多号作戦
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多号作戦(たごうさくせん)は、大東亜戦争末期のフィリピンの戦いで[1]、日本陸軍と日本海軍が協同で実施したレイテ増援輸送作戦のこと[2][3]。 主な揚陸地の名をとりオルモック輸送作戦とも呼ばれる。 1944年(昭和19年)10月末から12月上旬まで、レイテ島地上戦にともなうレイテ島西岸オルモックへの増援部隊輸送を第1次(当初は鈴二号作戦と呼称)から第9次作戦まで繰り返された[4][5]。第10次作戦も予定していたが、12月15日の連合軍ミンドロ島上陸にともなうミンドロ島地上戦の生起により、多号作戦は中止された[1][5]。
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多号作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 16:24 UTC 版)
奄美大島停泊中の10月27日付で、第41駆逐隊(霜月、冬月)と第61駆逐隊(若月、涼月)は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)に編入されていた。これはレイテ島増援輸送作戦(多号作戦)にともなう措置である。11月4日、霜月は多号作戦支援部隊に編入された。第三十一戦隊は軽巡洋艦「五十鈴」(司令官江戸兵太郎少将座乗)と、霜月以下の駆逐艦部隊をもって、南方に進出する第四航空戦隊(司令官松田千秋少将)の航空戦艦2隻(日向、伊勢)を護衛することとなった。だが出撃直前に姉妹艦涼月の修理艦首部分で漏水事故が発生した。涼月は霜月に同行できなくなった。 11月8日、第四航空戦隊(日向、伊勢)、霜月以下の護衛部隊は内地を出発した。単艦で内地へ向かう護国丸とすれちがいつつ南下。11月11日から12日にかけて、馬公市に寄港。同時期、マニラが大規模空襲を受けていたため、第四航空戦隊部隊は新南諸島に移動して待機した。14日、第三十一戦隊はマニラに向かった。 霜月航海中の11月15日、第十戦隊と第61駆逐隊は解隊される。61駆所属の2隻(若月、涼月)が第41駆逐隊に編入され、第41駆逐隊は第二水雷戦隊に編入された。翌日、霜月以下各艦は南西方面部隊の指揮下に入る。 11月17日、H部隊(日向、伊勢、霜月、梅、桐)は南沙諸島長島に到着して、ブルネイ湾からやってきた大淀、妙高型重巡(足柄、羽黒)、戦艦榛名、マニラから脱出してきた第一水雷戦隊などの艦艇と合流した。11月19日、戦艦と共に長島を出港し、11月22日リンガ泊地に到着する。到着直前に浮上潜水艦発見の報告があり、朝霜と霜月が掃蕩を実施している。リンガ泊地到着時の支援部隊兵力は、足柄(第五艦隊旗艦)、戦艦3隻(日向、伊勢、榛名)、巡洋艦2隻(羽黒、大淀)、駆逐艦複数隻(霞、潮、朝霜、初霜、霜月、先着の岸波と修理中の清霜)であった。 11月20日、島風型駆逐艦島風沈没時に戦死した第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将の後任として、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将が第二水雷戦隊司令官に異動する。また第三十一戦隊は第五艦隊に編入された。 この間、マニラ方面で行動していた第三十一戦隊旗艦の五十鈴がアメリカ潜水艦ヘイクの雷撃で損傷し、昭南、次いでスラバヤに下がって修理が行われる事となった。11月22日、損傷した五十鈴と、護衛の駆逐艦桃がシンガポールに到着する。同日付で霜月は多号作戦第二警戒部隊に編入、第三十一戦隊の指揮下に入り、シンガポールに回航することになった。第三十一戦隊司令部は霜月に移乗し、本艦が第三十一戦隊旗艦となった。 11月24日午後1時20分、駆逐艦2隻(霜月、桃)は昭南を出撃し、ボルネオ島ブルネイ湾に向かった。11月25日午前4時45分に.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯02度28分 東経107度20分 / 北緯2.467度 東経107.333度 / 2.467; 107.333地点もしくは北緯02度28分 東経109度30分 / 北緯2.467度 東経109.500度 / 2.467; 109.500地点に差し掛かったところで、アメリカ潜水艦カヴァラの攻撃を受ける。