石狩丸
石狩丸
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1945年(昭和20年)3月1日 - 起工(三菱重工横浜造船所) 1946年(昭和21年)7月6日 - 竣工 1946年(昭和21年)7月23日 - 就航、進駐軍専用船指定 1947年(昭和22年)4月 - 前部デッキハウスに進駐軍用供食設備と将官室設置12月12日 -【石狩丸難航】吹雪を伴う強い西風の中 進駐軍函館RTO の命令で11時19分函館を出航、難航のすえ三厩湾錨泊後、翌日青森着 1949年(昭和24年)3月 - 主機換装(三菱神戸式1段減速歯車付衝動反動タービン2,250軸馬力2台)、発電機増設50kVA 2台から3台へ(三菱重工横浜造船所) 1950年(昭和25年) 12月2日 - レーダー装備 1951年(昭和26年) 4月29日 - 沖停泊中発電機始動時タービン爆裂し操缶手死亡 1952年(昭和27年) 4月1日 - サンフランシスコ講和条約発効による占領終了を前に、進駐軍専用船指定解除。 1954年(昭和29年)9月26日 - 洞爺丸台風来襲の日、1201便として、強風の中18時40分函館第2岸壁へ着岸した。しかしさらに強まった風で係留索は切断され、20時15分自然離岸し、20時25分防波堤内第2航路上に錨泊する形となり沈没を免れた。9月28日 - 変80便(函館第1岸壁16時40分発 青森第1岸壁21時50分着)で復帰 1957年(昭和32年)2月 - ボートダビット取替(函館ドック) 1958年(昭和33年)7月 - デッキハウス撤去、車両甲板放水口設置、客載車両渡船から車両渡船に改造、総トン数2,913.1トンとなる(函館ドック) 1959年(昭和34年)6月 - ストーカー装備、二重底化改造(函館ドック) 1965年(昭和40年)9月30日 - 211便(青森第3岸壁定刻57分遅れの16時57分発 函館定刻20時30分着のところ有川桟橋うねり強く沖待ちの後 函館第3岸壁10月1日8時01分着)にて終航。 1965年(昭和40年)11月27日 - 三菱商事に売却
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石狩丸
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1988年(昭和63年)7月から9月にかけて北海道 広尾町で開催された十勝海洋博覧会で十勝港第3埠頭で展示公開され、夜間はシップホテルとしても使用された。同年11月、大阪の陸運倉庫会社の酒本商事に4億円で売却され、11月30日尾道に向け函館を出港した。酒本商事は、関西国際空港の工事用ホテルシップとして使用するため、収容人数約800人の個室化や大浴場、会議室、特定郵便局の設置などの改装を施し、1989年(平成元年)秋の完成を予定していた。 しかしこの計画は実現せず、使用されないまま香港の会社に売却された。さらに、キプロスの船会社に売却されて「LADY TERRY」と改称。さらに1990年(平成2年)にはギリシャの船会社「POSEIDON LINES Shipping」に売却され、「LASITHI」と改名するとともにカーフェリーに改造され使用された後、1992年(平成4年)には「SEA HARMONY II」と改称され地中海航路で使用され、さらに2001年(平成13年)には「OLYMNPIA I」に改称されている。2002年(平成14年)に航路休止した後は、ヨーロッパやアフリカの船会社にチャーターされ、地中海・紅海などで使用されたが、2006年(平成18年)6月にインドで解体された。
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石狩丸(2代)
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「十和田丸 (初代)」の記事における「石狩丸(2代)」の解説
