トゥーロンの海戦とは? わかりやすく解説

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トゥーロンの海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/12 18:26 UTC 版)

トゥーロンの海戦(トゥーロンのかいせん、: Battle of Toulon)またはシシエ岬の海戦(シシエみさきのかいせん、Battle of Cape Sicié)は1744年2月22日と23日(グレゴリオ暦)の午後1時30分から午後5時にかけて、南フランストゥーロン沖の地中海で、スペイン護送船団がイギリス地中海艦隊を退けた戦い。フランス艦隊は海戦の終わりの頃に戦闘に参加し、それによってイギリス艦隊は撤収した。




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トゥーロンの海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/07 16:32 UTC 版)

リチャード・レストック」の記事における「トゥーロンの海戦」の解説

2人とも地中海駐屯している間に1744年2月11日のトゥーロンの海戦が起こった。この海戦において、イギリス艦隊スペイン護送船団攻撃しようとしたが失敗終わった。レストックは後衛率いたが、戦闘命令限定的に解釈して攻勢に出なかったため失敗責任があるとの疑いもたれたイギリス艦隊前日からスペイン艦隊追跡していたが、レストックは2月10日の夜、戦列形成が終わる前に後衛前進止めたため、翌朝までに戦列から大きく外れ艦隊本隊から5マイル離れる結果となった。レストックはそこから戦闘参加しようとして戦場向かったが、時すでに遅しだった。 マシューズは朝を通して信号送っており、ボート部下を2回送ってレストックに戦闘参加求めたが、レストックはすでに全力尽くしていたが、一部の船の足が遅いと返答した。しかし、レストックはより速い船に先行するよう命じることもなければマシューズ戦闘参加信号にも従わなかったため、脱落したスペイン船4隻は逃走成功した戦闘の後、レストックは戦列形成信号旗掲揚されたままだったため、それに従うことが最も重要な責務であるとした。そのため、戦闘参加信号に従うのは戦列形成してからのみとした。前夜後衛本隊から大きく離れたことを問われると、レストックは規則では信号発され時点でまず停船しなければならず、それが「戦列移動する」という信号自体より優先されるとした。しかし、この規則解釈疑わしくマシューズ満足せずレストックの職務停止して本国送り返した

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トゥーロンの海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/02 15:24 UTC 版)

トマス・マシューズ」の記事における「トゥーロンの海戦」の解説

軽風の中、艦隊互いに接近するにしたがって散らばって行き、やがて2月22日戦闘へと展開したマシューズ戦列を組むように信号送った夜になっても戦列整わずこのためマシューズは、まず戦列整えるようにとの目的で、風上停船信号掲げた先頭中衛艦隊はそれに従ったが、後衛艦隊のレストックは、停船命じたものの、戦列組んではいなかった。2月21日日没までに、イギリス艦隊後衛は、戦闘中衛からかなり隔たっていた。 マシューズは共に交戦するのを嫌がって、いまだ戦列組まないレストックに、艦をもっと動かすように信号送ったが、レストックの回答遅く、そのため仏西の連合艦隊ひそかに南の方へと離れて行ったマシューズは、この艦隊離れて行ってジブラルタル海峡通過してブレストフランス艦隊合流しイギリス本土への侵攻計画英語版)を実践するのを恐れていた。 自分仕事攻撃であることをわきまえていたマシューズは、味方信号送って旗艦であるナムール英語版交戦知らせスペイン軍後衛攻めるために、午前1時に戦列抜けたナムールにはジェームズ・コーンウォール艦長のマルバラが併航していた。その間戦列組めという信号翻ったままだった。この2つ異な信号同時に翻り、これが混乱招いてエドワード・ホーク始め多くイギリス軍指揮官マシューズ従ったイギリス軍の指揮官は数の上では非常にまさっていたものの、支援体制万全ではなく指揮官の間に不安があった。また、レストックのように、おそらくはマシューズ窮地にあるのを喜び助けようともしない指揮官もいた。(アルフレッド・セイヤー・マハンによれば、レストックは増帆して艦隊追ったが、交戦には参加しなかったといわれるナムールとマルバラは、敵陣艦隊辛勝したが、損失もまた大きかった午前5時、スペイン艦隊救援のためにフランス艦隊がやって来て一部イギリス人指揮官は、この状況を、フランスイギリス艦隊周囲回航して包囲する作戦であると受け取ったマシューズからは何の命令もなく、明確な指揮系統による指示もなかったため、イギリス戦列崩壊し北西方向へと散り始めたスペイン軍はなおも防戦体制でいたため、無防備なマルバラを見過ごし拿捕できなかったが、イギリス拿捕されていたポデルを取り返したフランススペイン連合艦隊その後再び南西への一斉射撃始めた23日になってイギリス艦隊再集結することができ、追跡再開した。再び敵軍追いついたイギリス軍は、破損した艦の牽引相手妨害されたが、ポデルをまたも手中に収めた。マシューズはそれを焼くように命じたイギリス軍は敵の艦隊まで数マイル(約3キロから5キロ)の所に迫って来ていたが、マシューズはまたも艦隊停戦信号送った。翌24日フランススペイン連合艦隊はほぼ視界から消えマシューズイエール戻ってミノルカ島のマホン港に艦隊進め3月始めにそこに上陸した

※この「トゥーロンの海戦」の解説は、「トマス・マシューズ」の解説の一部です。
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