カヴァラは目標を那智型重巡洋艦と判断し、浮上攻撃で魚雷を4本発射。2本が霜月の左舷に命中し、霜月は沈没した。乗員のうち46名は桃に救助されたものの、他は第41駆逐隊司令脇田大佐、霜月駆逐艦長畑野健二中佐以下全員戦死した。救助された霜月乗組員も、32名が海軍陸戦隊としてフィリピン地上戦に投入されたとの記録が残る。なお、霜月に将旗を掲げていた江戸少将は戦死、第三十一戦隊司令部も全滅した。 1945年(昭和20年)1月10日、秋月型2隻(若月、霜月)は帝国駆逐艦籍、秋月型駆逐艦、第41駆逐隊のそれぞれから除籍された。
※この「多号作戦」の解説は、「霜月 (駆逐艦)」の解説の一部です。
「多号作戦」を含む「霜月 (駆逐艦)」の記事については、「霜月 (駆逐艦)」の概要を参照ください。
多号作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 09:43 UTC 版)
詳細は「多号作戦」を参照 フィリピンにおける日本海軍最高責任者の南西方面艦隊司令長官三川軍一中将は、レイテ島に対する増援輸送作戦を多号作戦と呼称した(10月29日、NSB電令作第30号)。連合艦隊は、すでに10月27日に第31駆逐隊(岸波、沖波、朝霜、長波)を、28日に第二水雷戦隊(島風、第2駆逐隊〈秋霜、清霜〉、第31駆逐隊〈前日編入済み〉、第32駆逐隊〈浜波〉)を、第一遊撃部隊(栗田艦隊)から第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将、第五艦隊司令長官)に編入していた。機動部隊主隊からは、秋月型駆逐艦4隻(第61駆逐隊〈若月、涼月〉、第41駆逐隊〈霜月、冬月〉)を第二遊撃部隊に編入した。秋月型4隻のうち、涼月と冬月は損傷修理がまにあわず内地で待機(後日、空母隼鷹の第二次比島輸送を護衛)、若月と霜月がフィリピンに進出した。11月1日、南西方面艦隊司令長官は三川中将から大川内傳七中将に交代した。大川内中将は、多号作戦の第三次から第七次までの実施計画を発令した。第三次輸送部隊と第四次輸送部隊は11月6日マニラ出撃の予定だった。 11月5日、マニラとクラーク地区は米軍機動部隊艦載機の空襲をうける。マニラ湾で重巡洋艦那智(第五艦隊旗艦、志摩長官以下司令部は陸上所在で無事)が沈没、多号作戦従事中の駆逐艦2隻(曙、沖波)が損傷した。空襲のため船団の出撃は遅延した。翌7日、空襲はなかったが第14方面軍(司令官山下奉文陸軍大将)が大本営に「レイテ輸送作戦中止」を意見具申したため、船団は出撃しなかった。連合艦隊(司令長官豊田副武大将、参謀長草鹿龍之介中将、参謀副長高田利種少将、首席参謀神重徳大佐)は南西方面艦隊に対し「十一日を期し、第一遊撃部隊(指揮官栗田健男第二艦隊司令長官、旗艦「大和」)のレイテ突入と共に、第三次、第四次増援を強行するように」と通知した。 11月8日朝、「若月」は多号作戦第四次輸送部隊を護衛してマニラを出撃。第四次輸送作戦部隊は、マニラ空襲の影響で第三次輸送作戦部隊(指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官)より先にオルモック湾へ向かう。優速輸送船3隻(香椎丸、金華丸、高津丸)を第一護衛部隊(指揮官松山光治少将)の海防艦4隻(沖縄、占守、11号、13号)、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(海兵41期。「霞」座乗)指揮下の駆逐艦6隻(旗艦〈霞〉、第2駆逐隊〈秋霜〉、第7駆逐隊〈潮〉、第31駆逐隊〈朝霜、長波〉、秋月型〈若月〉)で護衛する。また別働隊の第一号型輸送艦3隻(6号、9号、10号)も同日夕刻にマニラを出撃した。11月9日夕方にオルモック湾に到着するも、大発が揃わず揚陸作業は難航。兵員しか陸揚げできなかった。11月10日朝、第四次輸送部隊はオルモック湾を出撃してマニラに向かったが、間もなくB-25爆撃機 とP-38戦闘機 の攻撃を受ける。海防艦11号、陸軍特殊船高津丸(山下汽船、5,657トン)と輸送船香椎丸(大阪商船、8,407トン)が沈没。