オーバーランド方面作戦とリッチモンド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/22 15:11 UTC 版)
「リチャード・ユーエル」の記事における「オーバーランド方面作戦とリッチモンド」の解説
ユーエルは1864年5月の荒野の戦いでその軍団を指揮し、その軍団を攻撃した北軍の軍団よりも勢力的に上回るという稀な機会を利用して功績を挙げた。スポットシルバニア・コートハウスの戦いでは、ユーエルの不決断、不行動の故に、リーが5月12日にミュールシューで自ら防御陣を率いなければならないと感じた。ある時点で、ユーエルはその逃亡した兵士達を理性を失くして叱り始め、その刀で兵士達の背中を叩いた。リーはその怒りまくる部下を抑え、鋭く「ユーエル将軍、自分を抑えなければだめだ。貴方が自制心を失っているときに、これらの兵士達を統率できると期待できるだろうか?貴方の興奮を抑えられなければ、辞めた方が良い」と言った。この時のユーエルの行動は疑いも無く、リーによって戦後にその秘書官のウィリアム・アランに伝えられたことを元にしており、この日5月12日に、「ユーエルはその日の朝の不幸で完全に動顚しており、あまりに打ちのめされていたので、その有能さを失っていた」とリーは語っていた。 リーは、ユーエルの長引く傷がその問題の原因であると判断し、軍団指揮官から解任して、リッチモンド防衛軍の指揮官に転任させたが、これは北軍が南軍の首都に過大な圧力を掛けている状況を見れば、決して重要でない任務ではなかった。1865年、セイラーズクリークの戦いでそのぼろぼろになった軍隊が包囲され捕獲されたときは、リッチモンドから撤退中だった。これはアポマトックス・コートハウスでリーが降伏する数日前だった。ユーエルは1865年7月までボストン港のウォーレン砦に戦争捕虜として囚われていた。
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