作戦経過とは? わかりやすく解説

作戦経過

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塘沽協定」の記事における「作戦経過」の解説

熱河作戦発動され前においてもいくつかの衝突事件起きていた。日本軍錦州部隊側面攻撃しよう熱河省侵入した中国軍第十六旅及び第十九旅に対し日本軍1月8日爆撃行った。これについて日本陸軍国防立場から当然とし、出先軍部一任することを表明している。山海関北方13kmにある九門張学良軍隊補給熱河送り込んでいた場所であったため、1月10日早朝日本軍はこれを攻撃して占拠した開魯には張学良別働隊司令部置かれ通遼熱河軍と別働隊包囲され圧迫される至り日本軍1月15日にその司令部爆撃行ったが、この時開魯では同士打ちによる市街戦が行われている最中でもあり、死傷者数百名に及んだ空爆16日22日23日にも行われた1933年2月9日張学良熱河攻略決意し南京政府加わった多数正規軍熱河侵入させたため、満州国2月18日熱河討伐決定し張景恵総司令任命同日関東軍日満共同防衛立場から熱河征討声明発表した2月21日満州国政府は「張学良正規軍義勇軍満州国内の熱河省侵入して要地占拠住民からの略奪婦女子への暴行という不法行為繰り返して満州国治安混乱させ、国の独立性危うくしている」としてその不法行為詰問した同時に不逞分子」の24時間以内国外退去要求し、これに応じない場合には断固実力をもって掃蕩を行うとの最後通牒翌日発することも決定した。翌22日には日本政府南京政府に対して熱河省における反満抗日行為中止中国軍即時撤退要求し応じない場合には「自由行動」を取ることを宣言した作戦開始時点でも蔣介石中央軍北部移動せず、行動していたのはすべて中国北部将領たちで熱河省10万関内10万兵力有していると推定され一方日本軍ソ連1929年中ソ紛争行ったように飛行機支援により大きな抵抗受けないことを期待していた。日本軍の上層部は「満州国国境部分中国側一定距離までは中国軍掃蕩しなくてはならず、中国側飛行機使用するならその根拠地爆破して作戦根拠粉砕することは当然であり、張学良軍あるいは熱河敗残兵平津地方ある日本人居留民生命財産を脅かすなら現地利害関係配慮して現地保護必要がある」と説明している。 2月22日熱河省にあった中国義勇軍第四師団司令官の劉桂堂とその部下1万5千名満州国へ帰属申し出るとともに中国正規軍に対して作戦開始した。この動きに応じて熱河民衆湯玉麟政権打倒の軍を組織し他の地域でも中国側軍隊から湯玉麟打倒参加表明するものが続いた日満連合軍協力して熱河省進攻し、2月24日には熱河省北の都である開魯占拠3月4日には熱河省都承徳入城した同日関東軍司令官武藤信義は「長城ノ重要関門確保シテ北支方面ニ対シ戦備ヲ整ヘ」るよう指令した張学良蔣介石との会談の上3月12日敗北責任取って軍事委員北平分会代理委員長辞任し同時に蔣介石念願通り張学良指揮にあった東北軍解体され万福麟于学忠、何柱国、王以哲を軍長とする四個軍に改編され、中国北部対す中央の支配力確立端緒となった一方満州国軍総司令張景恵3月13日新京凱旋したその後関東軍熱河省での掃討戦において中国側繰り返す執拗な反撃対し3月18日長城線の各関門確保するため第6及び第8師団主力を向かわせた。

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作戦経過

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MA3作戦」の記事における「作戦経過」の解説

6月26日に「カレドン」、「ガーランド」、「ヴァンパイア」がアレクサンドリアから出撃し、「ケープタウン」、「ヌビアン」、「モホーク」と合流6月28日船団合流し船団7月2日3日アレクサンドリアポートサイド到着した。 第7巡洋艦戦隊6月27日アレクサンドリアから出撃し、K地点へと向かった6月28日、第7巡洋艦戦隊イタリア駆逐艦発見報告受けて攻撃向かいイタリア駆逐艦エスペロ」、「ゼフィーロ」、「オストロ」と交戦してエスペロ」を撃沈したエスペロ船団の戦い)。 これ以外に、この作戦一部として出撃した駆逐艦ヴォイジャー」、「デインティ」、「デコイ」、「ディフェンダー」、「アイレクス」がイタリア潜水艦「コンソーレ・ジェネラーレ・リウッツィ」と「ウエビ・セベリ」を沈めた

