政治情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 19:07 UTC 版)
「増税なき財政再建」「三公社(国鉄・専売公社・電電公社)民営化」を掲げ、安定した支持率を保っていた中曽根内閣は、衆議院の解散(死んだふり解散)を行う。そして1986年7月6日の衆参同日選挙で自民党が圧勝した。この時の選挙公約を果たせという促進派からの要求に応えるかたちで、整備新幹線の凍結の閣議決定の破棄につながった。 1987年11月に禅譲という形で竹下内閣が成立した。自民党三役も一新し、幹事長に安倍晋太郎、政調会長に渡辺美智雄という布陣になった。しかし、政権与党であった自民党内に整備新幹線に対する温度差を生じさせた。 自民党幹事長の安倍晋太郎は整備新幹線促進の立場を明確にした。1987年12月15日、JR東日本社長の住田正二より、JR各社から整備新幹線財源問題等検討委員会の小委員会に提出した最終報告の概要説明が安倍晋太郎幹事長に対してなされた。この際、安倍晋太郎は、「全体として新幹線建設にJR各社は冷たいと言った感じだ」「キミは新幹線をつくらせたくないのか」「キミは運輸省で何をやってきたんだ。新幹線への地元住民の期待がこれだけ大きいのは、キミら運輸省が推進に一役買ってきたからじゃないか」と厳しく批判した。こうした安倍幹事長の一連の積極発言は、着工へのレールを敷くことで自民党主導の政策決定を鮮明にし、ポスト竹下を狙うため整備新幹線の早期着工を求める議員の支持を取りつけたいとの思惑があったとの指摘がある。 自民党政調会長についた渡辺美智雄は、1987年12月7日、自民党本部で開かれた自民党同志会での会合で講演し、来年度予算案編成の焦点の一つである整備新幹線問題について「九州や北陸など関係地域の人たちのつけてくれという気持ちはよくわかるが、(建設するとなると)15兆とか20兆とかかるうえ、赤字の垂れ流しになるのではという問題もある。せっかく国鉄改革をやったばかりなのに、第2の国鉄をつくってどうするのかということであり、なかなか結論の出せない、やっかいな問題だ」、「新幹線は大飯くらいの嫁さんが来るようなものだ。家が潰れてしまう」と、着工に消極的な考えを示した。 このように、ポスト竹下を狙う安倍晋太郎と渡辺美智雄の対立は、整備新幹線着工をめぐる問題で浮き彫りになり、前年に自民党が足並みをそろえて着工凍結の解除を迫ったときとは、大きく様相が変わっていた。 一方で、1987年12月13日、運輸大臣石原慎太郎(当時)は宮崎実験線でリニアモーターカーに初めて試乗した。この時の記者会見で、「50キロなり100キロなりの実験線など、実用化に向けた予算措置をする時期に来ているのではないか」と述べ、昭和六十三年度予算案にリニア関係調査費などを盛り込む考えを明らかにした。その後、ヨーロッパで磁気浮上鉄道の開発状況の視察を行い、整備新幹線よりもリニアモーターカーの方に強い興味を持っていた。また12月23日、自民党の松永光政調会長代理は「新幹線は三十年前の、高速道路もエアポートも無かった時代の発想だ。二十一世紀はリニアの時代。整備新幹線は完成した時にはもう古いものになる。二十一世紀を考えなくてはならないのに、そうした将来計画が運輸省には何もない」(原文ママ)と発言、将来のグランドデザインなき整備新幹線着工への議論の不毛さを指摘し、暗に整備新幹線促進派を批判した。
※この「政治情勢」の解説は、「昭和三大馬鹿査定」の解説の一部です。
「政治情勢」を含む「昭和三大馬鹿査定」の記事については、「昭和三大馬鹿査定」の概要を参照ください。
政治情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/10 04:56 UTC 版)
イラン・イスラーム革命後、イランは8年におよぶイラン・イラク戦争、国内的政治闘争と騒擾[要出典]、経済的混乱などの苦難に直面した。初期の体制は政治的騒擾、アメリカ合衆国に対する反発が招き、アメリカ大使館人質事件などに特徴づけられる。これによって合衆国はイランと断交、以降、イランにおける合衆国利益代表をスイスが代行している。 革命後速やかに革命に参加した勢力の間での権力闘争が始まり、1982年半ばまでにホメイニーの弟子の法学者たちが中核となって結成されたイスラーム共和党が三権を掌握した。はじめに中道派が、次いで左派を排除され[要出典]、聖職者とその支持者のみが権力の座に残った。国内的な過激主義は軽減された。 イランの支配的政党はイスラーム共和党であったが1987年に解散。以降、1994年第5期議会選挙の際に建設奉仕者団が結党されるまで事実上無政党状態であった。建設奉仕者団は主に、当時の大統領アクバル・ハーシェミー・ラフサンジャーニーに近い官僚集団から形成されていた。1997年選挙でモハンマド・ハータミーが大統領につくと、改革派側とこれに反対する保守強硬派を中心に多数の政党が活動を開始。さらに強硬派をふくむさまざまな集団が政党としての公式活動をはじめるに至る。反政府政党としてはごく少数の武装政治集団があり、これにはモジャーヘディーネ・ハルグ、フェダーイヤーネ・ハルグ、クルディスターン民主党などがある。その他の政党についてはイランの政党の一覧を参照。 市民の間に浸透した革命防衛隊、秘密警察、ムタワなどの存在が反政府的な動きを抑制してきたが、2017年12月に続いて2019年11月には国内各地でデモが頻発し、死者400人以上、逮捕者1000人以上出す規模となった。ハサン・ロウハーニー大統領のほか最高指導者アリー・ハーメネイー師や聖職者に対する批判も見られるようになっている。
