多号作戦とは? わかりやすく解説

多号作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/15 21:59 UTC 版)

多号作戦(たごうさくせん)は、大東亜戦争末期のフィリピンの戦い[1]日本陸軍日本海軍が協同で実施したレイテ増援輸送作戦のこと[2][3]。 主な揚陸地の名をとりオルモック輸送作戦とも呼ばれる。 1944年(昭和19年)10月末から12月上旬まで、レイテ島地上戦にともなうレイテ島西岸オルモックへの増援部隊輸送を第1次(当初は鈴二号作戦と呼称)から第9次作戦まで繰り返された[4][5]。第10次作戦も予定していたが、12月15日の連合軍ミンドロ島上陸にともなうミンドロ島地上戦の生起により、多号作戦は中止された[1][5]




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「多号作戦」の続きの解説一覧

多号作戦

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霜月 (駆逐艦)」の記事における「多号作戦」の解説

奄美大島停泊中の10月27日付で、第41駆逐隊霜月冬月)と第61駆逐隊若月涼月)は第二遊撃部隊指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)に編入されていた。これはレイテ島増援輸送作戦(多号作戦)にともなう措置である。11月4日霜月は多号作戦支援部隊編入された。第三十一戦隊軽巡洋艦五十鈴」(司令官江戸太郎少将座乗)と、霜月以下の駆逐艦部隊をもって南方進出する第四航空戦隊司令官松田千秋少将)の航空戦艦2隻(日向伊勢)を護衛することとなった。だが出撃直前姉妹艦涼月修理艦首部分漏水事故発生した涼月霜月同行できなくなった11月8日第四航空戦隊日向伊勢)、霜月以下の護衛部隊は内地出発した。単艦で内地へ向かう護国丸すれちがいつつ南下11月11日から12日にかけて、馬公市寄港同時期、マニラ大規模空襲受けていたため、第四航空戦隊部隊新南諸島移動して待機した14日第三十一戦隊マニラ向かった霜月航海中の11月15日第十戦隊と第61駆逐隊解隊される。61所属の2隻(若月涼月)が第41駆逐隊編入され、第41駆逐隊第二水雷戦隊編入された。翌日霜月以下各艦は南西方面部隊指揮下に入る。 11月17日H部隊日向伊勢霜月)は南沙諸島長島到着してブルネイ湾からやってきた大淀妙高重巡足柄羽黒)、戦艦榛名マニラから脱出してきた第一水雷戦隊などの艦艇合流した11月19日戦艦と共に長島出港し11月22日リンガ泊地到着する到着直前浮上潜水艦発見報告があり、朝霜霜月掃蕩実施している。リンガ泊地到着時の支援部隊兵力は、足柄第五艦隊旗艦)、戦艦3隻(日向伊勢榛名)、巡洋艦2隻(羽黒大淀)、駆逐艦複数隻(、潮、朝霜初霜霜月先着岸波修理中の清霜であった11月20日島風型駆逐艦島風沈没時に戦死した第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将後任として、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将第二水雷戦隊司令官異動する。また第三十一戦隊第五艦隊編入された。 この間マニラ方面行動していた第三十一戦隊旗艦五十鈴アメリカ潜水艦ヘイク雷撃損傷し昭南次いでスラバヤ下がって修理が行われる事となった。11月22日損傷した五十鈴と、護衛駆逐艦シンガポール到着する同日付で霜月は多号作戦第二警戒部隊編入第三十一戦隊指揮下に入りシンガポール回航することになった第三十一戦隊司令部霜月移乗し本艦第三十一戦隊旗艦となった11月24日午後1時20分、駆逐艦2隻(霜月)は昭南出撃し、ボルネオ島ブルネイ湾向かった11月25日午前4時45分に.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯0228東経10720分 / 北緯2.467度 東経107.333度 / 2.467; 107.333地点もしくは北緯0228東経10930分 / 北緯2.467度 東経109.500度 / 2.467; 109.500地点差し掛かったところで、アメリカ潜水艦カヴァラ攻撃を受ける。カヴァラ目標那智重巡洋艦判断し浮上攻撃魚雷を4本発射。2本が霜月左舷命中し霜月沈没した乗員のうち46名は救助されたものの、他は第41駆逐隊司令脇田大佐霜月駆逐艦長畑野健二中佐以下全員戦死した救助され霜月乗組員も、32名が海軍陸戦隊としてフィリピン地上戦投入されたとの記録が残る。なお、霜月将旗掲げていた江戸少将戦死第三十一戦隊司令部全滅した1945年昭和20年1月10日秋月型2隻(若月霜月)は帝国駆逐艦籍、秋月型駆逐艦、第41駆逐隊それぞれから除籍された。