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南号作戦」の記事における「作戦経過」の解説

そこで1945年1月日本石油など最重要資源輸送目的限定して南方航路維持することを決め、そのために「特攻精神」による「特攻輸送」を行うこととした。1月20日、「南方ヨリノ帝国燃料資源還送作戦遂行」等を含む大綱が、大海令第37をもって発せられた。大本営陸軍部海軍部の間で「燃料竝ニ重要物資緊急還送作戦實施ニ關スル陸海軍中央協定」が締結され海軍担当部分関連して連合艦隊司令長官指揮の下で「南号作戦が行われることとなった。ただし、戦史叢書によれば南号作戦中央協定対象となる海軍行動全てを指すものかは明確でないこの中協定に基づき同日大本営海軍部は大海指第500号を発令連合艦隊司令部も「南方動脈輸送護衛強化作戦」(GF電令作第478号)を発令した。なお、「南号作戦」の作戦名は、同時期に行われた残存海軍艦艇による強行輸送である「北号作戦」に対応した名称となっている。 1月機動部隊襲来による被害タンカー不足する中、損傷船の修理などが急がれ南号作戦投入された。護衛戦力としては、海上護衛総司令部第一護衛艦隊主力などのほか、第五艦隊2月上旬より第十方面艦隊改編)、第四航空戦隊第一航空艦隊といった連合艦隊残存戦力好機捉えて投入し護衛哨戒強化充てるものとされた。支那方面艦隊第二遣支艦隊護衛艦艇約4隻)、海南警備府部隊護衛艦艇約2隻)、上海根拠地隊護衛艦艇約7隻)を海上護衛総司令部司令長官指揮下に入れた陸軍航空隊上空援護協力した戦術面ではヒ86船団ヒ87船団戦訓かんがみ従来大船主義転換空襲による被害限定するために輸送船数隻からなる小規模な船団原則とされ、可能な限り護衛艦艇が付された。例えばヒ88A船団は、タンカーせりあ丸三菱汽船:10238総トン)1隻のみと護衛駆逐艦海防艦駆潜艇のべ8隻から構成された。輸送船自体にも対空機銃爆雷などの自衛兵装多数搭載された。 また南号作戦支援として2月22日から3月12日まで中国東部沿岸における潜水艦撃滅目的とした掃討作戦である「AS1号作戦」、3月13日から17日まで中国沿岸から台湾までにおける潜水艦撃滅目的とした掃討作戦である「AS2号作戦」が実施され第百二戦隊軽巡洋艦鹿島」、海防艦屋代」・「御蔵」・第2号・第33号・第34号)と第九三一海軍航空隊九七式艦上攻撃機)が従事した3月までに、大内建二によれば11次に渡る船団として30隻のタンカー送り出されたが、その多く途中で撃沈された。もっとも、17000キロリットル航空用ガソリン輸送成功したせりあ丸のように無事に到着した例もあり、3月27日徳山港入港した光島丸まで6隻が任務達成した一方戦史叢書によれば1月20日3月16日の期間中航行した重要資源船団15隊、加入輸送船のべ45隻・護衛艦艇のべ50隻で、そのうち輸送船20隻と護衛艦4隻を失ったとしている。 3月中旬海上護衛総司令部は、沖縄への連合軍上陸迫り以後輸送成功見込み乏し一方満州華北との航路維持のために護衛戦力船舶温存配置転換必要なことから、南号作戦中止勧告した。これにもとづき同月16日大本営海軍部は大海指第511号を発し南号作戦中止命令した南方残っていた可動船舶寄せ集めたヒ88J船団輸送船7隻、護衛艦艇9隻)が、最後の一便として3月19日シンガポールから出航したが、サイゴン行き途中分離した3隻を除いて同月29日までに輸送船全滅海防艦3隻沈没という結果終わった

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第二次アキャブ作戦」の記事における「作戦経過」の解説

日本軍制空権こそ無かったものの、作戦開始早々に各地英印軍包囲勝利は確実と思われたが、英印側の行動全て予定されたものだった主戦線は、マユ川(英語版上流のKalapanzin River周辺広がる内陸部盆地、シンゼイワ(英語版)・Ngakyedauk 付近で、両軍膠着状態に陥った通称「アドミン・ボックス(管理箱。日本呼称円筒陣地もしくは立体陣地)」と呼ばれた密集陣を展開し包囲されたまま空輸による補給増援を受け頑強に抵抗するイギリス軍対し日本軍散発的な攻撃繰り返し損害累積花谷師団長桜井歩兵団長上層司令部もなんら有効な策を打ち出せぬまま隷下部隊指揮官たちに自決強要するといった苛烈督戦繰り返すのみで、やみくもに出血強いた

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インメイト作戦」の記事における「作戦経過」の解説

第111.2任務群は6月12日マヌス島から出撃した。トラックへの途上で、命令には巡洋艦部隊によるトラック日本軍陣地対す艦砲射撃追加された。この変更は、後の作戦巡洋艦沿岸部目標対す砲撃使用されることが予想されたからである。その準備のため、北への航海中に砲術訓練実施された。トラック攻撃先立ち墜落した航空機乗員救助のためアメリカ海軍潜水艦トラック付近に配置された。

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多号作戦」の記事における「作戦経過」の解説

太字艦船名作戦中の喪失を表す。

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ツェルベルス作戦」の記事における「作戦経過」の解説

1942年2月11日夜、オットー・チリアクス中将率いシャルンホルストグナイゼナウプリンツ・オイゲンおよび駆逐艦6隻は約20機のドイツ空軍戦闘機護衛を受けつつブレスト出港したイギリス海軍偵察機がこれを間もなく察知したものの、無線不使用通達守ったために、基地帰還するまで約2時間このことを伝えることができないまま時間無駄にすることになった12日10時42分、偵察機報告受けて基地飛び立ったイギリス空軍スピットファイアがようやく艦隊発見し、さらに高速魚雷艇5隻が攻撃試みるも失敗した12時45分、ユージン・エズモンド(英語版少佐率いソードフィッシュ6機が攻撃行ったが、護衛戦闘機艦船による対空砲火全滅し艦隊損害与えることはできなかった(搭乗員18人中エズモンド少佐13人が戦死)。 14時31分海峡通過したところでシャルンホルストイギリス海軍敷設した機雷触雷した。シャルンホルスト応急修理の後30分後に航行再開したドイツ艦隊海峡通過後からイギリス空軍爆撃機攻撃開始したが、損害与えられなかった。その後1955分にグナイゼナウ触雷2134分にはシャルンホルスト再度触雷するも3隻とも無事にドイツ本国にたどり着くことができた。 英仏海峡白昼堂々突破されたことで、ヒトラー思惑通りイギリス海軍には轟々たる非難の声が殺到し海軍真相隠蔽狂奔数少ない攻撃隊の生存者勲章ばらまいてお茶濁した。しかし、ドーバー海峡突破しノルウェー経由してキール到着したドイツ艦隊は狭い水域封じ込められた事になり、スカパフローイギリス海軍本国艦隊動き遮断され連合軍制海権を脅かすものではなかった。結局ドイツ海軍戦術的にかろうじて成功したが、戦略的に完敗した

