第一次ポエニ戦争とは? わかりやすく解説

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第一次ポエニ戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/26 08:02 UTC 版)

第一次ポエニ戦争(だいいちじポエニせんそう、: Primum Bellum Punicum, 紀元前264年 - 紀元前241年)は、カルタゴ共和政ローマの間で戦われた三度にわたるポエニ戦争の初めのものである。


  1. ^ https://archive.org/stream/EB1911WMF/VOL22_POLL-REEVES_djvu.txt Encyclopædia Britannica. 1911. "Rome." vol 23 p628.


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第一次ポエニ戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 01:48 UTC 版)

ローマ海軍」の記事における「第一次ポエニ戦争」の解説

イタリア半島を完全に勢力下においたローマは、紀元前265年シチリア島に対して更なる遠征開始したその際シチリア島の統治をめぐり、北アフリカ勢力を張るカルタゴ交戦状態に陥った。そしてシチリア島にてカルタゴ軍事衝突し、第一次ポエニ戦争が開戦した。この戦争では地中海最強海軍擁する強国カルタゴ相手とあって初戦において経験不足のローマ海軍ではカルタゴ海軍太刀打ちできなかった。それゆえローマ共和政下の元老院は、紀元前261年新たな様式軍船100隻に加え三段櫂船20隻ほど新たに建造させることを取り決めた古代ギリシア歴史家ポリュビオスによればローマ沿岸漂着・又は戦闘にて捕獲したカルタゴ軍船から学んだ技術模倣するなどしてこの大艦隊の建造したとされる。この艦隊毎年民会選ばれる政務官率いていたとされるが、彼らは海軍特化した経験・知識有しておらず、ローマ共和政配下同盟市から選出され熟練下級軍人(多くギリシア人であった)らによってそれが補われていた。この仕組みローマ帝国期まで継続して存在していたとされ、それを裏付けるように、ローマ海軍戦法技術の名前に古代ギリシア海軍専門用語因んだものが多かった上述のように、ローマ急速に軍船整備したものの、ローマ人乗組員依然として戦闘航海経験不足しており、当時一般的だった海戦戦術では満足のいく成果を得ることができなかった。そこでローマ革新的な装備コルウス開発し、それを軍船取り付けることでカルタゴ側の海上での優位性崩しローマが得意とする陸上戦持ち込む新たな戦法を取るようになったコルウスとは、鉤爪付き長い木板のことである。これを自分軍船先頭取り付け敵船突進してこのコルウスの鉤を敵船引っ掛け固定することで両船間のようにし、それを使って兵士敵船乱入させ敵船制圧する、という新たな戦法ローマ編み出した。(ちなみにこのコルウスは、かつてギリシア植民都市シラクサアテネ攻め入られ時に用いた戦法であるとされ、ローマはこれを改良して海軍取り入れた。)このコルウス戦法により、ローマが誇る精強陸軍レギオン海戦でも十分に活用することができ、カルタゴ海戦でも圧倒することができるようになったしかしながらコルウスにはそれなりの重量があったため、軍船安定感落ちて悪天候の際によく転覆するようになったとされるコルウス導入した駆け出しローマ海軍は、紀元前260年、この戦争で初の海戦ではカルタゴ敗北してしまったものの、この海戦規模小さく大局影響与えることなかった。そして遂に同年行われたポエニ戦争最初大規模な戦闘にてカルタゴ海軍打ち破ったその後海戦ローマ勝利勝利を重ね紀元前258年にはスルキ沖の海戦紀元前257年にはティンダリス沖の海戦、続く紀元前256年には古代史最大海戦と言われるエクノモス岬の戦いにて大勝利飾りローマ海軍ははカルタゴ肉迫した。この海戦での連戦連勝により、ローマカルタゴ地中海超えて北アフリカ、そして首都カルタゴまで追い詰めたローマ海軍戦勝続きは、海軍経験値増え技術的に戦術的に進歩したことを大い表しているが、その反面、嵐などの荒天により多く兵士犠牲となり海の藻屑化し海軍多大な損害被ったとされている。他方カルタゴ多くの戦で敗れ兵士消耗したことで苦しんだ紀元前249年ローマドレパナ沖の海戦にてカルタゴ敗れ一時的にローマ市民からの寄付持って新たな戦艦建造する羽目になったと言われているが、この戦争最後の戦いであるアエガテス諸島沖の海戦にてカルタゴを再び打ち破りローマ操船航海術カルタゴのそれを上回っていることが証明された。(この戦いは、コルウス使われずに通常の戦法である衝角戦法にてカルタゴ撃破した戦いとして広く知られている。)

※この「第一次ポエニ戦争」の解説は、「ローマ海軍」の解説の一部です。
「第一次ポエニ戦争」を含む「ローマ海軍」の記事については、「ローマ海軍」の概要を参照ください。


第一次ポエニ戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 02:10 UTC 版)

ポエニ戦争」の記事における「第一次ポエニ戦争」の解説

詳細は「第一次ポエニ戦争」を参照 紀元前264年から紀元前241年シチリア島をめぐる一連の戦闘海戦焦点となる。 シチリア島は西半分カルタゴ領で、東半分ギリシア人勢力シラクサ抑えていたが、北東にあるメッシーナシラクサより離反したカンパニア人の傭兵部隊マメルティニ占領していた。シラクサ僭主ヒエロン2世は、マメルティニに対して攻撃開始したマメルティニローマカルタゴ両方助け求めたが、このことがポエニ戦争直接の原因である。出兵カルタゴの方が早かったが、ローママメルティニ同盟を結び紀元前264年出兵した。マメルティニカルタゴ軍追い出してローマ軍市内入れたが、カルタゴ軍城外には出たもののそこから撤退せず、またシラクサ軍も近くに陣を構えていた。ローマ軍出撃し、カルタゴ・シラクサ両軍勝利しローマカルタゴシチリア覇権をかけた戦い突入する。翌紀元前263年シラクサローマ講和して同盟結んだ紀元前262年ローマカルタゴが守るアグリゲントゥム(現アグリジェント)を攻略した続いてローマカルタゴ補給を断つため大艦隊を建造した当初劣勢であったもののカラス装置コルウス)を用いた接舷戦闘編み出していくつかの海戦勝利し海上でも優勢を保つようになった勢い得たローマアフリカへ上陸するが、紀元前255年スパルタ人傭兵隊長クサンティッポ率いカルタゴ軍チュニスの戦い大敗し、さらに撤退最中海難事故にあい6の兵を失った紀元前249年カルタゴハミルカル・バルカ将軍ハンニバルの父)をシチリア送ったハミルカル勝利を重ねほぼシチリア島全土支配獲得した。しかし、紀元前244年カルタゴ権力握った大ハンノは、勝利は近いと考えて海軍縮小した。これを見たローマ艦隊再建しアエガテス諸島沖の海戦紀元前241年3月10日)で第一次ポエニ戦争の決着をつけた。ハミルカル補給失い降伏せざるを得なかった。

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