函館ドックでの半年間の改造工事を終え、1967年(昭和42年)5月6日再就航した。 遊歩甲板の甲板室は船尾側の半分、すなわち2等(旧3等)雑居室を含め左舷側は旅客食堂の半ばから、右舷側は1等(旧2等)雑居室の半ばから船尾側の甲板室は全て撤去され、残った前方の甲板室は、端艇甲板が高級船員居住区に、遊歩甲板改め船楼甲板が普通船員居住区に改装され、船楼甲板機関室囲壁左舷側の1等(旧2等)椅子席部分が船首側から高級船員食堂、普通船員食堂に、旅客食堂部分前半分が調理室に改装された。これに伴い、車両甲板下や車両甲板舷側の船員居室は全て廃止された。このため、煙突より前半分は十和田丸の面影を残していた。従来からの煙突はボイラーと発電機からの排気を受け持ち、主機械からの排気は煙突の船尾側に新設された左右に近接して並ぶ2本のツノ型の排気筒が受け持った。なお、端艇甲板の救命艇は右舷最前部の1隻のみ救助艇として残された。撤去された救命艇のうちの一艘は長らく保管され、1871年(明治4年)に木古内町サラキ岬沖合で沈没した咸臨丸のミニチュアモニュメントに改造されたうえで、2007年(平成19年)4月よりサラキ岬にて展示されている[要出典]。 車両甲板では中甲板が船首部のみ残して撤去され、機関室囲壁幅も1.2mに縮小され、船内軌道は檜山丸型同様、船尾3線、車両甲板の大部分で4線となるよう敷設し直された結果、ワム換算43両の積載が可能となった。これにより、車両甲板左舷の船室内に設置されていた水密辷戸動力室は、第1と第2が船楼甲板の甲板室内の前部機関室囲壁右舷に、第3と第4がツノ型の排気筒の直下右舷の機関室囲壁外に、第5が船楼甲板左舷の係船指揮台の前方に移設された。 十和田丸時代は船内軌道2線のため、ヒーリングタンクにはポンプ室側面の容量177.4トンの第4舷側タンクが使用されていたが、船内軌道4線化で、これでは容量不足のため、前隣の機械室側面の第3舷側タンクと、第4舷側タンクの前半分を連結して片舷容量297.1トンと293.5トンのヒーリングタンクとし、前年建造された津軽丸型第7船 十和田丸(2代)と同等の、85kW交流誘導電動機駆動可変ピッチプロペラ式軸流ポンプを装備したヒーリングシステム1セットに換装し、機能向上が図られた。 船尾水密扉も津軽丸型と同じ、電動油圧式トルクヒンジ駆動の3線幅の大型のものに取り替えられ、ポンプ操縦室を含む船尾部分は津軽丸型とほぼ同じ形に改造されたため、船体後半は後に建造された渡島丸型に似たものとなった。 係船機械は十和田丸時代は、それ以前からの連絡船同様、遊歩甲板(石狩丸では船楼甲板)船首の揚錨機1台と船尾車両甲板両舷のキャプスタン1台ずつだけであった。この改造工事で、船首船楼甲板左舷に1ドラム型、右舷に2ドラム型の係船ウインチが追加設置された。また船尾はこの改造工事で大きく形を変え、上記の船尾キャプスタンはその周囲の景色共々消失し、新しく船尾船楼甲板上に、左舷に1ドラム型、右舷に2ドラム型の係船ウインチが新設された。いずれも汽動式ながら、津軽丸型同様、船首では一段高くなった船首指揮台の操縦スタンドから、船尾では船尾左舷の指揮台の操縦スタンドから遠隔操縦できるように。揚錨機も同様に遠隔操縦できるよう改造された。これにより着岸時、各係船ウインチで直接それぞれの担当の係船索を巻き込めるようになり、離着岸時の省力化が進められた。 操舵室には主機遠隔操縦装置が設置され、主機械の発停、正逆転、回転数制御が操舵室から直接できるようになり、固定ピッチプロペラながら、より迅速なプロペラ制御が可能となった。また通常着岸時に船長が立つ操舵室左舷端から、右舷船尾を押す補助汽船の動向、ならびに船尾と可動橋との状況が監視できるよう、工業用テレビカメラが、船尾から約40mの船楼甲板右舷側とポンプ操縦室頂部に試験的に設置され、モニターテレビ2台が操舵室左舷後面に設置された。機関部では機械室中段への監視室設置などの近代化工事も行われたが、機関出力に変化はなく、青森 - 函館(有川)間 下り4時間30分 上り4時間35分のままであった。 塗装は乳白色(7.5Y9/0.5)と藍色(2.5PB2.5/7)に変更され、塗り分け線も約1.2m上がり檜山丸型や津軽丸型とほぼ同じ高さとなった。ファンネルマークは改造当初は十和田丸時代と変わらず「工」であったが、最後の蒸気タービン船が引退した1970年(昭和45年)、「JNR」に変更された。 再就航後は、航海速力、車両積載数が同一の檜山丸型2隻と共通運用されたが、渡島丸型第6船の3代目石狩丸就航を前に、1977年(昭和52年)3月18日に終航し、同年7月21日 共和商会に売却され、その後、大韓民国で解体された。
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