捷号作戦
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捷号作戦(しょうごうさくせん)は、第二次世界大戦中に日本陸海軍が計画した比島・台湾・本土方面で基地航空部隊によって敵を要撃する作戦[1]。決戦方面によって一号から四号まで定められ、アメリカ軍のレイテ島への進攻を受けて1944年10月18日に捷一号作戦が発動された。
注釈
- ^ 当時、第一遊撃部隊は小沢長官の第一機動艦隊の指揮下にある
- ^ 機動部隊命令作第76号別紙 一般作戦方針 2項
- ^ 機動部隊命令作第76号別紙 第二 具体的作戦方針捷一号二号作戦 友軍の作戦
- ^ 機動部隊命令作第76号別紙 第二 具体的作戦方針捷一号二号作戦 機動部隊の作戦㈠第一遊撃部隊
- ^ 機動部隊命令作第76号別紙 第二 具体的作戦方針捷一号二号作戦 機動部隊の作戦🉂本隊
- ^ 後年小沢はGHQの調査による陳述書において、この時の事を「中略…余りにも拙い微力な航空戦力を以てしては、全水上部隊の主力となりえず、僅かに水上艦艇の偵察か上空警戒を担当する程度の実勢にすぎないであろう。このような航空戦隊に乗艦して、私が戦艦部隊を含めて水上部隊の最高指揮官となることは砲戦力を主とする栗田中将の自由な指揮を拘束するばかりでなく、その作戦遂行上も不利が多いと考え、豊田大将の希望案に対して強く反対した。」と述べている
- ^ あ号作戦時の軍隊区分では前衛部隊
- ^ 以降第二艦隊は「第一遊撃部隊」と区分される
- ^ 但し松浦五郎中佐と山田武中佐は米軍のテニアン侵攻時は同島不在で玉砕の難を逃れ、引き続き第一航空艦隊参謀として寺岡中将の司令部に参加している
- ^ 一航艦司令部が陸路移動の途上、意見具申の為に司令部へ向かっていた戦闘第九〇一飛行隊長の美濃部正大尉と出会い、彼の「艦隊司令部からの敵上陸の報を受けたダバオ第二基地にいたが、基地から湾内を一望しても何処にもそのようなものは見えなかった」「ダバオ第一基地の零戦で自分自身が飛んで湾内を確認するので、それまで司令部の移動をまってほしい」などの進言を受け、移動を一時見合わせる。美濃部はダバオ第一基地に向かい、1時間後に発進し湾内を偵察、敵が居ないことを確認し信号を発信、ミンタルに到着していた司令の寺岡は美濃部の報告を聞いて「ダバオ地区に敵上陸の事実なし」との取り消し電報を部内全軍に発令した、との美濃部の著書や戦史叢書(37巻「海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで」だけ41巻「捷号陸軍作戦(1)レイテ決戦」には美濃部の名前は登場せず)には記述があるが、この記述の殆どは美濃部自身の証言に基づくもので、一航艦の主席参謀猪口や事件後に調査した軍令部参謀の奥宮はいずれも偵察は玉井が行ったと著書に記述している。
- ^ これは捷号作戦の基地航空隊への各作戦要領のなかで現存する唯一のものである
- ^ この原因は配備機数の遅れではなく、稼働機数の低下が主因である。前線に届いても部隊整備能力の低下や、不適切な製造による紫電や銀河など新鋭機の品質低下などの理由により稼働できない機が続出した
- ^ 第二航空艦隊司令長官指揮下の陸軍飛行第九八戦隊のこと
- ^ 黒田は米軍がルソンに直接上陸すると考え戦力の過半をそこに配置。南部には2個旅団程度、中部には配置しないよう考えていたが南方総軍は分散配備と考え、方面軍の頭越しに海軍や航空軍と調整し方針を固め、それを方面軍に押し付け方面軍に統帥の余裕を与えなかった
- ^ これは所属空母の中で、航空機の準備が間に合わず未搭載の空母が何隻かあった場合でも、状況によっては連れて行く場合があるという意味であり、「艦隊自体に航空機がなくても空母を囮として連れて行く」という意味ではない
出典