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アレクサンドリア港攻撃」の記事における「作戦経過」の解説

1941年12月3日訓練装ってラ・スペツィアより出航したイタリア潜水艦シィーレは沖合で艀よりSLC3隻を移載し、6日後にエーゲ海レロス島着いた一方SLC要員空路レロス島向かい、そこで乗艦となったSLC要員別行動となったのは、潜水艦での長期航海が彼らに悪影響与えることが分かっていたからである。 SLC要員と各組の攻撃目標以下の通りであった。 SLC221:(ルイジ・デュラン・デ・ラ・ペンネ(イタリア語版英語版海軍大尉、エミリオ・ビアンキ二等潜水兵曹目標戦艦ヴァリアント」 SLC222:アントニオ・マルチェリア造船大尉、スパルタコ・スケルガート潜水一等兵曹目標は「クイーン・エリザベス」 SLC223:ヴィンチェンツォ・マルテロッタ兵技大尉、マリオ・マリーノ二等潜水兵曹目標空母(第2目標タンカー) 他に予備要員2名も乗艦した。12月14日、「シィーレ」は出撃アレクサンドリア向かった気象条件問題攻撃1日延期され12月18日決行となった12月18日日没後「シィーレ」は浮上しアレクサンドリア商港の沖で3隻のSLC発進したイギリス海軍では、クイーン・エリザベス級戦艦バーラム (HMS Barham) が前月25日にU-331に撃沈されたこともあり、その姉妹艦アレクサンドリア温存していた。SLCRas el Tin半島次いで防波堤沿って進み真夜中に軍港入り口防御材と防潜網着いた。この夜は帰投するイギリス巡洋艦ナイアド」、「ユーライアラス」および駆逐艦4隻のために0時24分に港の入口開かれていた。3隻の駆逐艦入港するのを見たペンネは、その機に他の2隻と共に港内への侵入果たしたペンネSLCは「ヴァリアント」のもとにたどり着き潜水した際に海底沈下してしまった。また、ビアンキ気絶したモーター起動失敗したペンネ40分かけて爆薬戦艦真下まで移動させた。その後浮上したペンネビアンキ共々捕らえられた。二人はまず陸上移され尋問されたが、氏名階級および識別番号のみしか答えなかった。その後二人は「ヴァリアント」に戻された。アンドルー・カニンガムによれば、彼は二人を「ヴァリアント」に戻し艦内下部閉じ込めるよう命じたという。捕虜危険な状況に置くことで情報入手しようしたものであった閉じ込められ二人であったが、何もしゃべらなかった。二人閉じ込められていた場所は偶然ではあるが爆薬設置場所近くであった。 マルチェリア組は「クイーン・エリザベス」への爆薬設置成功し4時30分に岸にたどり着いた空母はおらず、マルテロッタは3隻目の戦艦思しきものを発見して攻撃しようしたものの、その後それは巡洋艦であると判断ノルウェータンカー「サゴナ (Sagona)」(7,554 GRT) のもとにたどり着き呼吸装置の不具合潜水できなかったことから、その船尾爆薬取り付けた爆発予定時刻10前になってペンネ艦長への面会求め、もうすぐこの艦は沈むと述べたその後ペンネは元の監禁場所に戻された。5時45分、「サゴナ」の爆薬爆発続いて6時6分に「ヴァリアント」で、6時10分に「クイーン・エリザベス」で爆発起きたペンネ脱出でき、またビアンキ助かっている。 マルテロッタ組は上陸後エジプト警察逮捕された。マルチェリア組は列車ロゼッタ向かったロゼッタ沖では潜水艦「ザフィロ (Zaffiro)」が待機していた。二人ロゼッタで他の組を待っていたが、12月23日エジプト警察逮捕された。

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第一次ベララベラ海戦」の記事における「作戦経過」の解説

8月22日撤退作戦は、駆逐艦複数隻(浜風磯風時雨)で実施された。0130にラバウル出撃する午後3時頃、ブーゲンビル島北方航行中にB-24重爆触接される。夜になりチョイセル島北方海面航行中偵察機より「敵巡洋艦4隻、駆逐艦数隻レカタ湾口にあり」の報告受けた敵艦隊に北上気配があったことや、天候不良もあり、宮崎司令輸送作戦中止決断した輸送部隊ラバウル帰投した。 輸送作戦中止をうけて、外南洋部隊指揮官鮫島具重海軍中将第八艦隊司令長官ブーゲンビル島ブイン所在)は増援部隊第三水雷戦隊全力による輸送命じた8月25日0200、増援部隊第三水雷戦隊)はラバウル出撃する。1730、ブーゲンビル海峡北口陽動隊(川内、漣)と輸送隊浜風磯風時雨)および松風分離し陽動隊はショートランド島南方機宜行動した分離した松風ブインラバウル間の輸送従事した。この時、先のベラ湾夜戦遭難した第4駆逐隊司令杉浦嘉十大佐沈没艦萩風、嵐、江風生存者収容している。 輸送部隊ブーゲンビル島北側南下しサンタイサベル島むかった8月26日0045、輸送隊はレカタ基地到着した揚陸中に夜間空襲をうけ、時雨至近弾を受けた陸戦隊員収容して後、0145に泊地出発する輸送隊ブイン帰投予定だったが、連合軍機の活動状況からブイン入港とりやめる帰路ブーゲンビル島沖合輸送部隊をB-24重爆9機の襲撃を受ける。浜風至近弾により損傷機関部浸水被害があり、便乗中の呉第七特別陸戦隊司令含めて戦死傷者出した陽動隊は26日1200輸送部隊27日0515、それぞれラバウル帰投した。時雨座乗第27駆逐隊司令原為一大佐は「まったくらく仕事ではない」と回想している。 輸送隊運んだ人員は、今度川内と漣でラバウルからブイン移動つづいてチョイスル島スンビ守備隊となった本作戦で損傷した浜風内地帰投する。磯風時雨その後第三水雷戦隊司令官指揮下にあり、ソロモン諸島での作戦従事した

