猪口敏平とは? わかりやすく解説

猪口敏平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/06 03:53 UTC 版)

猪口 敏平(いのぐち としひら、1896年明治29年)8月11日 - 1944年昭和19年)10月24日)は、日本海軍軍人鳥取県出身[注釈 1]戦艦武蔵艦長として戦死し[2]、一階級特進で最終階級海軍中将[3]


注釈

  1. ^ 石廊慰問二件[1] 在桑港鳥取縣人會にては去る十五日折から入港中の特務艦石廊に艦長猪口大佐並に同縣出身全乗組員各士に美事なる慰問袋を贈呈、縣人會長後藤氏ほか磯江、下村三氏親しく訪問して敬意を表した。/なほ同日市内岡山縣人明樂次男氏夫妻もまた同艦水兵全部に對し多額の慰問品を贈呈、大いに感謝された、(記事おわり)
  2. ^ 重油搭載の使命で……特務艦「石廊」入港[7] 帝國特務艦石廊は去る十一月十九日横須賀を出港、艦長猪口敏平大佐(鳥取縣出身)の操舵で太平洋を横斷昨十二日桑港へ到着した(中略)十年振り來航 航海は平穏だつた 艦長猪口敏平大佐語る 特務艦石廊艦長猪口敏平大佐は左の如く語つた
     最近特務艦が相ついで御地に入港し在留邦人の熱誠なる歡待を受け誠に感謝に堪えない、本艦が當地へ入港することは約十年ぶりであるが、ロサンゼルスへは數度参りましたが、去る十一月十九日横須賀を出港前に全員が靖國神社および橿原神宮を参拝したためか航海は非常に無事で豫定通り入港出來ました。十一日午後桑港を出港した僚艦早鞆を心がけてゐたところ、夜になつてその姿を見かけ信號を送り久しぶりに挨拶を交してゐると、目下演習中の米國海軍が、「何をしてゐるか、船名を知らせ」と問ひかけて來たので、こちらから「お前は何だ」と質問したら何ら答へず姿を消してしまつたが、陸では盛んに照明燈を輝して防空演習をやつてゐるのが見えました、米國が非常に緊張してゐることがうかがえました、時節柄ホノルルへも寄港出來ぬため水兵の上陸に種々御盡力下さるやう希望します、(記事おわり)
  3. ^ 心からなる歡待に 深甚の感謝……特務艦石廊艦長猪口大佐来社[1] 特務艦石廊は昨日午後二時當地を出港、一路呉へ歸航の途についたが、艦長海軍大佐猪口敏平氏は出港に先だち總領事中島氏の案内で本社を来訪して左の如く語つた、 僕は米國へは縁が薄く今回が初めてで、わづかな滯在であつたが各地を視察させて貰つたが、各地で在留邦人が非常に力強い基礎の下に活動してゐるのを見て實に愉快に感じた、特に今回は乗組員に對して各方面から心からなる歡待を受け、又加州農産物を山のやうに頂き重ね重ねの厚意に對し深く感謝してゐる次第である、貴氏を通じて在留邦人諸氏へ宜しく傳へて貰ひたい、(記事おわり)
  4. ^ 猪口艦長から感謝電 總領事官へ[10] 一昨日在留官民の熱誠なる見送りを受けて出港した特務艦々長猪口敏平海軍大佐より十八日總領事官河崎總領事代理あて左の如き感謝電報を寄せた 御一同に傳へられたし、懐かしき思ひ出の一夜を明かし、新たに官民よりの熱誠なる御歡待を深謝す、荒い西南の風濤おさまらず、波浪は常に嶮を孕む、乗員士氣旺盛、重疊の波浪を越え一路西進せんとす、遙かに御一同の健康を祈る 猪口 敏平(記事おわり)
  5. ^ 後任は、同年1月3日付で第十六戦隊司令部付だった植田弥之介大佐[19]
  6. ^ 黛大佐は、1943年(昭和18年)2月23日付で横須賀海軍砲術学校教頭に補職される[23]。12月1日付で免教頭、補利根艦長[25]。黛の後任が猪口[25]
  7. ^ 高松宮の海軍砲術学校教頭補職は、8月21日付[26]
  8. ^ 戦闘詳報では「防空指揮所ニ於テ艦長猪口敏平右肩部重傷 高射長海軍少佐廣瀬榮助、測的長先任艦長附海軍大尉山田武男戰死」と記述する[32]。副長・加藤憲吉大佐の記憶では軽傷[33]

