じみん‐とう〔‐タウ〕【自民党】
読み方:じみんとう
「自由民主党」の略称。
自由民主党 (日本)
(自民党 から転送)
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自由民主党(じゆうみんしゅとう、英: Liberal Democratic Party[55]、英文略称: LDP[56] / Lib Dems[57])は、日本の政党。「自由主義を掲げ、つねに改革を進める保守政党」と標榜している[35][37]。
注釈
- ^ 2010年代に存在した同名の政党とは無関係。
- ^ 衆議院議長の額賀福志郎を含む
- ^ 参議院議長の尾辻秀久を含む
- ^ 党内には中道右派[A] や、日本会議所属議員を中心とした極右[12][13][14][15]・超国家主義[16][17]とされる勢力も存在する。
- ^ 憲法改正(あるいは自主憲法制定[38])は自民党立党以来の党是であり[39]、2010年の綱領では「日本らしい日本の姿を示し、世界に貢献できる新憲法の制定を目指す」としている[19]。
- ^ 西沢保・池田幸弘によれば、日本政治では純粋な経済的自由主義は見つけにくいという。自由民主党の中には、公共支出やケインズ経済学の重要性を未だ信じるメンバーも、大幅な赤字のためにこの方法を採用したがらないメンバーもおり、経済政策に関して様々な態度がある[41]。
- ^ 地方選では自民党と日本共産党が共闘することがある[47]
- ^ 上州戦争、森奥戦争などの「名物選挙区」も存在した。
- ^ 新党名を自由民主党とすること、次期内閣首班として鳩山が政務を担うこと、緒方が中心となって党務を担うこと、党執行部が日常的な党務を運営すること、重要問題は代行委員の合議によること、代行委員には鳩山・緒方・三木・大野、幹事長には岸、総務会長には石井光次郎、政調会長には水田三喜男が就任すること[75]。
- ^ さらに、残った無所属の小沢貞孝も後に社会党入りしたため、二大政党以外は退潮傾向にあった共産党の1人だけだった。
- ^ 社会党は自民党の半分程度であったが、全議席の1/3を確保して自民党の目指す憲法改正を阻止することには意義があった。以降概ねこの議席比率が維持できたため、「一と二分の一政党制」とも呼ばれた。
- ^ 従来の記録では日本国憲法下では羽田内閣(羽田孜首相)の64日、明治憲法下では東久邇宮内閣(東久邇宮稔彦王首相)の54日。当内閣は発足から投票日までの28日に特別国会召集までを加えた日数になる。
- ^ 細野豪志、平沼正二郎、西野太亮、三反園訓。細野は11月5日、西野は12月7日に自民入党が認められた。平沼は党籍を有しながら公認漏れだったが、11月8日に自民会派入りが認められた。
- ^ 離党した6名のうち後に自民党に復党したのは・西岡武夫(1980年)、河野洋平(1986年)、山口敏夫(同)。新自クを離党したのは小林正巳(1980年)と、参議院議員の有田一寿(1979年8月)。
- ^ ちなみに単独過半数を回復した251人目は北村直人である。
- ^ この例を適用されたのが改革クラブから移籍した松下新平で、当時の総裁だった谷垣禎一に直接面会して了承されている[要出典]。
- ^ もっともかつて“世界一の金持ち政党”といわれた中国国民党本部(野党転落を期に現在は売却)やフランス共産党本部(世界的建築家オスカー・ニーマイヤー設計)など、大規模な党本部施設をもつ政党は少なくない。
- ^ 党則89条の1では「党本部」宛に提出することとなっているが、実務は幹事長が受け付ける。
- ^ この適用例としては2005年に逮捕された中西一善がいる。
- ^ 直近の例としては郵政解散の時の亀井郁夫がいる。亀井はその後、国民新党へ移籍した。
- ^ この例外として上川陽子がいる。
- ^ そのために復党が議題に上らなかった例として郵政解散のときの野呂田芳成がいる。
- ^ また党分裂に積極的に関与したという理由で新党の最高幹部が除名される例もあり、最近では旧国民新党代表を経験した亀井静香や綿貫民輔、旧たちあがれ日本で共同代表を務めた与謝野馨、新党改革元代表で第19代東京都知事の舛添要一らがいる。
- ^ 例外として渡辺孝一は比例名簿上位登載を連続4回。
- ^ この例に静岡5区で4回連続小選挙区敗退した吉川赳がいる。吉川は1回目と4回目が比例復活当選、2回目は復活できなかったが、3回目は選挙後1年半近く経ってから繰り上げで比例復活した。詳細は「吉川赳#来歴」を参照
