捷号作戦とは? わかりやすく解説

捷号作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/25 05:36 UTC 版)

捷号作戦(しょうごうさくせん)は、第二次世界大戦中に日本陸海軍が計画した比島・台湾・本土方面で基地航空部隊によって敵を要撃する作戦[1]。決戦方面によって一号から四号まで定められ、アメリカ軍のレイテ島への進攻を受けて1944年10月18日に捷一号作戦が発動された。




注釈

  1. ^ 当時、第一遊撃部隊は小沢長官の第一機動艦隊の指揮下にある
  2. ^ 機動部隊命令作第76号別紙 一般作戦方針 2項
  3. ^ 機動部隊命令作第76号別紙 第二 具体的作戦方針捷一号二号作戦 友軍の作戦
  4. ^ 機動部隊命令作第76号別紙 第二 具体的作戦方針捷一号二号作戦 機動部隊の作戦㈠第一遊撃部隊
  5. ^ 機動部隊命令作第76号別紙 第二 具体的作戦方針捷一号二号作戦 機動部隊の作戦🉂本隊
  6. ^ 後年小沢はGHQの調査による陳述書において、この時の事を「中略…余りにも拙い微力な航空戦力を以てしては、全水上部隊の主力となりえず、僅かに水上艦艇の偵察か上空警戒を担当する程度の実勢にすぎないであろう。このような航空戦隊に乗艦して、私が戦艦部隊を含めて水上部隊の最高指揮官となることは砲戦力を主とする栗田中将の自由な指揮を拘束するばかりでなく、その作戦遂行上も不利が多いと考え、豊田大将の希望案に対して強く反対した。」と述べている
  7. ^ あ号作戦時の軍隊区分では前衛部隊
  8. ^ 以降第二艦隊は「第一遊撃部隊」と区分される
  9. ^ 但し松浦五郎中佐と山田武中佐は米軍のテニアン侵攻時は同島不在で玉砕の難を逃れ、引き続き第一航空艦隊参謀として寺岡中将の司令部に参加している
  10. ^ 一航艦司令部が陸路移動の途上、意見具申の為に司令部へ向かっていた戦闘第九〇一飛行隊長の美濃部正大尉と出会い、彼の「艦隊司令部からの敵上陸の報を受けたダバオ第二基地にいたが、基地から湾内を一望しても何処にもそのようなものは見えなかった」「ダバオ第一基地の零戦で自分自身が飛んで湾内を確認するので、それまで司令部の移動をまってほしい」などの進言を受け、移動を一時見合わせる。美濃部はダバオ第一基地に向かい、1時間後に発進し湾内を偵察、敵が居ないことを確認し信号を発信、ミンタルに到着していた司令の寺岡は美濃部の報告を聞いて「ダバオ地区に敵上陸の事実なし」との取り消し電報を部内全軍に発令した、との美濃部の著書や戦史叢書(37巻「海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで」だけ41巻「捷号陸軍作戦(1)レイテ決戦」には美濃部の名前は登場せず)には記述があるが、この記述の殆どは美濃部自身の証言に基づくもので、一航艦の主席参謀猪口や事件後に調査した軍令部参謀の奥宮はいずれも偵察は玉井が行ったと著書に記述している。
  11. ^ これは捷号作戦の基地航空隊への各作戦要領のなかで現存する唯一のものである
  12. ^ この原因は配備機数の遅れではなく、稼働機数の低下が主因である。前線に届いても部隊整備能力の低下や、不適切な製造による紫電や銀河など新鋭機の品質低下などの理由により稼働できない機が続出した
  13. ^ 第二航空艦隊司令長官指揮下の陸軍飛行第九八戦隊のこと
  14. ^ 黒田は米軍がルソンに直接上陸すると考え戦力の過半をそこに配置。南部には2個旅団程度、中部には配置しないよう考えていたが南方総軍は分散配備と考え、方面軍の頭越しに海軍や航空軍と調整し方針を固め、それを方面軍に押し付け方面軍に統帥の余裕を与えなかった
  15. ^ これは所属空母の中で、航空機の準備が間に合わず未搭載の空母が何隻かあった場合でも、状況によっては連れて行く場合があるという意味であり、「艦隊自体に航空機がなくても空母を囮として連れて行く」という意味ではない