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MC4作戦」の記事における「作戦経過」の解説

1941年昭和16年1月6日、MC4船団ジブラルタル出発した陽動大西洋出たあと、反転して地中海東進しマルタへむかう。イタリア王立海軍アデュア級潜水艦2隻(アダラム(英語版イタリア語版)、アスクム(英語版イタリア語版))が攻撃向かったが、連合軍船団発見できなかったという。 1月7日カニンガム提督指揮する地中海艦隊A部隊”(ウォースパイトヴァリアントイラストリアス随伴駆逐艦)はエジプトアレキサンドリア出撃した。A部隊は、マルタ島に向かうMW5船団護衛する1月9日マルタ西方地中海艦隊H部隊および輸送船団合流するアーク・ロイヤルによるソードフィッシュ艦上攻撃機マルタ空輸完了H部隊西進しジブラルタル戻っていった。MC4船団の上空直衛は、イラストリアス艦上戦闘機フルマー (Fairey Fulmar) 担当していた。 1月10日朝、シチリア海峡イタリア王立海軍潜水艦ルジェーロ・セッティモ (Ruggiero Settimo) と水雷艇2隻(キルケ―、ヴェガ)がエクセス船団攻撃した。だがH部隊反撃により、イタリア水雷艇ヴェガ (Vega) が英軽巡洋艦ボナヴェンチャー (HMS Bonaventure, 31) と英駆逐艦ヘレワード (HMS Hereward, H93) によって沈められた。 イタリア水雷艇攻撃撃退したあとの午前8時34分、パンテッレリーア島付近で英駆逐艦ギャラント (HMS Gallant, H59) が触雷して航行不能となる。僚艦モホーク (HMS Mohawk, F31) が曳航開始マルタにむかう。軽巡3隻(サザンプトングロスターボナヴェンチャー)が掩護のために輸送船団から離れイギリス側防空能力低下した正午以降シチリア島から飛来し枢軸国空軍機が英地中海艦隊対す空襲開始した12時20分より、イタリア王空軍サヴォイア・マルケッティ SM.79魚雷装備小数機が攻撃敢行する戦艦ヴァリアント (HMS Valiant) は辛うじて魚雷回避した直掩フルマー5機はイタリア雷撃隊を迎撃するため高度を下げ、また空中戦機銃弾を消耗するイラストリアスでは、フルマー6機の発艦準備にはいった。 12時30分、ドイツ空軍第1急降下爆撃航空団英語版第1飛行隊と第2急降下爆撃航空団英語版第2飛行隊スツーカ 合計43機が英地中海艦隊捕捉し10機が英戦艦に、33機がイラストリアス攻撃するイラストリアスの直衛機は補給のため母艦着艦しようと低空位置し、また直衛機の緊急発進も間に合わず、高度4,000メートル飛来しドイツ空軍機を阻止できなかった。イラストリアス爆弾6発が命中し至近弾は3発であったという。ウォースパイトには爆弾1発が命中した右舷艦首の錨だったので損害軽微ヴァリアント至近弾を受けたイラストリアス大きな損傷をうけて炎上操舵装置破壊されたが機関は無事であり、退避開始する枢軸空軍第三次攻撃第四次攻撃は機数が減っていたこともあり、イギリス地中海艦隊深刻な被害はなかった。同日夜、イラストリアスマルタ到着した1月11日朝、第3巡洋艦隊司令官のレヌフ少将 (Edward de F. Renouf) は麾下艦艇軽巡グロスター旗艦〉、サウサンプトン駆逐艦ディフェンダーダイヤモンド)を率いてマルタバレッタ港を出発東進して地中海艦隊との合流目指した。シチリア島基地とするスツーカ部隊行動圏外に出たイギリス側思っていたが、第2急降下爆撃航空団スツーカ12機はHe-111 (Heinkel He 111) 爆撃機誘導されB部隊捕捉奇襲をかける。急降下爆撃軽巡サウサンプトン (HMS Southampton, C83) が大破したあと失われ軽巡グロスター (HMS Gloucester, C62) が艦橋への不発弾小破した。 ヘルマン・ゲーリング空軍元帥は、修理中のイラストリアスを葬ろうと尽力した1月16日メッサーシュミット護衛されJu-87スツーカ44機がマルタ島空襲する。イラストリアス爆弾命中した。他にもグランド・ハーバー在泊の輸送船エセックス軽巡パース (HMAS Perth, D29) が被弾して損傷した18日スツーカ 51機がマルタの二カ所の飛行場爆撃し使用不能とする。19日スツーカ 42機は本命イラストリアス襲撃するハリケーン戦闘機迎撃もあり、至近弾2発で済んだスクリュー損傷をうける。23日夕刻護衛部隊や出迎えにきた地中海艦隊と共にマルタ離れ25日アレクサンドリアに戻ることが出来たマルタ到着積荷下ろした空の船団はME5 1/2船団としてアレクサンドリア戻った前述のように、曳航されてマルタ島到着した駆逐艦ギャラント (HMS Gallant, H59) であったが、バレッタ修理中の1942年昭和17年4月5日空襲を受け、修理不能判定され放棄された。