- ^ この例に埼玉5区から4回連続、合計5回比例復活した牧原秀樹がいる。牧原は立憲民主党初代党首の枝野幸男と戦っている。
- ^ この例に静岡6区から3回連続比例復活した勝俣孝明がいる。
- ^ 森田健作は2003年の総選挙で中西一善に地盤を譲った後、千葉県知事選挙に立候補するまで「東京都衆議院選挙区第二支部長」であった。「森田健作#衆議院議員」も参照
- ^ この例に静岡5区で旧希望の党から鞍替えした細野豪志がいる。細野は第49回衆議院総選挙で当選後、入党を認められた。詳細は「細野豪志#自由民主党入党以後」を参照
- ^ a b c d e 道徳再武装運動会員
- ^ a b c d アメリカ対日協議会関係者
- ^ a b 同一閨閥に属する大久保利通・牧野伸顕と並び、従一位に叙されている。
- ^ これが為、アジア・太平洋地域に集団安全保障体制は存在しない。[要検証 ]
- ^ 総務省HP。以下端数は切り捨て。
- ^ 電通出身の自民党"世襲議員"は近年であれば、高村正大、平井卓也、中山泰秀などがいる。
出典
自民党
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2013年4月8日、自由民主党雇用問題調査会はその対策としてブラック企業の社名公表などの措置を政府に提言する方針を固め、同年夏の第23回参議院議員通常選挙に党の公約として明記することを検討したが、最終的には見送られた。
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自民党
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2000年(平成12年)、第41回衆議院議員総選挙に埼玉7区から新進党公認で立候補し当選した中野清の自民復党が認められ、中野に敗れた次兄の小宮山徹が自民支部長を解任される。父以来の小宮山後援会はこれに反発し、同年6月、徹に代わって第42回衆議院議員総選挙に自民党の党籍を残したまま無所属で立候補するも落選。
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自民党
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「池田大作に対する訴権の濫用」の記事における「自民党」の解説
1993年以降、自民党は創価学会の金銭、選挙運動など実態を調査、公明党及び新進党(1994年末に公明党が合流した)に対する政教分離問題を中心とした追及を続けていた。その中には創価学会元顧問弁護士の山崎正友、龍年光など離反した元幹部を党の勉強会に招き、実態の把握に努めた。そんな中、1994年に創価学会の政教一致批判を目的とした自民党内勉強会「憲法20条を考える会(会長は亀井静香)」が結成され、さらに同会の影響下で他宗派の宗教者や有識者による「四月会」(信教と精神性の尊厳と自由を確立する各界懇話会)が設立された。宗教法人法改正案(1995年末に可決・成立)の審議過程で自民党が池田の証人喚問を要求し、新進党の公明党系議員が議場でピケを張るなど強硬に反対した。亀井静香は1994年、宗教法人法の改正で答弁した際「池田大作さんに宗教法人特別委員会に参考人として出てきてもらい、宗教法人法の改正に反対の理由を述べてもらいたい」と発言、、創価学会との対立姿勢をあらわにした。白川勝彦によると、自民党の1996年頭の運動方針には「いま、わが国の政治にとって最も憂うべきは、宗教団体・創価学会が新進党という政党の皮をかぶって国民を欺き、政治の権力を握ろうと画策していること」という文言があったという。 このような厳しい対立の構図の中で第1次橋本内閣が発足し、直後の第136回国会(住専国会)では、衆議院予算委員会(1996年4月1日)で白川勝彦が「選挙について記述がある」として女性の手記を資料提出し、女性を「池田大作にレイプされたという衝撃の告白をした●●さん」と紹介して、「創価学会の選挙運動への関与を究明する」という名目で池田と女性の証人喚問を要求した。金融問題等に関する特別委員会(5月28日)でも、原田昇左右が池田と女性の証人喚問を求めた。自民党機関誌『自由新報』は、1996年から1997年にかけて俵孝太郎・内藤国夫らによる「シリーズ新進党=創価学会ウオッチング」を連載、そのうち4回で「レイプ疑惑」を取り上げた。このように、自民党は女性の手記発表や裁判をさまざまな形で利用した。 橋本内閣は1996年に衆議院を解散して総選挙に臨んだ。自民党は消費税率の引き上げなど不利な公約を掲げたにもかかわらず議席を伸ばした。朝日新聞社『AERA』・毎日新聞社『エコノミスト』等の雑誌は、自民党の勝因としてや亀井静香、白川勝彦が中心となった反創価学会キャンペーンを挙げた。総選挙後に行われた新進党の総括では敗因として、『比例は新進党、選挙区は人物本位』という戦略で臨んだが新進党の組織選挙が先の参議院選挙ほど機能しなかったことや重複立候補を立てなかったことに対する失敗、民主党も消費税増税批判をしていたため、新進党と民主党がともに候補者を擁立した選挙区では有権者の消費税増税批判票が二党に分裂した結果、自民党候補が小選挙区で棚ぼた的に当選した実例を挙げた。しかし、内部対立のしこりは残り、一部議員は自民党へ引き抜かれ、新進党は1997年末に自由党、公明党などの6党に分離し解散した。 また、社会党(後に社民党に改名)が1996年の総選挙で惨敗したこともあって、自民党は社会党の連立離脱を想定し、代替の連立相手となり得る存在だった公明党との関係修復を模索し、それまでの方針を180度転換する。まず、1997年10月に「シリーズ新進党=創価学会ウオッチング」の連載を休止(事実上の中止)し、創価学会側とパイプのあった自民党の旧竹下派を仲介役として、連立政権樹立に向けた協議をスタートした。そして、1998年4月に自民党は(創価学会の抗議に応じて)『自由新報』記事に関して、レイプ疑惑については事実無根だったとして、橋本龍太郎首相(当時)ら自民党執行部が公式に謝罪した。このため、自民党に裏切られた格好となった夫妻は自民党に対し、名誉毀損による損害賠償を求めて告訴した。 詳細は「自公連立政権」を参照 その後、1998年の参院選での大敗を経て、翌1999年10月に自民党は自由党との連立政権に公明党を加えた。この後、憲法20条を考える会は解散、2001年には四月会も解散し、白川勝彦は自民党を離党して「創価学会の政治支配と戦う」を掲げ、自公連立政権の打倒を目指す新党・自由と希望を立ち上げた。女性は、2001年7月の参議院選挙では、白川新党から立候補した法華講員を応援したが、この候補は落選した。
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自民党
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「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」の記事における「自民党」の解説
国鉄分割民営化の際には、それまで革マル派だと見られていた松崎が自民党の機関紙「自由新報(1986年4月29日号)」のインタビューに応じた。そして「私自身、かつて革マルに属していたことを否定するつもりはない。しかし、いまは、そうではないということも、はっきりさせておきたい」とした上で民営化賛成を表明。この結果、分割民営化に徹底反対していた国労と対立した。一方で自民党内からも、過激派であるということがほぼ公然の事実であった動労と手を結ぶことに関しては、警察出身の議員を中心に異論が存在した。
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「自民党」の例文・使い方・用例・文例
- 自民党が小泉人気の尻馬に乗った。
- 小泉が与党自民党の新総裁に選出された。
- 自民党は増税の法案を提出したが、猛烈な反対にあって撤回した。
- 自民党はみそぎが必要ですね。
- 両党はこの問題では提携して自民党に当たった.
- 受け皿が出来ていないので, 野党が自民党から政権を奪うことは不可能だと長い間いわれていた.
- 自民党候補が他の二人を激しく追い上げている.
- その件については自民党内にまだ表立った動きはない.
- 自民党がついに野に下った.
- 自民党は総選挙にむけて党内の結束をはかっていた.
- 自民党総裁選もやっと決着がついた.
- 自民党は来るべき総選挙に備えて総裁を除く党執行部の陣容のたて直しを図ることだろう.
- 彼は自民党の総裁選に出馬する意向を表明した.
- 彼はこの前の選挙に自民党の A 氏に対抗して立候補した.
- 自民党は 7 党の連携を事前に叩こうとした.
- これらのリベラル派は自らを「さきがけ」と称して自民党とたもとを分かった.
- あの評論家は自民党の右派の代弁者に過ぎない.
- 当時は自民党の天下だった.
- 自民党はそれまで数年間得票数が減り続けていた.
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