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- ^ 『失敗の本質—日本軍の組織論的研究』(中公文庫)
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- ^ 戦史叢書41 捷号陸軍作戦<1>レイテ決戦 105頁
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- ^ 小柳冨次は特攻兵器の基地としている(小柳冨次『栗田艦隊—レイテ沖海戦秘録』光人社NF文庫、1995年、P57)
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捷号作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:23 UTC 版)
詳細は「捷号作戦」を参照 10月20日にレイテ島にアメリカ軍が上陸を開始レイテ島の戦いが始まった。大本営は捷一号作戦を発動、連合艦隊がアメリカ軍上陸部隊を殲滅するためレイテ湾を目指し、第1航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将は、関行男大尉を指揮官とする神風特別攻撃隊を編成してアメリカ軍艦隊を迎え撃った。また、陸軍航空隊の富永恭次中将率いる第4航空軍もアメリカ軍輸送艦隊の攻撃や、連合艦隊突入支援のため三式戦闘機「飛燕」で制空戦闘を行い、両軍の間で太平洋戦争最大規模の海空戦となるレイテ沖海戦が展開されたが、アメリカ軍上陸の1ヶ月前に壊滅し、残機が零戦わずか4機となっていた戦闘901は戦闘に参加することはなく、美濃部は完全に蚊帳の外であった。 関率いる神風特別攻撃隊は、連日の出撃でもアメリカ軍艦隊に接敵することができなかったが、5回目の出撃となった10月25日にアメリカ軍艦隊の攻撃に成功し、護衛空母撃沈を含む大きな戦果を挙げた。その夜、第一航空艦隊の航空隊指揮官がストッツェンベルグの第七六一海軍航空隊士官室に集められて、大西から第一航空艦隊と第二航空艦隊を統合して連合基地航空隊が編成されたことや、本日、神風特別攻撃隊が体当たりを敢行したことの説明があり、「自分は、日本が勝つ道はこれ以外にないと信ずるので、今後も特攻隊を続ける。このことに批判は許さない。反対するものはたたき斬る」と強い口調で申し渡している。美濃部によれば、この会議ではアメリカ軍のPTボート対策についても協議したとしており、その会議の席で大西は「陸海軍はレイテ島侵攻の米軍に対し、陸軍玉兵団25,000人をレイテ島に逆上陸させ、敵を撃滅させる」などと話したのち、その支障となるPTボート対策について、参加した指揮官らに意見を求めたとしている。誰も発言しないなかで、他の先任の指揮官たちに遠慮して発言を控えていた美濃部が「やります。敵の懐セブ島に進出します。オルモック湾までわずか60キロ。昼間は飛行機をジャングルに隠し、夜間に出撃します」と自分の部隊に任せてほしいと発言すると、大西から「うむ、よし。魚雷艇は153空に任す、634空の水爆隊も協力せよ」とPTボート対策を、江村日雄少佐率いる第六三四海軍航空隊の水上機瑞雲と共に任されたなどと美濃部は主張している。 しかし、玉兵団がレイテに派遣されることが決定したのは、この会議の2日後の10月27日であり、25日時点では陸軍内でも確定してはおらず、この時点で海軍の大西がこのような確定的な話をするのは不可能であり、正式には10月31日に及川古志郎軍令部総長が昭和天皇に玉兵団をレイテ島に輸送する「第二次多号作戦」について奏上し、同日8時に、玉兵団を乗せた第二次輸送部隊はマニラを出港している。