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多号作戦

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若月 (駆逐艦)」の記事における「多号作戦」の解説

詳細は「多号作戦」を参照 フィリピンにおける日本海軍最高責任者南西方面艦隊司令長官三川軍一中将は、レイテ島対す増援輸送作戦を多号作戦と呼称した(10月29日NSB電令作第30号)。連合艦隊は、すでに10月27日第31駆逐隊岸波沖波朝霜長波)を、28日第二水雷戦隊島風、第2駆逐隊秋霜清霜〉、第31駆逐隊前日編入済み〉、第32駆逐隊〈浜波〉)を、第一遊撃部隊栗田艦隊)から第二遊撃部隊指揮官志摩清英中将第五艦隊司令長官)に編入していた。機動部隊主隊からは、秋月型駆逐艦4隻(第61駆逐隊若月涼月〉、第41駆逐隊霜月冬月〉)を第二遊撃部隊編入した。秋月型4隻のうち、涼月冬月損傷修理がまにあわず内地待機後日空母隼鷹第二次比島輸送護衛)、若月霜月フィリピン進出した11月1日南西方面艦隊司令長官三川中将から大川内傳七中将交代した大川内中将は、多号作戦の第三次から第七次までの実施計画発令した第三次輸送部隊第四次輸送部隊11月6日マニラ出撃予定だった。 11月5日マニラクラーク地区米軍機部隊艦載機空襲をうける。マニラ湾重巡洋艦那智第五艦隊旗艦志摩長官下司令部は陸上所在で無事)が沈没、多号作戦従事中の駆逐艦2隻(曙、沖波)が損傷した空襲のため船団出撃遅延した。翌7日空襲はなかったが第14方面軍司令官山下奉文陸軍大将)が大本営に「レイテ輸送作戦中止」を意見具申したため船団出撃しなかった。連合艦隊司令長官豊田副武大将参謀長草鹿龍之介中将参謀副長高田利種少将首席参謀神重徳大佐)は南西方面艦隊対し十一日を期し第一遊撃部隊指揮官栗田健男第二艦隊司令長官旗艦大和」)のレイテ突入と共に第三次第四次増援強行するように」と通知した11月8日朝、「若月」は多号作戦第四次輸送部隊護衛してマニラ出撃第四次輸送作戦部隊は、マニラ空襲影響第三次輸送作戦部隊(指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官)より先にオルモック湾へ向かう。優速輸送船3隻(香椎丸、金華丸、高津丸)を第一護衛部隊(指揮官松山光少将)の海防艦4隻(沖縄占守11号13号)、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将海兵41期。「座乗指揮下の駆逐艦6隻(旗艦〉、第2駆逐隊秋霜〉、第7駆逐隊〈潮〉、第31駆逐隊朝霜長波〉、秋月型若月〉)で護衛する。