ユリシーズ・グラント
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ユリシーズ・S・グラント(英: Ulysses S. Grant、1822年4月27日 - 1885年7月23日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家。南北戦争時の北軍の将軍および第18代アメリカ合衆国大統領。南北戦争で戦った将軍の中では南軍のロバート・E・リー将軍と並んで(またそのリー将軍を最終的に破ったことで)最も有名な将軍の1人である。
注釈
出典
- ^ “グラント将軍植樹碑|公園の見どころ”. 上野恩賜公園(東京都建設局). 2022年12月26日閲覧。
- ^ 『現代に生きる故事ことわざ辞典』宮越賢編、旺文社、p433。
- ^ 『ちょっと笑える話』ベネット・サーフ著、常盤新平訳、文藝春秋文春文庫、p25。
- ^ The height differences between all the US presidents and first ladies ビジネス・インサイダー
- ^ The only other arrest of a U.S. president involved a speeding horse.
- 1 ユリシーズ・グラントとは
- 2 ユリシーズ・グラントの概要
- 3 生涯
- 4 語録
- 5 関連項目
グラント将軍
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「エイブラハム・リンカーン」の記事における「グラント将軍」の解説
ジョージ・マクレラン将軍を始めとする総指揮官たちが繰り返した一連の失敗によるフラストレーションのあとに、リンカーンは、急進的で有能な軍指揮官ユリシーズ・グラント将軍を任命する運命的な決定を下した。グラントは軍事知識とリーダーシップを発揮した。 ゲティスバーグの戦いから撤退するリー軍を追えなかったミードは、ポトマック軍の指揮で消極的な態度を続けたので、リンカーンは再度指揮官を変えることが必要だと考えた。シャイローの戦いやビックスバーグの戦いでのユリシーズ・S・グラント将軍の勝利がリンカーンの頭の中に残っており、北軍総司令官の強力な候補に浮上した。シャイローの戦い後にグラントを批判する声があったことに反応したリンカーンは、「私はこの男なしではやっていけない。彼は戦うのだ」と語った。グラントを総司令官に据えれば、北軍は多数の戦域で容赦なく一連の共同作戦を遂行できると感じていた。 それでもリンカーンは、マクレランがそうだったように、グラントも1864年の大統領選挙で候補者を目指しているのではないかと心配していた。リンカーンは仲介者を介してグラントの政治的意図を問わせ、グラントにそのつもりがないことを確認した上で、上院にグラントを北軍総司令官に昇進させる議案を提出した。上院からはグラントの総司令官就任と中将に昇格させることに同意を得た。中将はジョージ・ワシントン以降誰も就いたことのない位だった(ウィンフィールド・スコットが1856年に名誉中将となったことは除く)。 グラントは1864年にオーバーランド方面作戦を実行したが、損失も大きかった。荒野の戦いやコールドハーバーの戦いなどでの損失が大きかったため、消耗戦と言われることも多い。南軍は防御に回る利点があったにもかかわらず、「北軍と同じくらいの損失率」を出していた。損失の大きさは北部に警鐘を与えた。グラントはその軍隊の3分の1を失っていた。リンカーンがグラントに作戦内容を問うと、グラントは「私はこの作戦が一夏すべてかかるとしても、このやり方で戦い続けることを提案する」と答えた。 南軍はそれ以上補強することがかなわなかったので、リー軍は全ての戦闘で後退し、バージニア州ピーターズバーグ郊外の塹壕の内側に引きこもるしかなくなった。グラントは包囲戦を始めた。リンカーンはバージニア州シティポイントにあったグラントの作戦本部を訪れた。このとき大統領はグラントやウィリアム・シャーマンと戦争の進め方について直接相談することができた。シャーマンはノースカロライナ州にいたが、このとき偶然にも急ぎの用でグラントのもとに来ていた。リンカーンと共和党は北部中で徴兵するための支援を開始し、グラントが失った兵力を埋めた。 リンカーンはグラントに、南部のプランテーション、鉄道および橋梁といったインフラを標的にして、南部の士気を低下させ、経済的に戦争を継続する能力を下げさせる方法を認めた。グラント軍がピーターズバーグまで進軍したことで、リッチモンドと南部を結ぶ鉄道3本が遮断された。この戦略に従って、シャーマンとフィリップ・シェリダンはバージニア州シェナンドー・バレーのプランテーションや町を破壊した。1864年にシャーマンがジョージア州で行った海への進軍によって引き起こされた損害は幅60マイル (100 km) の範囲に限られてはいたが、リンカーンもその指揮官達も破壊が主目的ではなく、南軍を倒すことが目標だった。歴史家のニーリーが言っているように、第二次世界大戦のように文民に対する「全面戦争」とする意志はなかった。 南軍の将軍ジュバル・アーリーは北部に対する一連の襲撃を開始し、首都ワシントンを脅かした。1864年のワシントン襲撃では、リンカーンが無防備な場所から戦闘を見ており、オリバー・ウェンデル・ホームズ大尉が「降りて下さい。ばかなことを。撃たれる前に」と叫んだ。グラントにワシントンを守るよう繰り返し呼びかけがなされた後、シェリダンに首都防衛の任務が与えられ、アーリー軍の脅威に対処された。
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