また、この日の会議に同席していた大西の副官の門司によれば、大西の「たたき斬る」発言ののちは、その場にいた30人~40人指揮官らで声を発するものはおらず、なかでも歴戦の戦闘機指揮官の第203海軍航空隊の飛行長で特攻反対派の岡嶋清熊少佐のように、見るからに反駁している顔つきの者もいて、門司は不安を抱いたということで、PTボート対策の会議はされておらず、主席参謀の猪口によれば、25日の夜に大西と福留が第一航空艦隊と第二航空艦隊の統合について3度目の協議を行って、福留がようやく了承したとのことで、このような会議が行われた事実は確認できない。 このように、美濃部がPTボート対策を開始した経緯は不明であるが、1944年10月末、戦闘901は稼働機全機をもってセブ島の基地に進出し、11月1日より零戦2機ずつをPTボート狩りに出撃させた。PTボートは高速航行するので、航跡でヤコウチュウの光が帯となり上空からは容易く発見でき、またガソリンエンジンで発火しやすいため、エンジンを狙って機銃を撃ちこめば簡単に炎上・爆発すると美濃部は考え、PTボート狩りに出撃する零戦搭乗員に「思い切って肉薄せよ、一撃でよい。」と低空飛行でPTボートに肉薄し弱点であるエンジンに銃撃せよと命じている。美濃部の指示通りPTボートを攻撃した零戦隊は、11月1日~7日のわずか1週間の間で6隻の撃沈を報告した。この損害によりアメリカ軍PTボートは鳴りを潜め、日本軍の夜間の損害は激減したと美濃部は主張し、この成功体験が夜襲部隊構想に対する自信に繋がり、のちの芙蓉部隊編成のきっかけともなったと回想している。 しかし、アメリカ軍側の記録では、10月26日にPT-132、27日にPT-523がいずれも急降下爆撃による被弾で損傷し、13人が戦死、オーストラリア軍従軍記者を含む多数が負傷するという損失を被った後、美濃部らがアメリカ軍PTボート攻撃を開始した1944年11月の戦闘損失は、11月5日に日本軍機の水平爆撃によりPT-320の1隻が全損したのみである。戦闘901の零戦は爆装をしておらず、この戦果は他航空隊の戦果であり、美濃部の主張する戦闘901の戦果はアメリカ軍の記録では確認できないため、当時の日本軍で横行していた過大戦果報告であった。また、PTボートは航空機の機銃掃射で簡単に炎上・爆発すると美濃部は考えていたが、航空機の機銃掃射で撃沈されたアメリカ軍PTボートは、1942年4月9日にフィリピンセブ島近海で、特設水上機母艦讃岐丸から発進した零式水上観測機4機に集中攻撃を受けて撃沈されたPT-34の1隻にすぎなかった。 美濃部の主張とは異なり、PTボートの跳梁に手を焼いた日本軍は特攻機や特攻艇でもPTボートを攻撃したが、PTボートの勢いが衰えることはなく、フィリピン戦において、主要任務の日本軍補給路の寸断や兵員の海上移動の阻止のための、大発動艇や他小型船への攻撃で、1945年3月までに大発動艇などを200隻以上撃沈して海上輸送を困難にさせたうえに、攻撃してきた日本軍機を逆に6機撃墜し、魚雷攻撃によって駆逐艦清霜と卯月を撃沈するなど暴れまわり、他にも特攻艇の破壊やゲリラ支援任務などでも活躍し日本軍を苦しめて、アメリカ軍の勝利に大いに貢献している。 美濃部率いる戦闘901飛行隊がPTボート相手に苦闘しているとき、レイテ島に上陸したアメリカ軍は、確保したばかりのタクロバン飛行場の整備に手間取っており十分な航空支援をできていなかった。そこを陸軍航空隊の富永恭次中将率いる第4航空軍が、タクロバンに展開していたアメリカ第5空軍を相手に連日航空基地を夜襲し、一夜で作戦機100機以上を地上で撃破したり、第345爆撃航空群の航空機41機を撃破し、爆撃機要員100名以上を戦死させるなど大戦果を挙げ、アメリカ軍の揚陸基地も連日夜襲して大量の物資や弾薬を爆砕して、上陸部隊の補給を困難としたり、飛行場近隣にあった総司令官ダグラス・マッカーサー元帥の司令部兼住居も何度も夜間爆撃して、マッカーサーを命の危機にさらすなど善戦していた。