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MC2作戦とMC3作戦」の記事における「作戦経過」の解説

1940年12月15日16日アレクサンドリアポートサイドから、マルタへ向かうMW5A船団とMW5B船団出発した。MW5B船団にはクレタ島およびギリシャへの人員輸送を行うUlster Prince同行しており、クレタ島南西沖で船団別れた。両船団12月20日マルタ到着したA部隊B部隊12月16日アレクサンドリアから出撃した。ただし、エーゲ海活動中であった第3巡洋艦戦隊オライオンシドニーエイジャックス)は後日合流した12月17日イラストリアス搭載機スタンパリア島ロドス島攻撃した12月19日ウォースパイトヴァリアントがヴァロナを砲撃したまた、オライオンシドニーエイジャックス駆逐艦3隻がオトラント海峡敵船舶を探索したが何も発見できなかった。 12月20日エジプトへ向かうME5A船団マルタから出発12月21日イラストリアス搭載機チュニジア沖でイタリア船団攻撃し2隻を沈めたまた、12月22日にはトリポリ攻撃した。A、B両部隊は12月23日24日帰投し、ME5A船団12月23日アレクサンドリア到着した戦艦マレーヤは、マルタへの船団護衛そのままMG1船団クラン・フレーザーClan Forbesとともにジブラルタル向かった。その途中護衛駆逐艦の1隻ハイペリオン触雷またはイタリア潜水艦雷撃損傷し処分された。MG1船団マレーヤは、ジブラルタルから出撃ハイド作戦)してきたH部隊12月22日合流した

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作戦経過

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レバー作戦」の記事における「作戦経過」の解説

1940年7月5日20時にH部隊ジブラルタルから出撃した。作戦参加したのは次の艦艇であった戦艦ヴァリアント 巡洋戦艦フッド 航空母艦アーク・ロイヤル 軽巡洋艦アリシューザエンタープライズ 駆逐艦10航空母艦アーク・ロイヤル戦艦ヴァリアント巡洋戦艦フッド軽巡洋艦アリシューザ軽巡洋艦「エンタープライズ」 艦上雷撃機フェアリー・ソードフィッシュ 艦上攻撃機ブラックバーン・スクア 7月6日5時20分に第1次攻撃隊(ソードフィッシュ6機)が、5時45分第2次攻撃隊(ソードフィッシュ3機、スクア6機)が、そして6時20分に第3次攻撃隊(ソードフィッシュ3機、スクア6機)が発進しダンケルク攻撃おこなったH部隊7月6日18時30分ジブラルタル帰投した。

