トゥーロンの海戦
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トゥーロンの海戦(トゥーロンのかいせん、英: Battle of Toulon)またはシシエ岬の海戦(シシエみさきのかいせん、Battle of Cape Sicié)は1744年2月22日と23日(グレゴリオ暦)の午後1時30分から午後5時にかけて、南フランス・トゥーロン沖の地中海で、スペイン護送船団がイギリスの地中海艦隊を退けた戦い。フランス艦隊は海戦の終わりの頃に戦闘に参加し、それによってイギリス艦隊は撤収した。
- 1 トゥーロンの海戦とは
- 2 トゥーロンの海戦の概要
- 3 戦闘序列
- 4 関連項目
トゥーロンの海戦
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「リチャード・レストック」の記事における「トゥーロンの海戦」の解説
2人とも地中海に駐屯している間に1744年2月11日のトゥーロンの海戦が起こった。この海戦において、イギリス艦隊はスペインの護送船団を攻撃しようとしたが失敗に終わった。レストックは後衛を率いたが、戦闘命令を限定的に解釈して攻勢に出なかったため失敗の責任があるとの疑いがもたれた。イギリス艦隊は前日からスペイン艦隊を追跡していたが、レストックは2月10日の夜、戦列の形成が終わる前に後衛の前進を止めたため、翌朝までに戦列から大きく外れ、艦隊の本隊から5マイル離れる結果となった。レストックはそこから戦闘に参加しようとして戦場に向かったが、時すでに遅しだった。 マシューズは朝を通して信号を送っており、ボートで部下を2回送ってレストックに戦闘参加を求めたが、レストックはすでに全力を尽くしていたが、一部の船の足が遅いと返答した。しかし、レストックはより速い船に先行するよう命じることもなければ、マシューズの戦闘参加の信号にも従わなかったため、脱落したスペイン船4隻は逃走に成功した。戦闘の後、レストックは戦列形成の信号旗が掲揚されたままだったため、それに従うことが最も重要な責務であるとした。そのため、戦闘参加の信号に従うのは戦列を形成してからのみとした。前夜に後衛が本隊から大きく離れたことを問われると、レストックは規則では信号が発された時点でまず停船しなければならず、それが「戦列に移動する」という信号自体より優先されるとした。しかし、この規則の解釈は疑わしく、マシューズも満足せずレストックの職務を停止して本国に送り返した。
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トゥーロンの海戦
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「トマス・マシューズ」の記事における「トゥーロンの海戦」の解説
軽風の中、艦隊が互いに接近するにしたがって散らばって行き、やがて2月22日に戦闘へと展開した。マシューズは戦列を組むように信号を送った。夜になっても戦列は整わず、このためマシューズは、まず戦列を整えるようにとの目的で、風上に停船の信号を掲げた。先頭と中衛の艦隊はそれに従ったが、後衛艦隊のレストックは、停船を命じたものの、戦列を組んではいなかった。2月21日の日没までに、イギリス艦隊の後衛は、戦闘や中衛からかなり隔たっていた。 マシューズは共に交戦するのを嫌がって、いまだ戦列を組まないレストックに、艦をもっと動かすように信号を送ったが、レストックの回答は遅く、そのため仏西の連合艦隊はひそかに南の方へと離れて行った。マシューズは、この艦隊が離れて行ってジブラルタル海峡を通過して、ブレストのフランス艦隊と合流し、イギリス本土への侵攻計画(英語版)を実践するのを恐れていた。 自分の仕事は攻撃であることをわきまえていたマシューズは、味方に信号を送って、旗艦であるナムール(英語版)交戦を知らせ、スペイン軍の後衛を攻めるために、午前1時に戦列を抜けた。ナムールにはジェームズ・コーンウォール艦長のマルバラが併航していた。その間、戦列を組めという信号は翻ったままだった。この2つの異なる信号が同時に翻り、これが混乱を招いて、エドワード・ホークを始め多くのイギリス軍指揮官がマシューズに従った。イギリス軍の指揮官は数の上では非常にまさっていたものの、支援体制は万全ではなく、指揮官の間に不安があった。また、レストックのように、おそらくはマシューズが窮地にあるのを喜び、助けようともしない指揮官もいた。(アルフレッド・セイヤー・マハンによれば、レストックは増帆して艦隊を追ったが、交戦には参加しなかったといわれる)ナムールとマルバラは、敵陣の艦隊に辛勝したが、損失もまた大きかった。 午前5時、スペイン艦隊の救援のためにフランス艦隊がやって来て、一部のイギリス人指揮官は、この状況を、フランスがイギリス艦隊の周囲を回航して包囲する作戦であると受け取った。マシューズからは何の命令もなく、明確な指揮系統による指示もなかったため、イギリスの戦列は崩壊し、北西の方向へと散り始めた。スペイン軍はなおも防戦体制でいたため、無防備なマルバラを見過ごし、拿捕できなかったが、イギリスに拿捕されていたポデルを取り返した。フランスとスペインの連合艦隊はその後再び南西への一斉射撃を始めた。23日になって、イギリス艦隊は再集結することができ、追跡を再開した。再び敵軍に追いついたイギリス軍は、破損した艦の牽引を相手に妨害されたが、ポデルをまたも手中に収めた。マシューズはそれを焼くように命じた。イギリス軍は敵の艦隊まで数マイル(約3キロから5キロ)の所に迫って来ていたが、マシューズはまたも艦隊に停戦信号を送った。翌24日、フランスとスペインの連合艦隊はほぼ視界から消え、マシューズはイエールに戻って、ミノルカ島のマホン港に艦隊を進め、3月の始めにそこに上陸した。
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