オーバーランド方面作戦
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オーバーランド方面作戦(英:Overland Campaign、またはWilderness Campaign)は、南北戦争の1864年5月と6月に、バージニア州で行われた一連の戦闘である。北軍の総司令官ユリシーズ・グラント中将は、ジョージ・ミード少将のポトマック軍やその他の軍隊を指揮して、南軍将軍ロバート・E・リーの北バージニア軍に対する戦いを仕掛けた。グラントはこの方面作戦中、夥しい損失と何度も戦術的な敗北を喫したが、リー軍をピーターズバーグで動きの取りにくい状態に追い込んだことで戦略的には北軍の勝利と考えられている。
- 1 オーバーランド方面作戦とは
- 2 オーバーランド方面作戦の概要
- 3 戦闘の後
- 4 関連項目
オーバーランド方面作戦
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「第9軍団 (北軍)」の記事における「オーバーランド方面作戦」の解説
1864年1月17日、ポッターに代わってウィルコックスが軍団長となったが、1月26日にはパークが軍団長となり、ウィルコックスは第2師団長となった。 バーンサイドは軍の再編成のために、アナポリス (メリーランド州)に戻るように命令された。4月にはバーンサイドの下に第9軍団は4個師団編成に拡張され、それぞれの師団長はトーマス・スティーブンソン(Thomas G. Stevenson)、ポッター、ウィルコックス、フェレーロであり、フェレーロの師団はアフリカ系アメリカ人で構成されていた。軍団の実働人員は19,331人で野砲42門を有していた。兵力はさらに増強され5月10日には32,708人となっている。それぞれ砲兵2個中隊を有する4個師団に加え、6個砲兵中隊から成る予備砲兵旅団、重砲部隊および騎兵部隊の兵を歩兵とした特設連隊があった。合計で42個歩兵連隊、14個野砲兵中隊から構成されていた。フェレーロの黒人部隊はそれまで戦闘に参加したことがなかったが、白人連隊も多くは新設部隊か、あるいは基地任務しか経験がなかった。古参の連隊の場合でも、兵士自体は新規の徴兵が多かった。 1864年5月に開始されたオーバーランド方面作戦では、北軍総司令官ユリシーズ・グラントがロバート・E・リーに対して攻勢作戦をとった。グラントの隷下にはジョージ・ミードのポトマック軍と、これとは独立してグラント直轄の第9軍団があった。バーンサイドは形式的にはミードより上位のランクにあり、ミードからの命令を受けることを拒んだため、この変則的な編成がとられた。ノースアンナの戦い(5月23日-26日)前には、グラントはこの組織は非効率であると判断し、バーンサイドを説得してパークと共に自身の参謀長に据えた。これによって、第9軍団をグラント直轄にする必要が無くなり、5月25日に第9軍団はポトマック軍の所属となった。 オーバーランド方面作戦の最初の戦いである、5月5日-7日の荒野の戦いでは、戦死240人、戦傷1,232人、行方不明168人、合計1,640人の損害を出した。5月8日-21日のスポットシルバニア・コートハウスの戦いにおける損害は3,146人、内訳は戦死486人、戦傷2,119人、行方不明469人であった。最大の損害を出したのは5月12日で「ミュール・シュー」突出部の右側面に対して突撃をかけたときであった。第1師団長のスティーブンソンは5月10日に戦死、以前第21軍団長を務めていたトマス・L・クリッテンデンが後を継いだ。
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オーバーランド方面作戦
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「アンブローズ・バーンサイド」の記事における「オーバーランド方面作戦」の解説
バーンサイドは第9軍団を東部戦線に戻すよう命令を受け、メリーランド州アナポリスに戻って、実戦部隊21,000名を越える軍団を作り上げた。第9軍団は当初グラントの下に入ったが、独立した部隊として1864年5月のオーバーランド方面作戦に参戦した。ポトマック軍の指揮を任されたジョージ・ミード少将がフレデリックスバーグではバーンサイドの部下の師団指揮官であり、階級が下だったので、バーンサイドの軍団はポトマック軍に入らなかった。この厄介な配置はノースアンナの戦い直前の5月24日に是正され、バーンサイドは先任士官であることを放棄し、ミードの直接指揮の下に入ることを認めた。 バーンサイドは荒野の戦いとスポットシルバニアの戦いに参戦したが、目立った働きはしなかった。バラバラに攻撃し、これらの戦いの特徴であった正面攻撃にその部隊を向かわせることを躊躇っているように見えた。ノースアンナとコールドハーバーの戦いの後で、ピーターズバーグの包囲戦に加わった。
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オーバーランド方面作戦
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「東部戦線 (南北戦争)」の記事における「オーバーランド方面作戦」の解説
5月早くに、ポトマック軍はラピダン川を渡ってスポットシルバニアの荒野と呼ばれる地域に入った。そこは深い森のために北軍の大砲の威力が活かせず、リー軍は積極的にグラントとミードの軍に急襲を掛けた。2日間にわたる荒野の戦いでは両軍に多くの損失をもたらしたが、決着は付かなかった。しかし、グラントはそれまでの前任者達とは異なり、戦闘後も退却しなかった。むしろ、南東へ部隊を動かして作戦行動を開始し、幾つかの流血の多い戦闘でリー軍を防衛一辺倒にさせ、さらにリッチモンドに迫った。グラントはその優勢な戦力と北部の人力があれば、リー軍やアメリカ連合国よりも消耗戦に耐えられることが分かっていた。グラント軍はこの方面作戦で55,000名という大きな損失を出したが、リー軍の方が損耗率が高く、しかも補充が適わなかった。 スポットシルバニア郡庁舎の戦いで、リーはグラント軍を叩き、強固な防衛拠点を構築した。グラントは2週間以上にわたる一連の攻撃で、「ミュール・シュー」と呼ばれる突出部に集中して南軍の前線を攻撃した。5月12日にこの前線の「ブラッディ・アングル」と呼ばれる場所に向けて行われたウィンフィールド・ハンコックの第2軍団による総攻撃は、第一次世界大戦後半に塹壕に対する突破戦術として採用された。グラント軍は再度この前線を離れ、南東に移動した。 リーはグラントの移動を止めるためにノース・アンナ川の背後に軍を配置し、その突出部でグラント軍が分断されて攻撃するように仕向けた。リー軍にはグラント軍を打ち破るチャンスがあったが、その設定した罠を作動させるために必要なやり方で攻撃することができなかった。おそらくは病気のためと考えられている。グラントはさらに南東への移動を続けた。 5月31日、北軍の騎兵隊がオールド・コールドハーバーの重要な道路交差点を確保した。一方で南軍はリッチモンドとトトポトミー前線から援軍が到着した。6月1日遅く、北軍の2個軍団がコールドハーバーに到着し、南軍の部隊を襲って少なからぬ成果を挙げた。6月2日までに両軍は戦場に到着し、7マイル (11 km)にわたる前線を作り上げた。6月3日の明け方、北軍の第2および第18軍団、さらに続いて第9軍団が前線に総攻撃をかけ、コールドハーバーの戦いが始まったが、すべて撃退された。この時の北軍の損失は12,000名以上に上り、グラントは他にも増して後悔することになった。後に北部の新聞はグラントを指してたびたび「ブッチャー」(肉屋)と呼んだ。 6月12日の夜、グラントは再びその左翼側に進軍しジェームズ川に到着した。グラントはうまくその意図がリーに分からないようにしたまま、2マイル (3 km)にもなる舟橋を構築して川を渡った。リーが最も恐れていたことはグラントが首都を包囲することだったが、それが期せずして起こった。
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