また別働隊第一号型輸送艦3隻(6号9号10号)も同日夕刻マニラ出撃した。11月9日夕方オルモック湾到着するも、大発が揃わず揚陸作業難航兵員しか陸揚げできなかった。11月10日朝、第四次輸送部隊オルモック湾出撃してマニラ向かったが、間もなくB-25爆撃機P-38戦闘機攻撃を受ける。海防艦11号陸軍特殊船高津丸(山下汽船、5,657トン)と輸送船香椎丸(大阪商船、8,407トン)が沈没木村少将駆逐艦3隻(旗艦〉、朝霜長波)に救助作業担当させ、損傷した秋霜以下の艦艇輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)の護衛につけてマニラ先発させた。 この後木村少将麾下駆逐艦3隻(若月朝霜長波)に対し第三次輸送部隊合流するよう下令する。分離命じられた3隻は、21時にマスバテ島東方ブラックロック水道で多号作戦第三次輸送部隊指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官旗艦島風11月9日マニラ出撃低速輸送船5隻、うちセレベス丸は座礁して脱落)に合流一方第三次輸送部隊から駆逐艦2隻(初春、竹)が分離第四次輸送部隊の3隻(若月朝霜長波)と任務交代した第三次輸送部隊11月11日正午ごろにオルモック湾到着する予定であったが、その直前第38任務部隊ジョン・S・マケイン・シニア中将)の艦載機347機による空襲を受ける。輸送船4隻(泰山丸、三笠丸、西豊丸、天照丸)は沈没続いて護衛艦艇も狙われる1140分、「若月」の前部後部爆弾命中して.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯10度50東経12431分 / 北緯10.833度 東経124.517度 / 10.833; 124.517の地点沈没駆逐艦長鈴木保大佐若月砲術長折笠重康少佐キスカ島撤退作戦時の軽巡阿武隈航海長)など、290名が戦死。なお若生存者のうち45名がフィリピンの戦いにおける陸上兵力転用されたとの記録が残る。第三次輸送部隊は「若月」をふくめ駆逐艦4隻沈没若月島風、浜波、長波)、輸送船団全滅島風沈没時に二水司令官早川幹夫少将戦死および司令部全滅という大損害を受けたマニラ生還したのは駆逐艦朝霜」(他に駆潜艇46号とも)だけだった11月15日第十戦隊解隊されて、残存艦艇第二水雷戦隊20日木村昌福少将任命まで二水司令官不在)に編入される同日附で第61駆逐隊解隊。既に沈没していた「若月」は、書類上第41駆逐隊編入された。翌年1945年昭和20年1月10日、「若月」は帝国駆逐艦籍、秋月型駆逐艦、第41駆逐隊それぞれから除籍された。