出典

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  2. ^ 戦史叢書37 海軍捷号作戦<1>台湾沖航空戦まで まえがき
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  6. ^ 『失敗の本質—日本軍の組織論的研究』(中公文庫)
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  50. ^ 小柳冨次著「栗田艦隊 レイテ沖海戦秘録」53p
  51. ^ アメリカ戦略爆撃調査団による質疑 質問者James A. Field海軍予備少佐 1945年10月24日(英語版)の最初の回答。
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  104. ^ 防衛研修所1970a, p. 50.
  105. ^ 小柳冨次は特攻兵器の基地としている(小柳冨次『栗田艦隊—レイテ沖海戦秘録』光人社NF文庫、1995年、P57)
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捷号作戦

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美濃部正」の記事における「捷号作戦」の解説

詳細は「捷号作戦」を参照 10月20日レイテ島アメリカ軍上陸開始レイテ島の戦い始まった大本営捷一号作戦発動連合艦隊アメリカ軍上陸部隊殲滅するためレイテ湾目指し第1航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将は、関行男大尉指揮官とする神風特別攻撃隊編成してアメリカ軍艦隊迎え撃ったまた、陸軍航空隊富永恭次中将率い第4航空軍アメリカ軍輸送艦隊の攻撃や、連合艦隊突入支援のため三式戦闘機「飛燕」制空戦闘行い両軍の間で太平洋戦争最大規模の海空戦となるレイテ沖海戦展開されたが、アメリカ軍上陸1ヶ月前に壊滅し残機零戦わずか4機となっていた戦闘901戦闘参加することはなく、美濃部は完全に蚊帳の外であった。 関率い神風特別攻撃隊は、連日出撃でもアメリカ軍艦隊接敵することができなかったが、5回目出撃となった10月25日アメリカ軍艦隊攻撃成功し護衛空母撃沈を含む大きな戦果挙げたその夜第一航空艦隊航空隊指揮官がストッツェンベルグの第七六一海軍航空隊士官室に集められて、大西から第一航空艦隊第二航空艦隊統合して連合基地航空隊編成されたことや、本日神風特別攻撃隊体当たり敢行したことの説明があり、「自分は、日本が勝つ道はこれ以外にないと信ずるので、今後特攻隊続ける。このことに批判許さない反対するものはたたき斬る」と強い口調申し渡している。美濃部によれば、この会議ではアメリカ軍PTボート対策についても協議したとしており、その会議の席で大西は「陸海軍レイテ島侵攻米軍対し陸軍玉兵団25,000人をレイテ島逆上陸させ、敵を撃滅させる」などと話したのち、その支障となるPTボート対策について、参加した指揮官らに意見求めたとしている。誰も発言しないなかで、他の先任指揮官たちに遠慮して発言控えていた美濃部が「やります。敵の懐セブ島進出します。オルモック湾までわずか60キロ昼間飛行機ジャングル隠し夜間出撃します」と自分部隊任せてほしいと発言すると、大西から「うむ、よし。