木村少将は駆逐艦3隻(霞〈旗艦〉、朝霜、長波)に救助作業を担当させ、損傷した秋霜以下の艦艇を輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)の護衛につけてマニラへ先発させた。 この後、木村少将は麾下の駆逐艦3隻(若月、朝霜、長波)に対し、第三次輸送部隊と合流するよう下令する。分離を命じられた3隻は、21時にマスバテ島東方のブラックロック水道で多号作戦第三次輸送部隊(指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官、旗艦島風。11月9日マニラ出撃、低速輸送船5隻、うちセレベス丸は座礁して脱落)に合流。一方、第三次輸送部隊から駆逐艦2隻(初春、竹)が分離、第四次輸送部隊の3隻(若月、朝霜、長波)と任務を交代した。第三次輸送部隊は11月11日の正午ごろにオルモック湾に到着する予定であったが、その直前に第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦載機347機による空襲を受ける。輸送船4隻(泰山丸、三笠丸、西豊丸、天照丸)は沈没。続いて護衛艦艇も狙われる。11時40分、「若月」の前部と後部に爆弾が命中して.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯10度50分 東経124度31分 / 北緯10.833度 東経124.517度 / 10.833; 124.517の地点に沈没。駆逐艦長鈴木保厚大佐、若月砲術長折笠重康少佐(キスカ島撤退作戦時の軽巡阿武隈航海長)など、290名が戦死。なお若月生存者のうち45名がフィリピンの戦いにおける陸上兵力に転用されたとの記録が残る。第三次輸送部隊は「若月」をふくめ駆逐艦4隻沈没(若月、島風、浜波、長波)、輸送船団全滅、島風沈没時に二水戦司令官早川幹夫少将戦死および司令部全滅という大損害を受けた。マニラに生還したのは駆逐艦「朝霜」(他に駆潜艇46号とも)だけだった。 11月15日、第十戦隊は解隊されて、残存艦艇は第二水雷戦隊(20日の木村昌福少将任命まで二水戦司令官不在)に編入される。同日附で第61駆逐隊も解隊。既に沈没していた「若月」は、書類上第41駆逐隊に編入された。翌年1945年(昭和20年)1月10日、「若月」は帝国駆逐艦籍、秋月型駆逐艦、第41駆逐隊のそれぞれから除籍された。
※この「多号作戦」の解説は、「若月 (駆逐艦)」の解説の一部です。
「多号作戦」を含む「若月 (駆逐艦)」の記事については、「若月 (駆逐艦)」の概要を参照ください。
多号作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 17:07 UTC 版)
レイテ沖海戦中の10月下旬、南西方面艦隊司令長官三川軍一中将は、マニラ方面の所在艦艇をもってレイテ島輸送作戦実施を下令する。第31駆逐隊は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将、第五艦隊司令長官)に編入され、多号作戦への従事を命じられた。沖波は浸水被害を抱えたまま多号作戦に参加することになった。 10月29日のマニラ空襲では、那智に被害があっただけで、沖波以下多号作戦参加艦艇に被害はなかった。10月31日0700、多号作戦第二次輸送部隊(警戒部隊〈霞、沖波、曙、潮、初春、初霜〉、松山光治少将指揮下の護衛部隊〈沖縄、占守、海防艦11号、13号〉、輸送船〈能登丸、香椎丸、金華丸、高津丸〉)としてマニラを出撃した。警戒部隊は、一番隊(霞〔第一水雷戦隊司令官木村昌福少将旗艦〕、沖波)、二番隊(曙、潮)、三番隊(初春、初霜)という編成だった。 翌11月1日日中、第二次輸送部隊は米軍機少数に襲撃されたが、味方直衛戦闘機の活躍で撃退に成功した。夕刻、第二次輸送部隊はレイテ島オルモック湾に到着して兵員や軍需品の揚陸を開始した。揚陸作業中、沖波は霞と組んでオルモック湾の南西方向を警戒した。11月2日朝より、第二次輸送部隊はP-38 とB-24 の攻撃を受ける。正午以降の対空戦闘で輸送船能登丸(日本郵船、7,191トン)が沈没、駆逐艦潮が損傷した。能登丸が沈没したものの、輸送作戦は成功をおさめた。第二次輸送部隊を指揮する第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(海兵41期)は、同日19時に第二次輸送部隊を出港させた。