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多号作戦

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沖波 (駆逐艦)」の記事における「多号作戦」の解説

レイテ沖海戦中の10月下旬南西方面艦隊司令長官三川軍一中将は、マニラ方面所在艦艇をもってレイテ島輸送作戦実施下令する。第31駆逐隊第二遊撃部隊指揮官志摩清英中将第五艦隊司令長官)に編入され、多号作戦への従事命じられた。沖波浸水被害抱えたまま多号作戦に参加することになった10月29日マニラ空襲では、那智被害があっただけで、沖波以下多号作戦参加艦艇被害はなかった。10月31日0700、多号作戦第二次輸送部隊警戒部隊沖波、曙、潮、初春初霜〉、松山光少将指揮下の護衛部隊〈沖縄占守海防艦11号13号〉、輸送船能登丸、香椎丸、金華丸、高津丸〉)としてマニラ出撃した。警戒部隊は、一番隊第一水雷戦隊司令官木村昌福少将旗艦〕、沖波)、二番隊(曙、潮)、三番隊初春初霜)という編成だった。 翌11月1日日中第二次輸送部隊米軍機少数襲撃されたが、味方直衛戦闘機活躍撃退成功した夕刻第二次輸送部隊レイテ島オルモック湾到着して兵員軍需品揚陸開始した揚陸作業中、沖波組んでオルモック湾南西方向を警戒した11月2日朝より、第二次輸送部隊P-38 とB-24 の攻撃を受ける。正午以降対空戦闘輸送船能登丸(日本郵船、7,191トン)が沈没駆逐艦潮が損傷した能登丸が沈没したものの、輸送作戦成功おさめた第二次輸送部隊指揮する第一水雷戦隊司令官木村昌福少将海兵41期)は、同日19時に第二次輸送部隊出港させた。復航では、第一号型輸送艦第9号第二次輸送部隊加わった(同艦は、11月2日0430オルモック着)。途中木村司令官指定により3隻(初春初霜第9号)はパナイ島北東応急修理中の第百三十一号輸送艦救援するため分離11月4日朝、第二次輸送部隊マニラ帰投した。別働の4隻も翌朝マニラ帰投した。沖波マニラで多号次期作戦備えて待機した11月5日米海軍機動部隊艦載機によるマニラ空襲により、第五艦隊旗艦重巡那智沈没駆逐艦曙が損傷那智掩護していた沖波損傷を受け戦傷者多数艦長入院する至った11月13日第38任務部隊艦載機マニラ空襲敢行した。朝からの波状攻撃により軽巡木曾駆逐艦複数隻(曙、初春秋霜)などマニラ在泊中の艦船次々と被害受けた沖波マニラ湾にて攻撃受けて損傷火災発生した朝霜沖縄等の救援により陸岸に移動して消火成功したが、浸水進み着底した。.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯14度35東経12050分 / 北緯14.583度 東経120.833度 / 14.583; 120.833、マニラ市街西方8浬地点であった。この時点で、沖波に残る乗組員は約30数名となった生存者のうち178名はフィリピンの戦いにおける陸上兵力転用されている。同日深夜第一水雷戦隊残存部隊(朝霜、潮、初霜、竹)はマニラ出発しブルネイ向かった11月20日牧野中佐沖波駆逐艦長の任を解かれた(12月10日転勤艦長代理沖波砲術長)。11月25日、多号作戦第五次作戦従事していた第九輸送艦空襲により損傷、同艦航海長袴田徳男大尉)が戦死する沖波航海長佐々木幸康大尉臨時第九輸送艦航海長任命されひきつづき多号作戦に従事することになった12月11日福岡徳治大佐第31駆逐隊司令職務解かれた。12月31日総員退去1945年昭和20年1月7日沖波爆破処理された。1月10日沖波を含む夕雲型駆逐艦6隻(長波、浜波、沖波岸波早霜秋霜)は艦艇類別等級表から削除された。同時に帝国駆逐艦籍から除籍第31駆逐隊解隊された。

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多号作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 16:56 UTC 版)