アメリカ軍も警戒を強化したが、第4航空軍の攻撃機は警戒するアメリカ軍を嘲笑うかのように、山稜ごしに熟練した操縦技術で低空で侵入し連合軍のレーダーを潜り抜けて、連日猛攻を行った。そのため、レイテ沖海戦で連合艦隊を打ち破ったトーマス・C・キンケイド中将が、「敵航空兵力は驚くほど早く立ち直っており、上陸拠点に対する航空攻撃は事実上歯止めがきかず、陸軍の命運を握る補給線を締め上げる危険がある。アメリカ陸軍航空隊の強力な影響力を確立するのが遅れれば、レイテ作戦全体が危機に瀕する」と考えて、この後に予定されていたルソン島上陸作戦については、「戦史上めったに類を見ない大惨事を招きかねません」と作戦の中止をマッカーサーに上申したほどであった。 これは後に美濃部が「芙蓉部隊」で理想とした夜襲戦術であり、先に第4航空軍が実現させることとなった。第4航空軍の活躍を見て海軍でも、アメリカ軍飛行場の夜襲を計画、11月中旬に第1航空艦隊がタクロバン飛行場に対して零戦による夜襲を行った。美濃部は第一航空艦隊司令部の戦いぶりに幻滅し、「なぜ夜間訓練をしてやらない」などという非難の気持ちを心に秘めて自らの戦闘901を夜襲部隊と標榜していたが、この飛行場への夜襲は美濃部ではなく、戦艦武蔵の艦長として武蔵と運命を共にした猪口敏平中将の息子猪口智中尉が率いる戦闘第165に命じられた。出撃する搭乗員の1人は美濃部の教官時代の教え子であり、その搭乗員は美濃部に駆け寄ると「明日レイテ島タクロバンの銃撃特攻に出ます」と告げた。このときの美濃部にも飛行場夜襲の妙案は特になく「敵の機関銃はレーダー照準で待ち受けている。レイテ進入の山越えは木の葉をかすめるぐらい超低空でないと突入前にやられるぞ」などと、陸軍第4航空軍も行っているレーダー対策を言い聞かせたが、海軍としては慣れない敵基地への夜襲で、出撃12機のうち、指揮官猪口機を含む11機が未帰還となるなど失敗に終わった。 11月10日、大西が美濃部を司令部に呼び出した。美濃部によれば、このとき大西は、多号作戦で日本軍の輸送艦隊の脅威となっているコッソル水道のアメリカ軍飛行艇とPTボート基地への攻撃を命じたが、夜間戦闘機に基地攻撃は困難と渋った美濃部に、大西は基地への特攻を示唆したという。美濃部は「特攻以外の方法で長官の意図に副えるならば、その方がすぐれているわけです。私は、それに全力を尽くすべきと思います」「だいいち、特攻には指揮官は要りません、私は指揮官として自分の方法を持っています。私は部隊の兵の使い方は長官のご指示を受けません」と反論した。「今後俺の作戦指導に対する批判は許さん」「反対する者は叩き切る」と第一航空艦隊幹部に徹底していた大西であったが、この美濃部の反論に対して怒りを見せることもなく、「それだけの抱負と気概を持った指揮官であったか。よし、その特攻は中止して、すべて君に任せる」と意見を認めている。このやり取りののち、大西が「特攻はむごい。しかし、ほかに方法があるか」「若い者に頼るほかない。これは私の信念だ。特攻は続ける」と呟いたのを美濃部は聞いたという。
※この「捷号作戦」の解説は、「美濃部正」の解説の一部です。
「捷号作戦」を含む「美濃部正」の記事については、「美濃部正」の概要を参照ください。
捷号作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 09:35 UTC 版)
