873年1月1日)とするが、『三代実録』にはこの日に当該する記事がない。
- ^ 『日本紀略』同日条。『公卿補任』は元慶4年11月8日(880年12月13日)とするが、『三代実録』にはこの日に当該する記事がない。なお、元慶8年6月5日(884年7月1日)に光孝天皇から基経に対して出された国政委任の詔を、事実上の関白宣下と見なす説がある(ただし、詔中に「関白」の語はなし)。
- ^ 実際に関白宣下が行なわれたのは、同年12月5日(1158年12月27日)である。
- ^ 南朝公卿を年代順に記した『南朝公卿補任』と呼ばれる史料があるが、これは近世の偽書とするのが通説で、現在の研究ではほとんど顧みられていない。
参考までに、『南朝公卿補任』が載せる南朝の摂関は以下のとおりである(同書は南朝三代説に従い、長慶天皇の在位を認めていない)。摂政 関白 就任 退任 在任時の天皇 近衛経忠 延元4年8月15日
(1339年9月18日)正平6年12月
(1352年1月)後村上 二条師基 正平6年12月28日
(1352年1月15日)正平11年2月2日
(1356年3月4日)後村上 二条教基 正平11年2月2日
(1356年3月4日)正平20年1月
(1365年-月)後村上 近衛経家 正平20年1月
(1365年-月)正平24年2月2日
(1369年3月10日)後村上、後亀山 二条冬実 正平24年2月2日
(1369年3月10日)元中9年閏10月5日
(1392年11月19日)後亀山 - ^ 小木喬 「四人の関白」(『新葉和歌集―本文と研究』 笠間書院、1984年。初出は1961年)。
- ^ 南朝の関白であったとする説が古くから存在するものの、そのことを直接示す史料がある訳ではない。ここでは小木の推定に従う。
- ^ この在任中、「正平一統」によって北朝天皇が不在であった期間、すなわち崇光天皇が廃位された観応2年11月7日(1351年11月26日)から後光厳天皇が践祚した正平7年/観応3年8月17日(1352年9月25日)までの間は事実上停職しており、代わりに南朝の二条師基が関白の任にあった。
- ^ 嘉慶2年6月12日(1388年7月15日)重篤の二条良基は摂政を辞して三度目の関白に任じられる。だが、良基は余命わずかであることを理由に、その日のうちに改めて実子師嗣へ関白を譲る意向を後小松天皇に申し出て認められた。なお、良基はその翌日に69歳で薨去している。
- ^ 『続本朝通鑑』・『歴朝要紀』は12月2日(1459年1月6日)とする。
- ^ 『諸家伝』は11月12日(1568年11月30日)とし、東京大学史料編纂所蔵『近衛家譜』は11月16日(1568年12月4日)とする。
- ^ a b これは詔書上の日付である。実際は正保5年閏1月22日(1648年3月16日)まで摂政の任にあり、同日に日付を遡らせて関白の詔が下された。
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