五十鈴 (軽巡洋艦)」の記事における「多号作戦」の解説

当時レイテ島では上陸してきた連合軍日本軍守備隊の間で激戦くりひろげられており(レイテ島の戦い)、日本軍レイテ島増援輸送作戦を多号作戦と呼称して多数水上部隊投入していた。11月11日、多号作戦第三次輸送部隊レイテ島オルモック湾米軍機部隊艦載機多数襲撃受けて駆逐艦朝霜残して全滅旗艦島風沈没時に第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将戦死した日本海軍11月15日附で戦時編制改定おこない第十戦隊解隊して第一水雷戦隊第二水雷戦隊増強していたが、この事態をうけて第一水雷戦隊第五艦隊所属)と第二水雷戦隊第二艦隊所属)を統合第一水雷戦隊第二水雷戦隊転用するかたちで、一水司令官木村昌福少将第二水雷戦隊司令官補職された。このため第三十一戦隊本月八月 対潜作戦専務部隊トシテ編成セラレ 逐次増勢セラレマシテ間モナク竹級駆逐艦十四隻、海防艦九隻、航空隊一隊トナル予定御座イマスガ 之ヲ第一水雷戦隊補充兵力ト致シマシテ第五艦隊編入トシテ比島島内対潜作戦竝ニ「レイテ方面輸送護衛作戦充当セシムルコトト致度ト存ジマス」(昭和19年11月14日及川古志郎軍令部総長奏上より)という方針で、第三十一戦隊旗艦五十鈴」)は第五艦隊司令長官志摩清英中将旗艦足柄」)に編入された。 上記戦時編制改定実施される前の11月5日豊田副武連合艦隊司令長官第三十一戦隊五十鈴)にマニラ方面輸送任務命じ、さらに型2隻(と共に南西方面部隊指揮下に入り多号作戦に従事するよう命じたGF電令作第515号)。11月9日第三十一戦隊第四航空戦隊日向伊勢と共に佐世保出撃14日三十一戦隊は澎湖列島馬公市出発してマニラむかった11月19日、「五十鈴」はコレヒドール島沖で米潜水艦ヘイク (USS Hake, SS-256) の魚雷艦尾に受け、舵を流されるなど大破した駆逐艦護衛によりシンガポール避退した。第三十一戦隊司令部秋月型駆逐艦霜月」に旗艦変更し、「と共にシンガポール出撃した。だが11月25日、米潜水艦により「霜月」は撃沈され、沈没時に江戸太郎少将ふくめ第三十一戦隊司令部全滅した新任第三十一戦隊司令官鶴岡信道少将新編第三十一司令部12月22日マニラ進出したが、「五十鈴」に乗艦することはなかった。「五十鈴」はスラバヤ修理を行う。 1945年昭和20年2月5日大本営海軍部は第五艦隊解隊同日附で第十方面艦隊司令長官福留繁中将〉を編制し第五戦隊羽黒足柄大淀〉、第四航空戦隊日向伊勢〉を編入)。第五艦隊所属だった第三十一戦隊を、戦時編制において連合艦隊附属とした。さらに連合艦隊兵力部署において、第三十一戦隊高雄警備府部隊編入した。第三十一戦隊司令部2月24日台湾高雄市出発28日に呉へ帰投し、松型駆逐艦「竹」を旗艦とした。スラバヤ修理中の「五十鈴」は、2月13日3月下旬修理完成内地回航指示大本営海軍部(軍令部)にもとめた軍令部は「五十鈴」を第十方面艦隊任務用いることを予定していた。3月15日日本海軍第三十一戦隊第二艦隊司令長官伊藤整一中将旗艦大和」)に編入し三十一戦隊の旗艦秋月型駆逐艦花月」をあてた。3月25日、「五十鈴」は第三十一戦隊からのぞかれ第十方面艦隊付属となった

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多号作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 23:59 UTC 版)