魚雷艇153空任す634空水爆隊も協力せよ」とPTボート対策を、江村日雄少佐率い第六三四海軍航空隊水上機瑞雲と共に任されたなどと美濃部主張している。 しかし、玉兵団レイテ派遣されることが決定したのは、この会議2日後10月27日であり、25日時点では陸軍内でも確定してはおらず、この時点海軍大西このような確定的な話をするのは不可能であり、正式に10月31日及川古志郎軍令部総長昭和天皇玉兵団レイテ島輸送する第二次多号作戦」について奏上し同日8時に玉兵団乗せた第二次輸送部隊マニラ出港している。また、この日の会議同席していた大西副官門司によれば大西の「たたき斬る発言ののちは、その場にいた30人40人指揮官らで声を発するものはおらずなかでも歴戦戦闘機指揮官の第203海軍航空隊飛行長で特攻反対派岡嶋清熊少佐のように、見るから反駁している顔つきの者もいて、門司は不安を抱いたということで、PTボート対策会議はされておらず、主席参謀猪口によれば25日夜に大西福留第一航空艦隊第二航空艦隊統合について3度目協議行って福留がようやく了承したとのことで、このような会議が行われた事実確認できないこのように美濃部PTボート対策開始した経緯不明であるが、1944年10月末、戦闘901稼働全機をもってセブ島基地進出し11月1日より零戦2機ずつをPTボート狩り出撃させた。PTボート高速航行するので、航跡ヤコウチュウの光が帯となり上空からは容易く発見でき、またガソリンエンジン発火しやすいため、エンジン狙って機銃撃ちこめば簡単に炎上爆発する美濃部考えPTボート狩り出撃する零戦搭乗員に「思い切って肉薄せよ、一撃でよい。」と低空飛行PTボート肉薄し弱点であるエンジン銃撃せよと命じている。美濃部指示通りPTボート攻撃した零戦隊は、11月1日7日のわずか1週間の間で6隻の撃沈報告した。この損害によりアメリカ軍PTボート鳴り潜め日本軍夜間の損害激減した美濃部主張し、この成功体験夜襲部隊構想対す自信繋がり、のちの芙蓉部隊編成きっかけともなった回想している。 しかし、アメリカ軍側の記録では、10月26日にPT-132、27日にPT-523がいずれも急降下爆撃による被弾損傷し13人が戦死オーストラリア軍従軍記者を含む多数負傷するという損失被った後、美濃部らがアメリカ軍PTボート攻撃開始した1944年11月戦闘損失は、11月5日日本軍機の水平爆撃によりPT-320の1隻が全損したのみである。戦闘901零戦爆装をしておらず、この戦果は他航空隊戦果であり、美濃部主張する戦闘901戦果アメリカ軍記録では確認できないため、当時日本軍横行していた過大戦果報告であったまた、PTボート航空機機銃掃射簡単に炎上爆発する美濃部考えていたが、航空機機銃掃射撃沈されたアメリカ軍PTボートは、1942年4月9日にフィリピンセブ島近海で、特設水上機母艦讃岐丸から発進した零式水上観測機4機に集中攻撃受けて撃沈されたPT-34の1隻にすぎなかった。 美濃部主張とは異なりPTボート跳梁手を焼いた日本軍特攻機特攻艇でもPTボート攻撃したが、PTボート勢い衰えことはなく、フィリピン戦において、主要任務日本軍補給路の寸断兵員海上移動阻止のための、大発動艇や他小型船への攻撃で、1945年3月までに大発動艇などを200隻以上撃沈し海上輸送困難にさせたうえに、攻撃してきた日本軍機を逆に6機撃墜し魚雷攻撃によって駆逐艦清霜卯月撃沈するなど暴れまわり、他にも特攻艇の破壊ゲリラ支援任務などでも活躍し日本軍苦しめてアメリカ軍勝利大い貢献している。 