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作戦経過

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ABDA司令部」の記事における「作戦経過」の解説

ABDA司令部基本戦略は、マレー半島シンガポール)を中心としてスマトラ島からジャワ島オランダ領東インド最南端)に連なる防衛線「マレー防壁Malay Barrier もしくは East Indies Barrier 」を保持しようとするものであったABDA司令部正式発足前の1942年1月3日段階では、アルカディア会談により総司令官内定したウェーヴェル大将に対して、重要地点を保持するのみならずなるべく早く攻勢に出るよう指示与えられていた。シンガポールにはイギリス極東軍司令部(ポーナム将軍)が存在しこのままではABDA司令部二重構造になるため、ウェーベル将軍シンガポール飛んで打ち合わせをおこなう。最初にダフ・クーパーと会談し続いてマラヤ司令部英語版)のパーシバル陸軍中将と共にシンガポール防衛施設状況視察、その無為無策状況慄然とする。ABDA司令部は英極東軍司令部吸収するとなった総司令官ヴェーヴェル大将、副総司令官ブレッド中将参謀長ポーナル中将)。1月10日ジャワ島バタヴィア到着中部ジャワ州レンバンにおいて司令部開設した。ABDA陸軍部隊のポールテン将軍レンバン司令部置いたこの間にもシンガポール追い詰められつつあり、マレー半島配備連合国航空部隊蘭印方面移動始めていた。またシンガポール拠点にしていたイギリス東洋艦隊レイトン提督)は、護送部隊司令部ジャワ島西部バタヴィア置いた悪化する戦況にも拘らずABDA司令部最高指揮官たちはシンガポール防衛可能と判断し、非常に楽観的だったという。なお1月中の連合国艦艇船団護衛任務主任務で、日本軍輸送船団迎撃成功したのはバリクパパン沖海戦のみであった連合国海軍部隊最高司令官任命されアメリカ人ハート提督米国アジア艦隊長官)は、潜水艦フィリピンからジャワ島脱出していた。ハート提督海軍部隊副司令官にパリサー少将当時バタビア駐在英国海軍先任武官)を任命したので、オーストラリア海軍軍人コリンズ提督がパリサー本来の任務をひきついだ。シンガポール増援輸送完了すると、多国籍艦艇再編成してABDA攻撃部隊発足しオランダ海軍将校カレル・ドールマン提督海上指揮官任命された。 「ジャワ沖海戦」も参照 この時期日本軍東南アジア方面制空権掌握し、ABDA部隊動向掴んでいた。山口多聞少将第二航空戦隊蒼龍飛龍)に支援され日本軍モルッカ諸島アンボン島駐留する王立オランダ領東インド陸軍攻撃し占領した勢いに乗る日本軍スラウェシ島ケンダリ占領し二航戦東ジャワ州の主要港スラバヤ、タンジョンプリオク)を空襲オランダ領東インド空軍大打撃与えた対峙するABDA部隊の方は制空権失ったので、多方向からジャワ島目指す日本軍の作戦全貌わからず振り回されることも多かったボルネオ島東部バリクパパン方面日本軍攻撃するため、バリクパパン沖海戦再現狙ってABDA部隊軽巡デ・ロイテル重巡ヒューストン軽巡マーブルへッド、駆逐艦部隊)が出撃したが、ジャワ海日本海軍基地航空部隊九六陸攻一式陸攻)に攻撃されマーブルヘッド (USS Marblehead, CL-12) が大破した2月15日極東防衛大英帝国要石だったシンガポール陥落した同日スマトラ島パレンバン空挺部隊投入した日本軍バリクパパン攻防戦)に対処するためABDA攻撃部隊(ABDA艦隊)は多国籍艦隊率いて出撃日本軍西部攻略部隊馬来部隊)の攻撃むかった。だがガスパル海峡日本海軍基地航空部隊軽空母龍驤第四航空戦隊角田覚治少将)の空襲撃退された。 ABDA艦隊敗退した頃、ウェーヴェル総司令官チャーチル英首相に「制空権がない現状ではジャワ島防衛難しい。」と報告したハート大将はアメリカ帰国しオランダ海軍コンラッド・ヘルフリッヒ中将後任連合国海軍部隊司令官になったアメリカ海軍先任将校はグラスフォード少将になる。日本軍バリ島上陸中との情報によりガスパル海峡から敗退してきたABDA部隊急遽出動したが、バリ島沖海戦撃退された。 日本軍は、連合国軍オーストラリアジャワ島航空機輸送において中継地点だったティモール島攻略し占領し続いてオーストラリア直接攻撃する。2月19日南雲機動部隊北部豪州ダーウィン空襲した。ジャワ海方面南雲機動部隊活動開始したため、連合国オーストラリアからバンダ海フローレス海経由して蘭印増援部隊を送ることが難しくなった。この頃になると、燃料不足弾薬不足も深刻な問題になっていた。 同年2月21日ABDA司令部ビルマ担当インド駐留軍譲った。この日、ウェーヴェル総司令官は「ABDA地域防衛崩壊し、もはや役に立たないABDA司令部廃止すべきである。」とチャーチル英首相進言した。連合参謀本部これ以上戦力消耗無意味であると判断し1942年2月25日ABDA司令部正式に解散した総司令官であったウェーヴェル大将蘭印去って元のインド駐留軍司令官復帰する。そしてインド転任しビルマの戦い指揮することになった同様に、ABDA部隊構成していた各国陸軍空軍ビルマオーストラリア撤退するオランダ領東インド周辺指揮は、オランダ軍委ねられた。ヨーロッパ本国は既にドイツ敗北して占領されており、いまやオランダ亡命政府英語版オランダ語版)に残された主要領土はオランダ領東インドになっていたからである。 「スラバヤ沖海戦」も参照 オランダ人決意は固かったが日本軍戦力圧倒的で、ジャワ島東部西部同時上陸敢行するため、二つの大輸送船団編成して南下しつつあった。西部ジャワ攻略を狙うのが第16軍主力軍司令官今村均陸軍中将第2師団)、東部ジャワ攻略部隊第16軍隷下の第48師団である。さらに日本海軍重巡部隊南雲機動部隊ジャワ島南方インド洋進出し連合国増援部隊対す警戒と、脱出艦艇阻止を図る。ヘルフリッヒ司令官命令によりP-40戦闘機満載してチラチャップにむかっていた水上機母艦ラングレー (USS Langley, AV-3) も、一式陸攻部隊高雄海軍航空隊)に撃沈されて積荷戦闘機は海没した蘭印防衛最後尽力スラバヤ沖海戦打ち砕かれオランダ海軍主力艦艇とドールマン提督失った。ABDA海軍部隊司令官(ヘルフリッヒ中将)は多国籍軍部下達から「ジャワを救う望みはなく、各艦はそれぞれの祖国から引き揚げ命令受けている。」と伝えられる。ヘルフリッヒ司令官は「ABDA艦隊残余艦艇抵抗続けるべきだ」と要求したが、イギリス将校達の反発により、脱出認めた3月1日、ヘルフリッヒ中将ジャワ島南部チラチャップ所在艦船脱出するよう命じたが、日本海軍掃討作戦撃滅される部隊艦艇少なからず存在したジャワ島東西上陸した日本陸軍順調に進撃をつづけ、3月9日全島占領するジャワ島攻防戦)。ABDA陸軍部隊総司令官だったポールテン将軍降伏したジャワ島方面以外でも、日本軍スマトラ島アンダマン諸島占領クリスマス島占領など、順調に占領地域を広げていった(日本占領時期のインドネシア)。 連合国ABDA司令部代わりになるものを創設せねばならなかった。南西太平洋戦域フィリピン蘭印ボルネオ島ニューギニア島ビスマルク諸島ソロモン諸島西部)は南西太平洋方面軍担当になり、フィリピンコレヒドール要塞から脱出したアメリカ極東陸軍ダグラス・マッカーサー将軍が、南西方面太平洋方面軍最高指揮官となったニミッツ提督太平洋艦隊司令長官)は太平洋地域総司令官任命される。これは北太平洋中部太平洋および東太平洋諸島一部アメリカ海軍の、南西太平洋地域マッカーサー将軍作戦担当になったことを意味した。なお珊瑚海方面 (ANZAC Area) を担当するため1942年2月上旬新編されたANZAC部隊司令官ハーバート・F・リーリィ中将ANZAC戦隊司令官はクレース少将)も、南西太平洋方面軍吸収されている。