復航では、第一号型輸送艦の第9号も第二次輸送部隊に加わった(同艦は、11月2日0430オルモック着)。途中、木村司令官の指定により3隻(初春、初霜、第9号)はパナイ島北東で応急修理中の第百三十一号輸送艦を救援するため分離。11月4日朝、第二次輸送部隊はマニラに帰投した。別働の4隻も翌朝、マニラに帰投した。沖波はマニラで多号次期作戦に備えて待機した。 11月5日、米海軍機動部隊艦載機によるマニラ空襲により、第五艦隊旗艦の重巡那智が沈没、駆逐艦曙が損傷。那智を掩護していた沖波も損傷を受け戦傷者多数、艦長は入院するに至った。 11月13日、第38任務部隊艦載機はマニラに空襲を敢行した。朝からの波状攻撃により軽巡木曾、駆逐艦複数隻(曙、初春、秋霜)などマニラ在泊中の艦船は次々と被害を受けた。沖波もマニラ湾にて攻撃を受けて損傷、火災が発生した。朝霜や沖縄等の救援により陸岸に移動して消火に成功したが、浸水が進み着底した。.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯14度35分 東経120度50分 / 北緯14.583度 東経120.833度 / 14.583; 120.833、マニラ市街西方8浬地点であった。この時点で、沖波に残る乗組員は約30数名となった。生存者のうち178名はフィリピンの戦いにおける陸上兵力に転用されている。同日深夜、第一水雷戦隊残存部隊(霞、朝霜、潮、初霜、竹)はマニラを出発し、ブルネイに向かった。 11月20日、牧野中佐は沖波駆逐艦長の任を解かれた(12月10日、転勤。艦長代理は沖波砲術長)。11月25日、多号作戦第五次作戦に従事していた第九号輸送艦は空襲により損傷、同艦航海長(袴田徳男大尉)が戦死する。沖波航海長の佐々木幸康大尉は臨時の第九号輸送艦航海長に任命され、ひきつづき多号作戦に従事することになった。 12月11日、福岡徳治郎大佐は第31駆逐隊司令の職務を解かれた。12月31日、総員退去。1945年(昭和20年)1月7日、沖波は爆破処理された。1月10日、沖波を含む夕雲型駆逐艦6隻(長波、浜波、沖波、岸波、早霜、秋霜)は艦艇類別等級表から削除された。同時に帝国駆逐艦籍から除籍。第31駆逐隊も解隊された。
※この「多号作戦」の解説は、「沖波 (駆逐艦)」の解説の一部です。
「多号作戦」を含む「沖波 (駆逐艦)」の記事については、「沖波 (駆逐艦)」の概要を参照ください。
多号作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 16:56 UTC 版)
「五十鈴 (軽巡洋艦)」の記事における「多号作戦」の解説
当時、レイテ島では上陸してきた連合軍と日本軍守備隊の間で激戦がくりひろげられており(レイテ島の戦い)、日本軍はレイテ島増援輸送作戦を多号作戦と呼称して多数の水上部隊を投入していた。11月11日、多号作戦第三次輸送部隊はレイテ島オルモック湾で米軍機動部隊艦載機多数の襲撃を受けて駆逐艦朝霜を残して全滅、旗艦島風沈没時に第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将も戦死した。日本海軍は11月15日附で戦時編制の改定をおこない、第十戦隊を解隊して第一水雷戦隊と第二水雷戦隊を増強していたが、この事態をうけて第一水雷戦隊(第五艦隊所属)と第二水雷戦隊(第二艦隊所属)を統合。第一水雷戦隊を第二水雷戦隊に転用するかたちで、一水戦司令官木村昌福少将が第二水雷戦隊司令官に補職された。このため「第三十一戦隊ハ本月八月 対潜作戦専務部隊トシテ編成セラレ 逐次増勢セラレマシテ間モナク竹級駆逐艦十四隻、海防艦九隻、航空隊一隊トナル予定デ御座イマスガ 之ヲ第一水雷戦隊ノ補充兵力ト致シマシテ第五艦隊ニ編入 主トシテ比島叢島内ノ対潜作戦竝ニ「レイテ」方面ノ輸送護衛作戦ニ充当セシムルコトト致度ト存ジマス」(昭和19年11月14日、及川古志郎軍令部総長の奏上より)という方針で、第三十一戦隊(旗艦「五十鈴」)は第五艦隊(司令長官志摩清英中将、旗艦「足柄」)に編入された。 上記の戦時編制改定が実施される前の11月5日、豊田副武連合艦隊司令長官は第三十一戦隊(五十鈴、梅、桃、桐)にマニラ方面輸送任務を命じ、さらに松型2隻(桑、杉)と共に南西方面部隊の指揮下に入り多号作戦に従事するよう命じた(GF電令作第515号)。