美濃部率い戦闘901飛行隊PTボート相手苦闘しているとき、レイテ島上陸したアメリカ軍は、確保したばかりのタクロバン飛行場整備手間取っており十分な航空支援をできていなかった。そこを陸軍航空隊富永恭次中将率い第4航空軍が、タクロバン展開していたアメリカ第5空軍相手連日航空基地夜襲し、一夜作戦機100機以上を地上撃破したり、第345爆撃航空群の航空機41機を撃破し爆撃機要員100名以上を戦死させるなど大戦果を挙げアメリカ軍揚陸基地連日夜襲して大量物資弾薬爆砕して、上陸部隊補給を困難としたり、飛行場近隣にあった総司令官ダグラス・マッカーサー元帥司令部住居何度も夜間爆撃してマッカーサーを命の危機にさらすなど善戦していた。アメリカ軍警戒強化したが、第4航空軍攻撃機警戒するアメリカ軍嘲笑うかのように山稜ごしに熟練した操縦技術低空侵入し連合軍レーダー潜り抜けて、連日猛攻行った。そのため、レイテ沖海戦連合艦隊打ち破ったトーマス・C・キンケイド中将が、「敵航空兵力は驚くほど早く立ち直っており、上陸拠点対す航空攻撃事実上歯止めがきかず、陸軍命運を握る補給線締め上げる危険がある。アメリカ陸軍航空隊強力な影響力確立するのが遅れれば、レイテ作戦全体危機瀕する」と考えてこの後予定されていたルソン島上陸作戦については、「戦史上めったに類を見ない大惨事招きかねません」と作戦中止マッカーサー上申したほどであった。 これは後に美濃部が「芙蓉部隊」で理想とした夜襲戦術であり、先に第4航空軍実現させることとなった第4航空軍活躍見て海軍でも、アメリカ軍飛行場夜襲計画11月中旬第1航空艦隊タクロバン飛行場に対して零戦による夜襲行った美濃部第一航空艦隊司令部戦いぶり幻滅し、「なぜ夜間訓練してやらない」などという非難気持ちを心に秘めて自らの戦闘901夜襲部隊標榜していたが、この飛行場への夜襲美濃部ではなく戦艦武蔵艦長として武蔵運命を共にした猪口敏平中将息子猪口中尉率い戦闘165命じられた。出撃する搭乗員1人美濃部教官時代教え子であり、その搭乗員美濃部駆け寄ると「明日レイテ島タクロバン銃撃特攻出ます」と告げた。このときの美濃部にも飛行場夜襲妙案は特になく「敵の機関銃レーダー照準待ち受けている。レイテ進入山越え木の葉かすめるぐらい超低空でないと突入前にやられるぞ」などと、陸軍第4航空軍行っているレーダー対策言い聞かせたが、海軍としては慣れない敵基地への夜襲で、出撃12機のうち、指揮官猪口機を含む11機が未帰還となるなど失敗終わった11月10日大西美濃部司令部呼び出した美濃部によれば、このとき大西は、多号作戦日本軍輸送艦隊の脅威となっているコッソル水道アメリカ軍飛行艇PTボート基地への攻撃命じたが、夜間戦闘機基地攻撃は困難と渋った美濃部に、大西基地への特攻示唆したという。美濃部は「特攻以外の方法長官意図副えるならば、その方すぐれているわけです。私は、それに全力尽くすべきと思います」「だいいち特攻には指揮官要りません、私は指揮官として自分方法持ってます。私は部隊の兵の使い方長官ご指示を受けません」と反論した。「今後俺の作戦指導対す批判は許さん」「反対する者は叩き切る」と第一航空艦隊幹部徹底していた大西であったが、この美濃部の反論に対して怒り見せることもなく、「それだけ抱負気概持った指揮官であったか。よし、その特攻中止して、すべて君に任せる」と意見認めている。このやり取りののち、大西が「特攻はむごい。しかし、ほかに方法があるか」「若い者に頼るほかない。これは私の信念だ。特攻続ける」と呟いたのを美濃部聞いたという。