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作戦経過

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襄東会戦」の記事における「作戦経過」の解説

5月1日東方面第3師団予定通り中国第31集団軍に対して牽制攻撃開始した当初中国軍抵抗微弱だったが、第31集団軍主力前進してくると激し抵抗となった一方、南から進撃予定日本軍主力第13師団第16師団等)方面では中国軍退却兆候見られたため、予定早めて5月5日から前進開始中国軍陣地突破して一挙に北進した。 5月6日日本第11軍司令部は、東方面南方面中国軍両翼拠点崩壊した判断し中国軍中核兵団である第31集団軍棗陽北東山地包囲するよう命令した第3師団高城付近の主陣地撃破し転進しようとした時、第31集団軍増加反撃受けたがこれを撃退して前進した師団鈴木支隊歩兵1コ大隊半)は、5月10日桐柏占領した主力第16師団騎兵団は、中国軍漢水西岸脱出するのを抑えながら漢水東岸沿って北上急進し、滾河(漢水支流)の線まで進出。滾河渡河後は、中国軍北方退路遮断する形で北東方面旋回した第16師団の左追撃隊(酒井支隊)は、5月9日夜、湖家鎮(棗陽北方)で9個師からなる中国軍部隊追いついて潰乱させた。騎兵団は第16師団後方前進したのち、滾河・唐河白河渡河して5月10日新野占領した。翌5月11日騎兵団は韓庄付近北上中の中国軍集団部隊補足して、これに大打撃与えた。(韓庄の戦い一方第3師団正面では中国軍第4師が投入されたことで頑強な抵抗を受け、5月9日においても第31集団軍広西軍主力(第84軍)は、依然として唐県以北山地内に存在する判断された。このため5月10日日本軍包囲圏を圧縮して中国軍山地内で捕捉することを企図した。5月11日第3師団は合河付近第31集団軍の3~4個師を撃破追撃し翌日新集に到達した。軍主力(第13第16師団騎兵団)も山地周辺中国軍撃破した5月12日第11軍司令部中央直系軍(第31集団軍等)をおおむね壊滅させ作戦目的達成した判断し部隊反転させ大洪山東方地区残敵掃討命令した5月13日から14日にかけ、各部隊反転行動移り各地中国軍掃討した。5月15日第13師団は長崗店付近の山一帯陣地占領している3~4個師に対して包囲攻撃計画した師団5月20日に長崗店付近掃討したが、中国軍広大な山地分散して退却したため予期したほどの戦果は上がらなかった。 襄東会戦目的達成伴って5月下旬までに日本軍は元の占領地警備態勢移行した日本軍は、この会戦で約30個師前後中国軍交戦し、約20個師に大打撃与えたものと判断した中国軍一時的に漢水以東地区放棄した作戦戦果遺棄死体15,000捕虜約1,600名、鹵獲火砲15門、機関銃約140丁で、日本軍の損害戦死650名、負傷1,800名だった。