11月9日、第三十一戦隊は第四航空戦隊(日向、伊勢)と共に佐世保を出撃。14日、三十一戦隊は澎湖列島馬公市を出発してマニラにむかった。11月19日、「五十鈴」はコレヒドール島沖で米潜水艦ヘイク (USS Hake, SS-256) の魚雷を艦尾に受け、舵を流されるなど大破した。駆逐艦桃の護衛によりシンガポールに避退した。第三十一戦隊司令部は秋月型駆逐艦「霜月」に旗艦を変更し、「桃」と共にシンガポールを出撃した。だが11月25日、米潜水艦により「霜月」は撃沈され、沈没時に江戸兵太郎少将ふくめ第三十一戦隊司令部は全滅した。新任の第三十一戦隊司令官は鶴岡信道少将。新編第三十一司令部は12月22日にマニラへ進出したが、「五十鈴」に乗艦することはなかった。「五十鈴」はスラバヤで修理を行う。 1945年(昭和20年)2月5日、大本営海軍部は第五艦隊を解隊(同日附で第十方面艦隊〈司令長官福留繁中将〉を編制し、第五戦隊〈羽黒、足柄、大淀〉、第四航空戦隊〈日向、伊勢〉を編入)。第五艦隊所属だった第三十一戦隊を、戦時編制において連合艦隊附属とした。さらに連合艦隊は兵力部署において、第三十一戦隊を高雄警備府部隊に編入した。第三十一戦隊司令部は2月24日に台湾高雄市を出発、28日に呉へ帰投し、松型駆逐艦「竹」を旗艦とした。スラバヤで修理中の「五十鈴」は、2月13日に3月下旬修理完成と内地回航の指示を大本営海軍部(軍令部)にもとめた。軍令部は「五十鈴」を第十方面艦隊の任務に用いることを予定していた。3月15日、日本海軍は第三十一戦隊を第二艦隊(司令長官伊藤整一中将、旗艦「大和」)に編入し、三十一戦隊の旗艦に秋月型駆逐艦「花月」をあてた。3月25日、「五十鈴」は第三十一戦隊からのぞかれ第十方面艦隊付属となった。
※この「多号作戦」の解説は、「五十鈴 (軽巡洋艦)」の解説の一部です。
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多号作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 23:59 UTC 版)
詳細は「多号作戦」を参照 11月30日午前、第七次多号作戦が発令された。松型駆逐艦2隻(桑、竹)、第9号輸送艦、第140号輸送艦、第159号輸送艦は「第三/第四梯団」を構成し、マニラを出撃した。部隊指揮官は山下正倫中佐(桑駆逐艦長)。僚艦の松型2番艦「竹」は、これまでに第三次、第五次の多号作戦に参加していた。出撃前、山下艦長は「犬死は許さん。一人となっても敵陣に踏みこむべし」と激励した。また輸送戦隊司令部の機関参謀が各輸送艦をまわって「任務を果たさずして、絶対に帰ってくるな」と訓示しており、宇那木少佐(竹駆逐艦長)は「陸上にいる参謀というものは無責任なものだ」、志賀博大尉(旧姓保坂、竹水雷長)は「輸送戦隊司令官か南西方面艦隊司令長官の意向であろう」と回想している。午前6時30分、第七次多号作戦部隊の第三梯団はマニラを出航した。出港直後、船団は日本陸軍潜水艦(三式潜航輸送艇、通称まるゆ)と遭遇した。 この頃になると、アメリカ軍は妨害のためにレイテから魚雷艇隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、11月28日夜半のオルモック襲撃に成功するなど戦果を挙げていた。第7艦隊司令官のトーマス・C・キンケイド中将は続いてオルモック方面に駆逐艦と掃海艇を派遣することとし、これも過去二度の作戦で潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた。そして、三度目の作戦としてアレン・M・サムナー (USS Allen M. Sumner, DD-692)、モール (USS Moale, DD-693) そしてクーパー (USS Cooper, DD-695) がオルモック湾に差し向けられる事となったのである。アレン・M・サムナー、モールおよびクーパーの第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐)は18時30分にレイテ湾を出撃し、オルモック湾に急行した。だが、第120駆逐群はとにかく運がよくなかった。