※この「捷号作戦」の解説は、「美濃部正」の解説の一部です。
「捷号作戦」を含む「美濃部正」の記事については、「美濃部正」の概要を参照ください。


捷号作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/17 09:35 UTC 版)

浜波 (駆逐艦)」の記事における「捷号作戦」の解説

詳細は「レイテ沖海戦」を参照 10月18日捷一号作戦発動伴って第二艦隊司令長官栗田健男中将旗艦愛宕)を指揮官とする第一遊撃部隊通称栗田艦隊または栗田部隊 )はリンガ泊地から出動したブルネイ湾補給の後、10月22日出撃した。レイテ沖海戦における浜波は、第一遊撃部隊第一部隊第四戦隊愛宕第二艦隊旗艦〕、高雄鳥海摩耶〉、第一戦隊〈大和、武蔵長門〉、第五戦隊妙高羽黒〉、第二水雷戦隊能代島風、第2駆逐隊早霜秋霜〕、第31駆逐隊岸波沖波朝霜長波〕、第32駆逐隊藤波、浜波〕〉)に所属して戦闘参加した10月23日アメリカ潜水艦ダーターとデ―スの襲撃により、第四戦隊高雄型重巡洋艦3隻は大打撃受けた愛宕被雷時、第32駆逐隊(浜波、藤波)は第一戦隊(大和、武蔵)の右舷約2kmを航行していたという。高雄および護衛朝霜長波ブルネイに向け撤退した健在の「鳥海」は第五戦隊司令官橋本信太郎少将)の指揮下に入った。また愛宕脱出後の栗田艦隊司令部栗田長官小柳冨次参謀長等)は岸波経て大和第一戦隊旗艦)に移乗大和第二艦隊旗艦として指揮をとる10月24日栗田艦隊ははシブヤン海米軍機部隊艦載機空襲をうける(レイテ沖海戦シブヤン海空襲)。一連の空襲により武蔵沈没、3隻損傷離脱妙高浜風清霜)という損害受けた。 翌10月25日栗田艦隊サマール島沖で米軍機部隊護衛空母部隊)を追撃する(サマール島沖海戦海戦の経過当該記事参照)。戦闘開始時の第一遊撃部隊は、第一戦隊(大和第二艦隊旗艦〕、長門)、第三戦隊(金剛榛名)、第五戦隊羽黒鳥海)、第七戦隊熊野鈴谷筑摩利根)、第二水雷戦隊軽巡能代〉、第2駆逐隊早霜秋霜〉、第31駆逐隊岸波沖波〉、第32駆逐隊〈浜波、藤波〉、島風型〈島風〉)、第十戦隊旗艦矢矧〉、第17駆逐隊浦風雪風磯風野分〉)であった第二水雷戦隊は米護衛空母部隊肉薄できず、大きな戦果はなかった。二水戦は〇九二二時に巡洋艦1隻撃沈記録している。 10月26日朝、第二水雷戦隊旗艦軽巡洋艦能代が、第38任務部隊マーク・ミッチャー中将)の艦載機空襲受けて沈没した。浜波と秋霜第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将能代艦長梶原季義大佐含め二水司令部能代乗員大部分救助した第二水雷戦隊司令官司令部は浜波に移乗し、浜波は臨時第二水雷戦隊旗艦となった一方沈没した重巡鳥海より乗組員救助して退避中の姉妹艦藤波第32駆逐隊)は撤退中に空襲を受け撃沈され、藤波鳥海乗組員総員戦死した海戦後遊撃部隊駆逐艦島風、浜波、秋霜岸波浦風)は燃料が切れかかった。そこで先行してコロン島補給を受けることになり、栗田艦隊主隊に同行する駆逐艦磯風雪風減少した能代生存者救助した浜波と秋霜コロン島直行、浜波はタンカー日栄丸から補給受けた大島司令(浜波座乗回想によれば、浜波は重巡洋艦那智第五艦隊旗艦)より燃料補給受けたという。10月29日午前1時、駆逐艦部隊遊撃部隊主隊に遅れてブルネイ湾帰投する。ブルネイ退却後の10月30日第二水雷戦隊司令部は浜波から大和移動した続いて浜波はマニラ移動した11月5日マニラ湾空襲により重巡那智沈没駆逐艦曙(第7駆逐隊)が大破した。他に駆逐艦沖波第31駆逐隊)も損傷したマニラ空襲による被害諸事情により、優速船団第四次輸送部隊部隊指揮官木村昌福少将第一水雷戦隊司令官)が先にマニラ出撃して第26師団主力海上輸送低速船団第三次輸送部隊部隊指揮官早川幹夫少将第二水雷戦隊司令官)が軍需品海上輸送することになった

※この「捷号作戦」の解説は、「浜波 (駆逐艦)」の解説の一部です。
「捷号作戦」を含む「浜波 (駆逐艦)」の記事については、「浜波 (駆逐艦)」の概要を参照ください。

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