桑 (松型駆逐艦)」の記事における「多号作戦」の解説

詳細は「多号作戦」を参照 11月30日午前第七次多号作戦が発令された。松型駆逐艦2隻(、竹)、第9号輸送艦、第140号輸送艦、第159輸送艦は「第三第四梯団」を構成しマニラ出撃した。部隊指揮官山下正中佐駆逐艦長)。僚艦2番艦「竹」は、これまで第三次第五次の多号作戦に参加していた。出撃前、山下艦長は「犬死は許さん。一人となって敵陣踏みこむべし」と激励した。また輸送戦隊司令部機関参謀が各輸送艦まわって任務果たさずして、絶対に帰ってくるな」と訓示しており、宇那木少佐(竹駆逐艦長)は「陸上にいる参謀というものは無責任なものだ」、志賀博大尉(旧姓保坂、竹水雷長)は「輸送戦隊司令官南西方面艦隊司令長官意向であろう」と回想している。午前6時30分、第七次多号作戦部隊第三梯団マニラ出航した出港直後船団日本陸軍潜水艦三式潜航輸送艇通称まるゆ)と遭遇したこの頃になると、アメリカ軍妨害のためにレイテから魚雷艇隊をはるばるオルモック方面派遣するようになっており、11月28日夜半オルモック襲撃成功するなど戦果挙げていた。第7艦隊司令官トーマス・C・キンケイド中将続いてオルモック方面駆逐艦掃海艇派遣することとし、これも過去二度作戦潜水艦小型貨物船破壊する戦果挙げていた。そして、三度目作戦としてアレン・M・サムナー (USS Allen M. Sumner, DD-692)、モール (USS Moale, DD-693) そしてクーパー (USS Cooper, DD-695) がオルモック湾差し向けられ事となったのであるアレン・M・サムナーモールおよびクーパーの第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐)は18時30分レイテ湾出撃し、オルモック湾急行した。だが、第120駆逐群はとにかく運がよくなかった出撃して間もなくセブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊月光付きまとわれ爆撃機銃掃射によりモールは2名の戦死者22名の負傷者出したまた、アレン・M・サムナーおよびモール船体にも若干損傷生じた。 「クーパー (駆逐艦)」も参照 12月2日午後第七次多号作戦部隊第三第四梯団)は敵機発見されるが、空襲を受けなかった。 同2日夜、船団5隻はオルモック湾到着して揚陸開始した大発輸送艦陸上往復して物資揚陸させている頃、「」は船団南側を、「竹」は船団南西側哨戒開始した。しかし、その南方からは第120駆逐群がオルモック湾入りつつあり、ザーム大佐日本側の雷撃警戒して、艦を横に広がらせた横陣隊形湾内入っていった。オルモック湾入った120駆逐群は11,000メートル先の目標狙い、まずクーパー砲撃開始したオルモック港(揚陸地点)より「竹」-「」-米駆逐艦3隻という位置関係になる。「」は第120駆逐群のオルモック湾侵入確認するや、発光信号敵艦発見を「竹」に知らせた。「」は電気系統故障かかえており、砲側照準での戦闘となった山下艦長)は米艦隊軽巡洋艦3隻と判断魚雷発射する敵艦2隻撃沈確認したあと、続いて砲撃戦を行う。だが最初交戦はおよそ9分で決着がつき、「」は大破して炎上艦尾から沈没した山下艦長体当たり命じて」は突撃敢行したが、魚雷艇魚雷攻撃沈没したとの証言もある。その後、「竹」の雷撃によりクーパー沈没し生存者は「」の雷撃回想)、潜水艦襲撃誤認して浮き足立った120駆逐群は南方去っていった。 この戦闘における「沈没により、第三梯団指揮官兼ねていた山下正中佐駆逐艦長)以下、乗組員250名が戦死した海上放り出され生存者は「竹」に対して声をかけたり志賀によれば艦長ここにありとの声もあったという)、撃沈されたクーパー乗員と英語で会話したという。救助もとめられた「竹」も被弾して左舷傾斜機関部損傷受けてマニラにたどりつけるか否かという状態で、救助を行う余裕はなかった。宇那木勁少佐(竹艦長)は生存者救助オルモック陸上部隊依頼した生存者によれば「竹」から「大発動艇から助けに来るから頑張れ」と声がかけられたという。この時、最後尾輸送艦独断カッターボートをおろし、乗組員8名(重傷2名)を救助した。また救助され少数名は、現地海軍陸戦隊編入された。だが陸上上陸した乗組員のうち大部分米軍現地ゲリラ殺害されたという。生存者一人入院治療余儀なくされ、1945年昭和20年1月5日マニラ入港した病院船第二氷川丸」(元オランダ病院船「オプテンノール」)に乗船してフィリピン離れた2月10日4番艦「」と本艦松型駆逐艦帝国駆逐艦籍より除籍。「」は第43駆逐隊から、「」は第52駆逐隊から除かれた。 2005年平成17年)、オルモック湾深海108メートル海底にて旧日本軍艦艇おぼしき残骸発見された。香港のマンダリン・ダイバーズによって潜水調査が行われた。撮影され映像見た乗員遺族造船技師が、全弾射出済みの九二式 61cm4連装魚雷発射管松型駆逐艦特有の船体溶接痕を確認した。これにより、ほぼ「」と特定されたと香港ラジオテレビRTHK)は伝えた

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多号作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 14:23 UTC 版)