出撃して間もなくセブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊の月光に付きまとわれ、爆撃と機銃掃射によりモールは2名の戦死者と22名の負傷者を出した。また、アレン・M・サムナーおよびモールの船体にも若干の損傷が生じた。 「クーパー (駆逐艦)」も参照 12月2日午後、第七次多号作戦部隊(第三、第四梯団)は敵機に発見されるが、空襲を受けなかった。 同2日夜、船団5隻はオルモック湾に到着して揚陸を開始した。大発が輸送艦と陸上を往復して物資を揚陸させている頃、「桑」は船団南側を、「竹」は船団南西側の哨戒を開始した。しかし、その南方からは第120駆逐群がオルモック湾に入りつつあり、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった。オルモック湾に入った第120駆逐群は11,000メートル先の目標を狙い、まずクーパーが砲撃を開始した。オルモック港(揚陸地点)より「竹」-「桑」-米駆逐艦3隻という位置関係になる。「桑」は第120駆逐群のオルモック湾侵入を確認するや、発光信号で敵艦発見を「竹」に知らせた。「桑」は電気系統に故障をかかえており、砲側照準での戦闘となった。山下(桑艦長)は米艦隊を軽巡洋艦3隻と判断、魚雷を発射する。敵艦2隻撃沈を確認したあと、続いて砲撃戦を行う。だが最初の交戦はおよそ9分で決着がつき、「桑」は大破して炎上。艦尾から沈没した。山下艦長は体当たりを命じて「桑」は突撃を敢行したが、魚雷艇の魚雷攻撃で沈没したとの証言もある。その後、「竹」の雷撃によりクーパーは沈没し(桑生存者は「桑」の雷撃と回想)、潜水艦の襲撃と誤認して浮き足立った第120駆逐群は南方へ去っていった。 この戦闘における「桑」沈没により、第三梯団の指揮官を兼ねていた山下正倫中佐(桑駆逐艦長)以下、桑乗組員約250名が戦死した。海上に放り出された桑生存者は「竹」に対して声をかけたり(志賀によれば、桑艦長ここにありとの声もあったという)、撃沈されたクーパーの乗員と英語で会話したという。救助をもとめられた「竹」も被弾して左舷に傾斜、機関部に損傷を受けてマニラにたどりつけるか否かという状態で、救助を行う余裕はなかった。宇那木勁少佐(竹艦長)は生存者の救助をオルモックの陸上部隊に依頼した。桑生存者によれば「竹」から「大発動艇から助けに来るから頑張れ」と声がかけられたという。この時、最後尾の輸送艦が独断でカッターボートをおろし、桑乗組員8名(重傷2名)を救助した。また救助された少数名は、現地の海軍陸戦隊に編入された。だが陸上に上陸した乗組員のうち大部分は米軍や現地ゲリラに殺害されたという。桑生存者の一人は入院治療を余儀なくされ、1945年(昭和20年)1月5日マニラへ入港した病院船「第二氷川丸」(元オランダ病院船「オプテンノール」)に乗船してフィリピンを離れた。 2月10日、松型4番艦「桃」と本艦は松型駆逐艦、帝国駆逐艦籍より除籍。「桃」は第43駆逐隊から、「桑」は第52駆逐隊から除かれた。 2005年(平成17年)、オルモック湾の深海108メートルの海底にて旧日本軍の艦艇とおぼしき残骸が発見された。香港のマンダリン・ダイバーズによって潜水調査が行われた。撮影された映像を見た乗員遺族の造船技師が、全弾射出済みの九二式 61cm4連装魚雷発射管と松型駆逐艦特有の船体の溶接痕を確認した。これにより、ほぼ「桑」と特定されたと香港ラジオテレビ(RTHK)は伝えた。
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多号作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 14:23 UTC 版)