脚注

  1. ^ a b c Shin Sekai Asahi Shinbun 1940.12.18、新世界朝日新聞/nws_1940.12.18(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022440200  p.3
  2. ^ #武蔵戦闘詳報 p.17〔 一九三五|沈没 位置東經一二二度三二分 北緯一三度七分 水深八〇〇米 艦長ハ第二艦橋ニ於テ最後迄指揮ヲ執リ戰死(副長確認)〕
  3. ^ a b 昭和20年2月17日(発令昭和19年10月24日付)海軍辞令公報(甲)第1724号 p.48」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103400 
  4. ^ 大正7年11月22日 官報第1892号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2954006 p.3
  5. ^ 佐藤和正『艦と乗員たちの太平洋戦争』光人社44頁
  6. ^ 昭和15年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第543号 p.32」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000 
  7. ^ Shin Sekai Asahi Shinbun 1940.12.13、新世界朝日新聞/nws_1940.12.13(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022439200  p.3
  8. ^ Nichibei Shinbun, 1940.12.16、日米新聞/jan_1940.12.6(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J2001202000  p.3〔 石廊の水兵さん達 今日も市内見物/婦人聯盟で大いに接待 講演と映畫十六日 〕
  9. ^ Shin Sekai Asahi Shinbun 1940.12.17、新世界朝日新聞/nws_1940.12.17(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022440000  p.3〔 石廊今日サヨナラ アツトホーム 午前十一時半から艦上で…/われらの艦長を歡待の宴 弓濱同志會 〕
  10. ^ Shin Sekai Asahi Shinbun 1940.12.19、新世界朝日新聞/nws_1940.12.19(スタンフォード大学フーヴァー研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.J21022440400  p.3
  11. ^ 昭和16年5月26日(発令5月24日付)海軍辞令公報(部内限)第642号 p.14」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081100 
  12. ^ 昭和17年5月5日(発令5月5日付)海軍辞令公報(部内限)第854号 p.48」 アジア歴史資料センター Ref.C13072112000 
  13. ^ 昭和17年7月1日(発令7月1日付)海軍辞令公報(部内限)第892号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086200 
  14. ^ #S17.12十六戦隊戦時日誌(5) pp.6-7、pp.35-36
  15. ^ #S17.12十六戦隊戦時日誌(6) p.47
  16. ^ 「18年1月1日~18年1月12日」、昭和17.10.1~昭和18.1.31 太平洋戦争経過概要 その4(防衛省防衛研究所)」 アジア歴史資料センター Ref.C16120634600  pp.15-16(昭和18年1月9日)
  17. ^ #S17.12十六戦隊戦時日誌(5) p.9
  18. ^ 昭和18年1月22日(発令1月20日)海軍辞令公報(部内限)第1038号 p.15」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089400 
  19. ^ #S17.12十六戦隊戦時日誌(5) p.11
  20. ^ #S17.12十六戦隊戦時日誌(6) pp.7-8、pp.11-13
  21. ^ #S17.12十六戦隊戦時日誌(5) p.10
  22. ^ #S17.12十六戦隊戦時日誌(6) pp.49-51
  23. ^ a b c 昭和18年2月24日(発令2月23日付)海軍辞令公報(部内限)第1058号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089800  〔 p.12 朝倉免高雄艦長、猪口補高雄艦長/p.13 黛治夫補横須賀海軍砲術学校教頭 〕
  24. ^ 昭和18年11月1日(発令10月28日付)海軍辞令公報(部内限)第1252号 p.8」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094200 
  25. ^ a b c d 昭和18年12月1日(発令12月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1272号 p.49」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094600 
  26. ^ 昭和19年8月23日(発令8月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1572号 p.47」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100600 
  27. ^ 昭和19年8月8日(発令8月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1557号 p.34」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100400 
  28. ^ 昭和19年8月16日(発令8月12日付)海軍辞令公報(部内限)第1565号 p.3」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100600 
  29. ^ 昭和19年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(甲)第1620号 p.8」 アジア歴史資料センター Ref.C13072101600 
  30. ^ 慟哭の海 1967, pp. 140–141.
  31. ^ #武蔵戦闘詳報 pp.24-25
  32. ^ #武蔵戦闘詳報 pp.10-12
  33. ^ 戦史叢書56 海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦 181頁
  34. ^ #武蔵戦闘詳報 p.19
  35. ^ #武蔵戦闘詳報 p.20
  36. ^ 戦史叢書56 海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦 196頁
  37. ^ 戦史叢書56 海軍捷号作戦<2>フィリピン沖海戦 198頁
  38. ^ 『官報』第2132号「叙任及辞令」1919年9月11日。
  39. ^ THE 歴史列伝〜そして傑作が生まれた〜 BS-TBS 2015年8月14日放送回


「猪口敏平」の続きの解説一覧

猪口敏平

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 05:17 UTC 版)

征途」の記事における「猪口敏平」の解説

史実では武蔵艦長としてシブヤン海戦死した人物

※この「猪口敏平」の解説は、「征途」の解説の一部です。
「猪口敏平」を含む「征途」の記事については、「征途」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「猪口敏平」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「猪口敏平」の関連用語

猪口敏平のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



猪口敏平のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの猪口敏平 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの征途 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS