チベット動乱とは? わかりやすく解説

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チベット動乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/19 13:31 UTC 版)

チベット動乱(チベットどうらん)は、中国政府のチベット統治、支配に対し、アムド地方、カム地方における「民主改革」「社会主義改造」の強要をきっかけとして1956年に勃発し、1959年に頂点に達したチベット人の抗中独立運動のことである。中国政府はチベット反乱と呼ぶ。


注釈

  1. ^ チベット地域の人口は600万人といわれる[13]
  2. ^ ドキュメンタリー映画「雪の中の殺人事件」(原題;Murder in the Snow)が製作されている。[1]

出典

  1. ^ Shakya 1999, pp. 7-8
  2. ^ TIBET (AUTONOMY) HC Deb 21 June 1950 vol 476 c1267
  3. ^ Goldstein 2007, p96
  4. ^ Goldstein 1989, pp. 812-813
  5. ^ a b 鄧礼峰 1989, pp. 429–431
  6. ^ 毛里和子 1998, 第八章「一九五九年チベット反乱再考:エスノ・ナショナリズムの諸相(三)」pp.251-292
  7. ^ 鄧礼峰 1989, pp. 506
  8. ^ a b 鄧礼峰 1989, pp. 501–502
  9. ^ a b 叢進『曲折発展的歳月;1949-1989的中国』河南人民出版社,1989。pp.450-452
  10. ^ a b c d e f g h i j k l m チベット亡命政権 情報・国際関係省著「チベット入門」
  11. ^ a b c d チベット亡命政府
  12. ^ 鄧礼峰 1989, pp. 543。1959年3月から1960年10月までの計算で中央チベットだけで87000人のチベット人が殺害された。
  13. ^ a b クロード・B・ルヴァンソン『チベット』文庫クセジュ、白水社,2009年,p130
  14. ^ 酒井信彦 (2008年7月15日). “チベット問題は侵略という乱”. 季刊こころ第87号 (酒井信彦). http://sakainobuhiko.com/2008/07/post-3.html 2012年3月29日閲覧。 
  15. ^ a b c d e f ペマ・ギャルポ,2008,pp.67-70
  16. ^ Michael Parenti in " Friendly Feudalism: The Tibet Myth" writes: Both the Dalai Lama and his advisor and youngest brother, Tendzin Choegyal, claimed that “more than 1.2 million Tibetans are dead as a result of the Chinese occupation.” The official 1953 census--six years before the Chinese crackdown--recorded the entire population residing in Tibet at 1,274,000.37 Other census counts put the population within Tibet at about two million. If the Chinese killed 1.2 million in the early 1960s then almost all of Tibet, would have been depopulated, transformed into a killing field dotted with death camps and mass graves--of which we have no evidence. The thinly distributed Chinese force in Tibet could not have rounded up, hunted down, and exterminated that many people even if it had spent all its time doing nothing else. See also "A Note on Tibet's Population" Leo A. Orleans, The China Quarterly, No. 27 (Jul. - Sep., 1966), pp. 120-122
  17. ^ en:Samdhong Rinpoche. Roebert, Donovan. The en:14th Dalai Lama. [2006] (2006). Samdhong Rinpoche: Uncompromising Truth for a Compromised World : Tibetan Buddhism and Today's World. World Wisdom, Inc. ISBN 1933316209. pg 116-117
  18. ^ The Independent on-line
  19. ^ [2]ICT2009年5月5日記事。また、RFA(Radio Free Asia)2009年5月5日記事。
  20. ^ AFP通信2009年5月5日
  21. ^ [3]ICT2009年8月20日記事。[4]
  22. ^ 鄧礼峰 1989, p. 506
  23. ^ 鄧礼峰 1989, p. 543



チベット動乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/16 13:17 UTC 版)

チベットの歴史 (現代)」の記事における「チベット動乱」の解説

清末以来、反清、反中闘争続けてきたカム地方人々は、翌1956年より武装蜂起開始一時的に中華人民共和国の軍事警察機関一掃成功する。チベット動乱の勃発である。カム人民抗中蜂起対し中国人民解放軍はただちに反撃開始戦火避け民衆敗走する抗中ゲリラたちは、雪崩をうって、まだガンデンポタン統治下で平穏保っていた「西蔵」へ逃げ込んだカム地方出身抗中ゲリラたちは、この地で初め統一組織チュシガンドゥク」を結成1957年からはアメリカCIA支援受けたが(CIAチベット計画)、故郷奪回乗り出す力はなかったので、「西蔵内の各地人民解放軍駐屯地中華人民共和国の行政機関襲撃する武力活動展開したこのような情勢悪化対しガンデンポタンは、抗中ゲリラによる政府保有武器食料の提供要求拒否するなど、十七か条協定枠組み維持することで、かろうじて確保された「自治」をまもろうとつとめたが、1959年には事態は一層悪化人民解放軍ダライ・ラマ14世対す観劇招待を、ダライ・ラマ拉致口実疑ったラサ市民が夏の宮殿ノルブリンカ前に集結人民解放軍による解散要求砲撃など、混乱の中、ダライ・ラマ14世ラサ脱出した中国国務院総理周恩来は「西蔵地方政府」の解散布告、これに対しダライ・ラマ14世は、国境越え直前に「チベット臨時政府」の樹立宣言しインドへと亡命した中国によるチベット政府行政機構正規軍解体支配体制樹立1960年ごろまでにほぼ完了したカム地方出身者中心に結成され抗中ゲリラチュシ・ガンドゥクによる武力抵抗は、ネパール領のムスタン拠点とし、そこからチベット各地出撃する形で引き続き展開された。しかし米中国交回復にともない1972年米国からの支援停止1974年ネパール政府ムスタン基地包囲して抗中ゲリラ武装解除解散迫った抗中ゲリラダライラマ玉音テープ携えたチベット亡命政府使者説得に応じて武装解除しムスタンより退去抗中武力抵抗はここに終焉迎えた。 チベット動乱にともない最高指導者ダライ・ラマ14世政府ガンデンポタンメンバーらをはじめ多く僧侶や一農牧民たちがインドなどに亡命十数万人から成る亡命チベット人社会形成するにいたる。 1959年から1961年にかけヒマラヤ山脈西方、および東方の二カ所において人民解放軍インド軍武力衝突発生した戦闘は、装備に勝る人民解放軍インド軍破って前進したのち、人民解放軍は、西部ではアクサイチン地区そのまま確保、しかしソビエト連邦アメリカなどの国際社会からの圧力受けて東部ではインド側が国境として主張するマクマホンラインまで撤退する形で収束した中印国境紛争)。 1965年に、西蔵自治区成立中国全土数百死者出したと言われる文化大革命期には極左紅衛兵によって多く寺院破壊されるなど、文化遺産深刻な被害出た。さらに人民公社導入など、中華人民共和国との一体化進んだチベット現状については、記事チベット問題」も参照

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チベット動乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 10:16 UTC 版)

チベットの歴史」の記事における「チベット動乱」の解説

詳細は「チベット動乱」を参照 中国政府宗教排撃し、遊牧であった土地取り上げ漢族の大量入植進めたこのためチベット人との軋轢高まり1956年アムドカム地方抗中蜂起全面的に勃発し、チベット動乱が始まった1956年末、中国区分四川省所属する涼山美姑西昌康定西蔵所属当時チャムド解放委員会管轄下のギャンダ・ゾン(江達)、芒康らによる第1次蜂起起きる。中国軍は1957末に平定成功。さらに反乱勢力10万人に人民解放軍6動員して鎮圧する中国共産党発表によれば20,000人を殲滅し、20,000人を逮捕した 1957年には、 ゴンボ・タシは、米国CIA支援もうけ、東チベット人中心とした反乱部隊チュシ・ガンドゥク結成しゲリラ戦開始するカム反乱)。 1957年から1958年にかけて、バタン巴塘)、維西徳欽中甸らによる第2次蜂起に対して中国軍は1958末に「平定」に成功。5,500人を「殲滅」(虐殺)した。 青海省における虐殺 1958年3月から8月にかけて、甘粛から青海にかけての42万平キロにかけてチベット人130,000人が「反乱」を行った中国軍は、うち110,000人を殲滅(つまり、虐殺)して平定した。また、青海省におけるチベット人モンゴル人遊牧民50,000人を逮捕した。この数字青海省チベット・モンゴル遊牧民総人口10%にあたる。逮捕者84%にあたる45,000人が誤認逮捕であった拘留中に23,260人が死亡(正しく殺害の意味か…)、誤って殺害されたものが173人。宗教・民族分子259人、民族幹部480人が死亡1959年には、動乱ガンデンポタン管轄領域西蔵)にも波及し同年3月17日生命危機感じたダライ・ラマ14世インド亡命しチベット亡命政府立てた1959年3月10日勃発したラサ蜂起では三日間で10,000人-15,000人のラサ市民が死亡中央チベットの虐殺 1959年3月から1962年3月までに中央チベットにおいて、死亡負傷捕虜含めて93,000人を殲滅武器35,500丁、砲70問を鹵獲した(中央チベット大虐殺)。 アムド地方ゴロク地区中国区分青海省洛州)では1956年130,000人あった人口1963年におよそ60,000人にまで減ったとされる中華人民共和国国務院チベット独立軍鎮圧後、「西蔵地方政府」を廃止し西蔵統治を「西蔵自治区籌備委員会」に委ねる1966年西藏自治区(チベット自治区)が発足。同1966年文化大革命波及し紅衛兵ラサ進駐開始して年長世代による宗教信仰糾弾された。

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