※この「政治情勢」の解説は、「イランの政治」の解説の一部です。
「政治情勢」を含む「イランの政治」の記事については、「イランの政治」の概要を参照ください。
政治情勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 14:35 UTC 版)
ヒマラヤの20世紀後半の政治情勢は、南北の2大国である中国とインドの影響力拡大と角逐の歴史であるといえる。ヒマラヤ北麓のチベットは清朝時代から中国の影響下にあったが、半独立状態を保っていた。しかし1950年の中国のチベット侵攻により完全に中国領となり、1959年にはチベット動乱によってダライ・ラマ14世がインドへと亡命し、ヒマラヤ南麓のダラムシャーラーにチベット亡命政府を樹立した。 一方、南麓のインド側ではイギリス領インド帝国の支配のもと、ジャンムー・カシミール藩王国などいくつかの藩王国が存在し、また中国との間の緩衝国としてネパールとブータンが独立国として存在し、また両国の間にはシッキム王国がイギリスの保護国として存在していた。しかしインドで独立運動が盛んになり、1947年8月15日にインド・パキスタン分離独立が起こると、各地の藩王国はどちらかへの帰属を迫られるようになった。ジャンムー・カシミール藩王国は藩王がヒンドゥー教徒であるが住民の80パーセント以上はイスラーム教徒であり、藩王が態度を決めかねるなか、イスラーム系住民が蜂起してパキスタン帰属を要求。これに対し藩王はインドの介入を求め、これが引き金となって第一次印パ戦争が勃発した。この戦争の結果、カシミールはインド領のジャンムー・カシミール州とパキスタン領のアーザード・カシミールとに分断されることとなった。 その後、インドと中国はカシミール北東部(アクサイチン地区)やマクマホン・ラインなどの国境線をめぐって対立を深め、1962年には中印国境紛争が勃発した。この戦争で中国人民解放軍は勝利してアクサイチンやインド東北辺境地区を軍事占領し、東北辺境地区からは撤兵したもののアクサイチンは実効支配下に置いた。 この戦争ののち、インドはヒマラヤ地域への影響力を強化していく。1975年には先住民であるブティヤ人・レプチャ人(チベット系)と移民であるネパール系の間で政治的対立の生じていたシッキム王国を制圧し、シッキム州として自国領土へと組み入れた。さらに1987年には直轄領であった係争地・インド東北辺境地区をアルナーチャル・プラデーシュ州へと昇格させ、支配を強化した。この動きを見たブータン王国は自国のアイデンティティの強化に乗り出し、1985年には国籍法を改正するとともに、1989年には「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を施行し、チベット系住民の民族衣装着用の強制(ネパール系住民は免除)、ゾンカ語の国語化、伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)の順守などを実施して自国文化の振興に努めるようになったが、これはブータン南部に住むネパール系住民を強く刺激し、民族間の衝突が繰り返され多数の難民が流出することとなった。 一方、ネパールにおいては民主化運動によって1991年に複数政党制が復活したものの、一向に進まない国土の開発に不満を持ったネパール共産党統一毛沢東主義派(マオイスト)が1996年に武力闘争を開始。さらに2001年6月1日にはネパール王族殺害事件が発生し、ビレンドラ国王が殺害されてギャネンドラ国王が即位した。ギャネンドラは専制的な政治スタイルをとって国勢の回復をめざしたが、国民の不満は高まる一方で、国土のかなりの部分をマオイストに征圧される事態となった。2006年には王制が打倒されて民主化され、マオイストとも和平が成立し、2008年には正式にネパールは共和国となった。
※この「政治情勢」の解説は、「ヒマラヤ山脈」の解説の一部です。
「政治情勢」を含む「ヒマラヤ山脈」の記事については、「ヒマラヤ山脈」の概要を参照ください。
「政治情勢」の例文・使い方・用例・文例
「政治情勢」に関係したコラム
-
ココアは、カカオ豆から作られる食品です。チョコレートもカカオ豆から作られます。カカオの生産は、赤道の南緯20度、および、北緯20度以内の高温多湿な地域で栽培されます。カカオの主な生産地域は西アフリカや...
- 政治情勢のページへのリンク