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作戦経過

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戊号輸送」の記事における「作戦経過」の解説

一号輸送部隊大和谷風山雲)は1943年12月20日横須賀から出発12月25日未明トラック泊地西方北緯10度05東経15032分 / 北緯10.083度 東経150.533度 / 10.083; 150.533)地点で、アメリカ潜水艦スケート (USS Skate, SS-305) が大和部隊発見雷撃をおこなう。大和右舷後方三番主砲付近)に魚雷1本が命中4度傾斜したので770トン注水復元する大和26ノット増速したが、特に異常はなかった。戦死者大和乗組員陸軍将兵ともに皆無で、乗組員達は被雷したことに気付かなかったという。同日トラック到着する大和熊野鈴谷大淀能代接舷し、兵員車輌物資の移載が行なわれた。大和護衛してきた山雲満潮は、そのまま二号輸送部隊と戊三号輸送部隊護衛部隊に編入される大和工作艦明石世話になって応急修理実施戊号輸送終了後内地帰投した アメリカ軍の方では、シャーマン少将の第37.2任務群(大型空母バンカー・ヒル軽空母モンテレーフレッチャー級駆逐艦6隻)がエスピリトゥサント島出撃し、12月25日カビエン空襲した。奇襲には成功した戦果乏しく日本軍輸送船天竜丸が沈没輸送船清澄丸および第21号掃海艇第22号掃海艇などが損傷したシャーマン部隊は「日本軍巡洋艦部隊カビエン接近中」という情報により、反覆攻撃をおこなう。ただし護衛部隊が駆逐艦6隻だけだったので、ノースカロライナ級戦艦2隻(ワシントンノースカロライナ)と駆逐艦4隻(ラングバーンズイザードウィルソン)が追加された。ウィリス・A・リー少将指揮する6隻は25日にエスピリサント島を出発31日空母2隻や補給艦合流するシャーマン部隊誰もが自分たちが日本軍勢力圏踏み込み過ぎていると感じ不安になっていたという。リー少将将兵たちは「我々はイギリス戦艦プリンス・オブ・ウェールズ (HMS Prince of Wales) 、巡洋戦艦レパルス (HMS Repulse) と同じ立場だった。マレー沖海戦戦艦2隻と駆逐艦4隻だった。」と回想している。 戊三号輸送部隊第一部隊第二部隊二つ分かれていた。第一部隊熊野鈴谷谷風満潮)は12月26日午後にトラックから出発した前日カビエン空襲があったことから一時延期命じられ引き返し28日もどった第一部隊12月29日再度出発し12月31日カビエン到着揚陸完了後、1944年1月1日トラック戻った第二部隊能代大淀秋月山雲)は12月末にトラックから出発1944年1月1日カビエン到着揚陸実施する作業完了直後シャーマン少将空母機動部隊バンカー・ヒルモンテレー)から飛来し艦上機襲撃された。二航戦派遣隊を含む零戦米軍攻撃隊を邀撃し、洋上対空戦闘では能代山雲小破大淀軽微な被害生じ秋月無傷だった。4隻はトラック泊地引き揚げる先行してトラック戻った能代山雲のうち、能代工作艦明石世話になり、応急修理実施したその頃カビエンからトラック泊地むかっていた特設巡洋艦清澄丸と護衛部隊(夕凪第22号掃海艇)は、アメリカ潜水艦バラオ (USS Balao, SS-285) に襲撃された。清澄丸が被雷して航行不能になる。帰投中の第二部隊より大淀秋月分離しトラック泊地から来た救難部隊軽巡那珂駆逐艦谷風)に協力した清澄丸は那珂第十四戦隊伊藤賢三少将)に曳航されて、1月8日トラック泊地帰投した。明石側は内地帰投薦めたが、清澄丸側は明石による本格的な修理希望して、しばらくトラック泊地に残ることになったという。 戊二号輸送部隊妙高羽黒利根藤波白露)は12月24日内海西部から出発する時雨二水戦、第27駆逐隊)が漁船衝突したため、藤波二水戦、第32駆逐隊)が代艦として護衛部隊に加わっており、12月29日トラック着。1944年1月2日発、1月4日カビエン到着利根艦長黛治夫大佐)では迅速に揚陸するため三八式歩兵銃纏めて梱包したため、陸軍側は抵抗感をもったという。米軍攻撃接近報告をうけて急速揚陸行いトラック泊地戻った。 この日、シャーマン部隊バンカー・ヒルモンテレー)から艦上機飛来しカビエン攻撃する。戊二号輸送部隊スコール逃げ込んだので発見されず、米軍攻撃隊はカビエン周辺艦艇攻撃した対潜警戒のためカビエン揚陸作業掩護していた第22駆逐隊第三水雷戦隊)の駆逐艦2隻(皐月文月)が、カビエンからラバウルに戻る途中で空襲遭遇した文月機銃掃射死傷者多数出し皐月至近弾や機銃掃射かなりの被害をうけ、飯野忠男艦長戦死など人的被害甚大であった空襲実施したシャーマン部隊も、日本軍索敵機に幾度か発見されていた。シャーマン部隊反撃怖れ退避し1月7日にエスピリサント島に戻ったシャーマン部隊から戊三号輸送部隊守り抜いたカビエン基地だが、消耗激しかった。戊三号輸送部隊参加した各艦のうち、大和駆逐艦3隻(朝雲満潮藤波)は呉に帰投した。大和23ノットという巡航速力内地むかった途中でアメリカ潜水艦ハリバット (USS Halibut, SS-232) が大和を狙うが、追いつけなかった。戊二号輸送部隊身代わりになった22駆逐隊のうち、文月トラック泊地明石により応急修理をうけたあと、ラバウル進出して最前線任務従事した皐月機関部損傷及んだため本格的修理が必要となり、応急修理おこなったあと、佐世保帰投した。 1月下旬独立混成第一連隊第二大隊大隊長岩上泰一少佐、約750名)は第4駆逐隊司令磯久研磨大佐山雲野分舞風)などによる鼠輸送によってアドミラルティ諸島マヌス島のロレンガウ)へ送られマヌス島ロスネグロス島守備隊増強したその後1944年2月下旬マッカーサー軍(第5騎兵師団第7艦隊)が実施した上陸作戦により、同諸島日本軍守備隊全滅している。トラック泊地も、2月17日アメリカ海軍機動部隊襲撃大打撃をうけた。この空襲にはバンカー・ヒル第58任務部隊として参加し香取船団軽巡香取駆逐艦舞風野分特設巡洋艦赤城丸)を攻撃している。他にも軽巡那珂撃沈したカビエン空襲生き延びた特設巡洋艦清澄丸と、駆逐艦文月沈没した。それと前後してギルバート諸島マーシャル諸島失陥した。

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作戦経過

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ミレット作戦」の記事における「作戦経過」の解説

10月15日トリンコマリーより出撃10月17日、カーニコバル島およびナンコーリ島を空襲港内石狩丸830トン)を沈めたイギリス側コルセア2機とバラクーダ1機を失った。またヘルキャット1機が着艦時に墜落した続いて第63.2任務群がカーニコバル島を砲撃夜間にもロンドン駆逐艦2隻が砲撃行った10月18日レナウンサフォーク駆逐艦3隻が艦砲射撃実施10月19日、ナンコーリ島を空襲イギリス側バラクーダ1機を失ったまた、バラクーダ1機が海上墜落している。同日スマトラ日本軍第九飛行師団イギリス艦隊攻撃試み一式戦闘機9機がイギリス戦闘機交戦日本側は4機喪失、2機不時着イギリス側コルセア2機とヘルキャット1機を失ったトリンコマリーへの帰路駆逐艦1隻が触雷した。

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