ブルネイ到着前の10月29日、秋霜をふくめ第二水雷戦隊は第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)に編入され、レイテ島地上戦にともなう輸送作戦(「多号作戦」)に従事する。第一水雷戦隊司令官木村昌福少将の指揮下で第四次多号作戦に従事中、秋霜は米軍機の空襲で損傷する。マニラ港で待機していたところ、11月13日の空襲により大破着底した。多号作戦から沈没までの経過は以下のとおり。 詳細は「多号作戦」を参照 10月27日1715、豊田副武連合艦隊司令長官はレイテ島地上戦にともなう海上輸送作戦(「多号作戦」)を実施するため、南西方面部隊の水上兵力増強を下令した。29日、GF電令作第387号により第二水雷戦隊全艦が第二遊撃部隊(指揮官志摩清英中将、第五艦隊司令長官)に編入された。10月30日、秋霜をふくめ第二水雷戦隊の大部分はブルネイを出発、マニラへ移動した。 マニラ進出直後の11月5日、米軍機動部隊艦上機は大規模空襲を敢行する。重巡洋艦那智(第五艦隊旗艦)が沈没した。さらにい那智を救援中の駆逐艦曙(第7駆逐隊)が大破する。また沖波(第31駆逐隊)も損傷した。2隻は多号作戦に参加できなくなる。秋霜は第三次輸送部隊として島風等と共に出撃予定だったが、曙の代役として第四次輸送部隊に編入された。 11月8日午前10時30分、第四次輸送部隊はマニラを出撃する。第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(海兵41期)が指揮する第四次多号作戦は、輸送部隊第一梯団(警戒部隊〈霞〔一水戦旗艦〕、長波、若月、潮、朝霜、秋霜〉、第七護衛隊〔司令官松山光治少将:海防艦4隻〈沖縄、占守、11号、13号〉〕、輸送船3隻〈高津丸、香椎丸、金華丸〉)という編成でマニラを出撃した。本来なら先に出発するはずだった第三次輸送部隊(指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官、旗艦島風)はマニラ空襲などにより準備に遅れが生じ、第四次輸送部隊が先発することになったのである。 翌11月9日夕方、第四次輸送部隊第一梯団はオルモック湾に到着した。まもなく第一号型輸送艦3隻(6号、9号、10号)も到着した。だが揚陸に使用する大発動艇が現地に揃っていなかった(予定50隻中、使用可能5隻)。海防艦を大発動艇の代用にしたものの、兵員しか陸揚げできなかった。第四次輸送部隊は重火器・弾薬の揚陸を諦め、11月10日10時30分以降、順次オルモック湾を出港してマニラに向かう。だが間もなくB-25双発爆撃機約30機の攻撃(反跳爆撃)を受けた。対空砲火により敵爆撃機7機を撃墜したが(アメリカ軍資料)、陸軍特殊船高津丸(山下汽船、5,657トン)、輸送船香椎丸(大阪商船、8,407トン)、第十一号海防艦が沈没、占守と第13号海防艦に若干の被害があった。第一水雷戦隊司令官木村昌福少将は、麾下駆逐艦を率いて救助作業にあたる。その他護衛艦(一番隊〈占守、沖縄、若月〉、二番隊〈潮、秋霜〉)を輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)の護衛につけてマニラへ先発させた。 14時以降、秋霜以下の先発隊はセブ島北端でP-38双発戦闘機十数機の攻撃を受け、金華丸と沖縄が小破、秋霜は14時18分に被弾した。艦首に命中弾を受けたため、一番砲塔より前部を切断される。戦死傷者55名(戦死20名)を出し、速力も14-16ノットしか出なくなった。潮に護衛されて退避しながらも、僚艦と共に金華丸を守り通す。 一方、第四次輸送部隊護衛艦(霞、長波、朝霜、若月)は、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将(旗艦島風)指揮下の第三次輸送部隊(護衛艦艇〈島風、浜波、初春、竹、駆潜艇46号、掃海艇30号〉・輸送船5隻)と合流し、駆逐艦3隻(長波、朝霜、若月)と駆逐艦2隻(初春、竹)を交換した。この駆逐艦の交換は、南西方面艦隊(司令長官大川内傳七中将)の下令によるものだった。本来ならば秋霜も第三次輸送部隊に合同する予定だったが、損傷のため実現していない。第三次輸送部隊の駆逐艦は5隻(島風、長波、朝霜、若月、浜波)となり、そのままオルモックへ向かう。 11月11日午前5時、木村司令官直率の駆逐艦3隻(霞、初春、竹)は第四次輸送部隊と合流した。18時、輸送部隊(霞、潮、秋霜、初春、竹、沖縄、金華丸)はマニラに到着して任務を終えた(海防艦2隻は23時着)。一方、第三次輸送部隊はレイテ島オルモック湾でアメリカ軍機動部隊の艦上機約340機以上に襲撃され、朝霜を残して全滅した。島風の沈没時に。二水戦司令官早川少将も戦死した。
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