詳細は「レイテ沖海戦」を参照 10月18日、捷一号作戦発動に伴って、第二艦隊司令長官栗田健男中将(旗艦愛宕)を指揮官とする第一遊撃部隊(通称栗田艦隊または栗田部隊 )はリンガ泊地から出動した。ブルネイ湾で補給の後、10月22日に出撃した。レイテ沖海戦における浜波は、第一遊撃部隊第一部隊(第四戦隊〈愛宕〔第二艦隊旗艦〕、高雄、鳥海、摩耶〉、第一戦隊〈大和、武蔵、長門〉、第五戦隊〈妙高、羽黒〉、第二水雷戦隊〈能代、島風、第2駆逐隊〔早霜、秋霜〕、第31駆逐隊〔岸波、沖波、朝霜、長波〕、第32駆逐隊〔藤波、浜波〕〉)に所属して戦闘に参加した。 10月23日、アメリカの潜水艦ダーターとデ―スの襲撃により、第四戦隊の高雄型重巡洋艦3隻は大打撃を受けた。愛宕被雷時、第32駆逐隊(浜波、藤波)は第一戦隊(大和、武蔵)の右舷約2kmを航行していたという。高雄および護衛の朝霜と長波はブルネイに向け撤退した。健在の「鳥海」は第五戦隊(司令官橋本信太郎少将)の指揮下に入った。また愛宕脱出後の栗田艦隊司令部(栗田長官、小柳冨次参謀長等)は岸波を経て大和(第一戦隊旗艦)に移乗、大和を第二艦隊旗艦として指揮をとる。 10月24日、栗田艦隊ははシブヤン海で米軍機動部隊艦載機の空襲をうける(レイテ沖海戦・シブヤン海空襲)。一連の空襲により武蔵が沈没、3隻損傷離脱(妙高、浜風、清霜)という損害を受けた。 翌10月25日、栗田艦隊はサマール島沖で米軍機動部隊(護衛空母部隊)を追撃する(サマール島沖海戦。海戦の経過は当該記事を参照)。戦闘開始時の第一遊撃部隊は、第一戦隊(大和〔第二艦隊旗艦〕、長門)、第三戦隊(金剛、榛名)、第五戦隊(羽黒、鳥海)、第七戦隊(熊野、鈴谷、筑摩、利根)、第二水雷戦隊(軽巡〈能代〉、第2駆逐隊〈早霜、秋霜〉、第31駆逐隊〈岸波、沖波〉、第32駆逐隊〈浜波、藤波〉、島風型〈島風〉)、第十戦隊(旗艦〈矢矧〉、第17駆逐隊〈浦風、雪風、磯風、野分〉)であった。第二水雷戦隊は米護衛空母部隊に肉薄できず、大きな戦果はなかった。二水戦は〇九二二時に巡洋艦1隻撃沈を記録している。 10月26日朝、第二水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦能代が、第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の空襲を受けて沈没した。浜波と秋霜は第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将・能代艦長梶原季義大佐を含め二水戦司令部や能代乗員の大部分を救助した。第二水雷戦隊司令官と司令部は浜波に移乗し、浜波は臨時の第二水雷戦隊旗艦となった。一方、沈没した重巡鳥海より乗組員を救助して退避中の姉妹艦藤波(第32駆逐隊)は撤退中に空襲を受け撃沈され、藤波・鳥海乗組員総員が戦死した。 海戦後の遊撃部隊駆逐艦(島風、浜波、秋霜、岸波、浦風)は燃料が切れかかった。そこで先行してコロン島で補給を受けることになり、栗田艦隊主隊に同行する駆逐艦は磯風と雪風に減少した。能代生存者を救助した浜波と秋霜はコロン島に直行、浜波はタンカー日栄丸から補給を受けた。大島司令(浜波座乗)回想によれば、浜波は重巡洋艦那智(第五艦隊旗艦)より燃料補給を受けたという。10月29日午前1時、駆逐艦部隊は遊撃部隊主隊に遅れてブルネイ湾に帰投する。ブルネイに退却後の10月30日、第二水雷戦隊司令部は浜波から大和に移動した。続いて浜波はマニラ移動した。11月5日、マニラ湾空襲により重巡那智が沈没、駆逐艦曙(第7駆逐隊)が大破した。他に駆逐艦沖波(第31駆逐隊)も損傷した。マニラ空襲による被害や諸事情により、優速船団の第四次輸送部隊(部隊指揮官木村昌福少将、第一水雷戦隊司令官)が先にマニラを出撃して第26師団の主力を海上輸送、低速船団の第三次輸送部隊(部隊指揮官は早川幹夫少将、第二水雷戦隊司令官)が軍需品を海上輸送することになった。
※この「捷号作戦」の解説は、「浜波 (駆逐艦)」の解説の一部です。
「捷号作戦」を含む「浜波 (駆逐艦)」の記事については、「浜波 (駆逐艦)」の概要を参照ください。
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