秋霜 (駆逐艦)」の記事における「多号作戦」の解説

ブルネイ到着前の10月29日秋霜をふくめ第二水雷戦隊第二遊撃部隊指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)に編入されレイテ島地上戦にともなう輸送作戦(「多号作戦」)に従事する第一水雷戦隊司令官木村昌福少将指揮下で第四次多号作戦に従事中、秋霜米軍機空襲損傷するマニラ港待機していたところ、11月13日空襲により大破着底した。多号作戦から沈没まで経過以下のとおり詳細は「多号作戦」を参照 10月27日1715、豊田副武連合艦隊司令長官レイテ島地上戦にともなう海上輸送作戦(「多号作戦」)を実施するため、南西方面部隊水上兵力増強下令した。29日GF電令作第387号により第二水雷戦隊全艦が第二遊撃部隊指揮官志摩清英中将第五艦隊司令長官)に編入された。10月30日秋霜をふくめ第二水雷戦隊大部分ブルネイ出発マニラ移動したマニラ進出直後11月5日米軍機部隊艦上機大規模空襲敢行する重巡洋艦那智第五艦隊旗艦)が沈没した。さらにい那智救援中の駆逐艦曙(第7駆逐隊)が大破する。また沖波第31駆逐隊)も損傷した。2隻は多号作戦に参加できなくなる。秋霜第三次輸送部隊として島風と共に出撃予定だったが、曙の代役として第四次輸送部隊編入された。 11月8日午前10時30分第四次輸送部隊マニラ出撃する第一水雷戦隊司令官木村昌福少将海兵41期)が指揮する第四次多号作戦は、輸送部隊第一梯団警戒部隊一水戦旗艦〕、長波若月、潮、朝霜秋霜〉、第七護衛隊司令官松山光少将海防艦4隻〈沖縄占守11号13号〉〕、輸送船3隻〈高津丸、香椎丸、金華丸〉)という編成マニラ出撃した。本来なら先に出発するはずだった第三次輸送部隊指揮官早川幹夫第二水雷戦隊司令官旗艦島風)はマニラ空襲などにより準備に遅れが生じ第四次輸送部隊先発することになったのである。 翌11月9日夕方第四次輸送部隊第一梯団オルモック湾到着した。まもなく第一号型輸送艦3隻(6号9号10号)も到着した。だが揚陸使用する大発動艇現地揃っていなかった(予定50隻中、使用可能5隻)。海防艦大発動艇代用したものの、兵員しか陸揚げできなかった。第四次輸送部隊重火器弾薬揚陸諦め11月10日10時30分以降順次オルモック湾出港してマニラに向かう。だが間もなくB-25双発爆撃機30機の攻撃反跳爆撃)を受けた対空砲火により敵爆撃機7機を撃墜したが(アメリカ軍資料)、陸軍特殊船高津丸(山下汽船、5,657トン)、輸送船香椎丸(大阪商船、8,407トン)、第十一号海防艦沈没占守第13号海防艦若干被害があった。第一水雷戦隊司令官木村昌福少将は、麾下駆逐艦率いて救助作業にあたる。その他護衛艦一番隊占守沖縄若月〉、二番隊〈潮、秋霜〉)を輸送船金華丸(大阪商船、9,305トン)の護衛につけてマニラ先発させた。 14時以降秋霜以下の先発隊はセブ島北端P-38双発戦闘機十数機の攻撃を受け、金華丸と沖縄小破秋霜14時18分に被弾した。艦首命中弾を受けたため、一番砲塔より前部切断される戦死傷者55名(戦死20名)を出し速力14-16ノットしか出なくなった。潮に護衛され退避しながらも、僚艦と共に金華丸を守り通す。 一方第四次輸送部隊護衛艦長波朝霜若月)は、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将旗艦島風指揮下の第三次輸送部隊護衛艦艇〈島風、浜波、初春、竹、駆潜艇46号掃海艇30号〉・輸送船5隻)と合流し駆逐艦3隻(長波朝霜若月)と駆逐艦2隻(初春、竹)を交換した。この駆逐艦交換は、南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将)の下令よるものだった。本来ならば秋霜第三次輸送部隊合同する予定だったが、損傷のため実現していない。第三次輸送部隊駆逐艦は5隻(島風長波朝霜若月、浜波)となり、そのままオルモックへ向かう。 11月11日午前5時、木村司令官直率の駆逐艦3隻(初春、竹)は第四次輸送部隊合流した18時、輸送部隊、潮、秋霜初春、竹、沖縄金華丸)はマニラ到着して任務終えた海防艦2隻は23時着)。一方第三次輸送部隊レイテ島オルモック湾アメリカ軍機動部隊艦上機340以上に襲撃され朝霜残して全滅した島風沈没時に二水司令官早川少将戦死した

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