第一次ポエニ戦争
第一次ポエニ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 01:48 UTC 版)
イタリア半島を完全に勢力下においたローマは、紀元前265年、シチリア島に対して更なる遠征を開始した。その際、シチリア島の統治権をめぐり、北アフリカに勢力を張るカルタゴと交戦状態に陥った。そしてシチリア島にてカルタゴと軍事衝突し、第一次ポエニ戦争が開戦した。この戦争では地中海最強の海軍を擁する強国カルタゴが相手とあって、初戦において経験不足のローマ海軍ではカルタゴ海軍に太刀打ちできなかった。それゆえ、ローマ共和政下の元老院は、紀元前261年、新たな様式の軍船100隻に加え三段櫂船を20隻ほど新たに建造させることを取り決めた 。古代ギリシアの歴史家ポリュビオスによれば、ローマは沿岸に漂着・又は戦闘にて捕獲したカルタゴ軍船から学んだ技術を模倣するなどしてこの大艦隊の建造したとされる。この艦隊は毎年民会で選ばれる政務官が率いていたとされるが、彼らは海軍に特化した経験・知識を有しておらず、ローマ共和政配下の同盟市から選出された熟練の下級軍人(多くはギリシア人であった)らによってそれが補われていた。この仕組みはローマ帝国期まで継続して存在していたとされ、それを裏付けるように、ローマ海軍の戦法・技術の名前には古代ギリシア海軍の専門用語に因んだものが多かった。 上述のように、ローマは急速に軍船を整備したものの、ローマ人の乗組員は依然として戦闘・航海経験が不足しており、当時一般的だった海戦戦術では満足のいく成果を得ることができなかった。そこでローマは革新的な装備コルウスを開発し、それを軍船に取り付けることでカルタゴ側の海上での優位性を崩し、ローマが得意とする陸上戦に持ち込む新たな戦法を取るようになった。コルウスとは、鉤爪付きの長い木板のことである。これを自分の軍船の先頭に取り付け、敵船に突進してこのコルウスの鉤を敵船に引っ掛け固定することで両船間の橋のようにし、それを使って兵士を敵船に乱入させ敵船を制圧する、という新たな戦法をローマは編み出した。(ちなみにこのコルウスは、かつてギリシア植民都市シラクサがアテネに攻め入られた時に用いた戦法であるとされ、ローマはこれを改良して海軍に取り入れた。)このコルウス戦法により、ローマが誇る精強な陸軍レギオンを海戦でも十分に活用することができ、カルタゴを海戦でも圧倒することができるようになった。しかしながら、コルウスにはそれなりの重量があったため、軍船が安定感が落ちて悪天候の際によく転覆するようになったとされる。 コルウスを導入した駆け出しのローマ海軍は、紀元前260年、この戦争で初の海戦ではカルタゴに敗北してしまったものの、この海戦の規模が小さく大局に影響を与えることなかった。そして遂に、同年に行われたポエニ戦争で最初の大規模な戦闘にてカルタゴ海軍を打ち破った。その後の海戦もローマは勝利に勝利を重ね、紀元前258年にはスルキ沖の海戦、紀元前257年にはティンダリス沖の海戦、続く紀元前256年には古代史上最大の海戦と言われるエクノモス岬の戦いにて大勝利を飾り、ローマ海軍ははカルタゴに肉迫した。この海戦での連戦連勝により、ローマはカルタゴを地中海を超えて北アフリカ、そして首都カルタゴまで追い詰めた。ローマ海軍の戦勝続きは、海軍の経験値が増え技術的にも戦術的にも進歩したことを大いに表しているが、その反面、嵐などの荒天により多くの兵士が犠牲となり海の藻屑と化し、海軍が多大な損害を被ったとされている。他方、カルタゴは多くの戦で敗れ兵士を消耗したことで苦しんだ。 紀元前249年、ローマはドレパナ沖の海戦にてカルタゴに敗れ、一時的にローマ市民からの寄付を持って新たな戦艦を建造する羽目になったと言われているが、この戦争の最後の戦いであるアエガテス諸島沖の海戦にてカルタゴを再び打ち破り、ローマの操船航海術がカルタゴのそれを上回っていることが証明された。(この戦いは、コルウスが使われずに通常の戦法である衝角戦法にてカルタゴを撃破した戦いとして広く知られている。)
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第一次ポエニ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 02:10 UTC 版)
詳細は「第一次ポエニ戦争」を参照 紀元前264年から紀元前241年。シチリア島をめぐる一連の戦闘と海戦が焦点となる。 シチリア島は西半分がカルタゴ領で、東半分がギリシア人勢力のシラクサが抑えていたが、北東にあるメッシーナはシラクサより離反したカンパニア人の傭兵部隊マメルティニが占領していた。シラクサの僭主ヒエロン2世は、マメルティニに対して攻撃を開始した。マメルティニはローマとカルタゴの両方に助けを求めたが、このことがポエニ戦争の直接の原因である。出兵はカルタゴの方が早かったが、ローマもマメルティニと同盟を結び紀元前264年に出兵した。マメルティニはカルタゴ軍を追い出してローマ軍を市内に入れたが、カルタゴ軍は城外には出たもののそこから撤退せず、またシラクサ軍も近くに陣を構えていた。ローマ軍は出撃し、カルタゴ・シラクサ両軍に勝利し、ローマとカルタゴはシチリアの覇権をかけた戦いに突入する。翌紀元前263年にシラクサはローマと講和して同盟を結んだ。 紀元前262年、ローマはカルタゴが守るアグリゲントゥム(現アグリジェント)を攻略した。続いてローマはカルタゴの補給を断つため大艦隊を建造した。当初は劣勢であったもののカラス装置(コルウス)を用いた接舷戦闘を編み出していくつかの海戦に勝利し、海上でも優勢を保つようになった。勢いを得たローマはアフリカへ上陸するが、紀元前255年にスパルタ人の傭兵隊長クサンティッポ率いるカルタゴ軍にチュニスの戦いで大敗し、さらに撤退の最中に海難事故にあい6万の兵を失った。 紀元前249年、カルタゴはハミルカル・バルカ将軍(ハンニバルの父)をシチリアに送った。ハミルカルは勝利を重ねほぼシチリア島全土の支配を獲得した。しかし、紀元前244年にカルタゴで権力を握った大ハンノは、勝利は近いと考えて海軍を縮小した。これを見たローマは艦隊を再建し、アエガテス諸島沖の海戦(紀元前241年3月10日)で第一次ポエニ戦争の決着をつけた。ハミルカルも補給を失い、降伏せざるを得なかった。
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