石狩丸 (初代)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/01 06:38 UTC 版)
石狩丸(いしかりまる)は、運輸省鉄道総局、ならびに日本国有鉄道が青函航路で運航した客載車両渡船で、後年旅客設備は撤去され、車両渡船として運航された。
|
- ^ a b 小野塚一郎『戦時造船史 - 太平洋戦争と計画造船 -』p88 財団法人日本海事振興会1962 今日の話題社(復刻版発行)1989
- ^ a b c d 『青函連絡船史』p160 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ a b 古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p114 成山堂書店1988
- ^ 『関釜連絡船史』p95 国鉄広島鉄道管理局1979
- ^ 古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p98 成山堂書店1988
- ^ a b c 小野塚一郎『戦時造船史 - 太平洋戦争と計画造船 -』p490 財団法人日本海事振興会1962 今日の話題社(復刻版発行)1989
- ^ 小野塚一郎『戦時造船史 - 太平洋戦争と計画造船 -』p488 財団法人日本海事振興会1962 今日の話題社(復刻版発行)1989
- ^ 『関釜連絡船史』p152 国鉄広島鉄道管理局1979
- ^ この議論以前の1943年10月5日、関釜連絡船崑崙丸がアメリカ軍潜水艦に撃沈されている:古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p102 p292-294 成山堂書店1988
- ^ 小野塚一郎『戦時造船史 - 太平洋戦争と計画造船 -』p491 財団法人日本海事振興会1962 今日の話題社(復刻版発行)1989
- ^ 小野塚一郎『戦時造船史 - 太平洋戦争と計画造船 -』p65 財団法人日本海事振興会1962 今日の話題社(復刻版発行)1989
- ^ a b c 小野塚一郎『戦時造船史 - 太平洋戦争と計画造船 -』p492 財団法人日本海事振興会1962 今日の話題社(復刻版発行)1989
- ^ 社団法人日本造船学会編『昭和造船史 第1巻(戦前・戦時編)』p301 株式会社原書房1977
- ^ 小野塚一郎『戦時造船史 - 太平洋戦争と計画造船 -』p69-72 財団法人日本海事振興会1962 今日の話題社(復刻版発行)1989
- ^ 青函連絡船戦災史編集委員会『白い航跡-青函連絡船戦災史-』p24 北の街社1995
- ^ 小野塚一郎『戦時造船史 - 太平洋戦争と計画造船 -』p69、70 財団法人日本海事振興会1962 今日の話題社(復刻版発行)1989
- ^ 小野塚一郎『戦時造船史 - 太平洋戦争と計画造船 -』p78 財団法人日本海事振興会1962 今日の話題社(復刻版発行)1989
- ^ a b 『青函連絡船史』p158、159 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ a b c d 『石狩丸一般艤装図』三菱重工業横浜造船所技術部造船計画設計課 昭和24年4月9日1949
- ^ a b 『鉄道技術発達史』第6篇(船舶)p25 日本国有鉄道1958
- ^ 『青函連絡船史』p156 p158、159 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ a b c 山本熈『車両航送』巻末表30 日本鉄道技術協会1960
- ^ a b c 山本熈『車両航送』p259 日本鉄道技術協会1960
- ^ 1937年9月21日付内閣訓令で当時ヘボン式ローマ字は使えなかった:郵船OB氷川丸研究会(竹野弘之)『氷川丸とその時代』p151、152 海文堂出版株式会社2008
- ^ 『青函連絡船栄光の航跡』p63 北海道旅客鉄道株式会社1988
- ^ 『青函連絡船史』p225、226 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ a b c 古川達郎『連絡船ドック』p89 船舶技術協会1966
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj 古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p338、339 成山堂書店1988
- ^ a b 坂本幸四郎『わが青春の青函連絡船』p155、156 株式会社光人社1989
- ^ 『青函連絡船50年史』p163 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
- ^ 『青函連絡船史』p215 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 金丸大作『写真集青函連絡船』p27 朝日イブニングニュース社1984
- ^ 古川達郎『続連絡船ドック』p87 船舶技術協会1971
- ^ 古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p111 成山堂書店1988
- ^ 古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p112 成山堂書店1988
- ^ 久留間貞吉「青函連絡船の現状と将来」『交通技術』2巻1号p16、17 1947
- ^ 坂本幸四郎『青函連絡船』p94-98 朝日イブニングニュース社1983
- ^ 山本熈『車両航送』p253 日本鉄道技術協会1960
- ^ a b 『洞爺丸台風海難誌』p252 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
- ^ 主発電機95kVA 2台との記載もある:『青函連絡船史』巻末附表p20、21 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 『汽船現在表』昭和27年3月 日本国有鉄道営業局1952
- ^ 石狩型船:「連絡船の呼称」『青函鉄道管理局報』(号外)昭和26年8月29日 1951
- ^ 楠田忠雄「鉄道連絡船の接岸圧力に就いて」『造船協会論文集』88号p178 昭和30年9月1955
- ^ 古川達郎『鉄道連絡船細見』p20 2008
- ^ 久留間貞吉「青函連絡船について」『交通技術』第7巻10号p21 1952
- ^ 古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p118 1988
- ^ 2軸1枚舵の連絡船は船速の4倍弱以上の風を真横から受けると“風に切れ上がって”風下に回頭できなかった: 古川達郎『連絡船ドック』p34 船舶技術協会1966
- ^ 『青函連絡船50年史』p177、178 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
- ^ 『青函連絡船史』p462-464 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 『航跡』p211-214 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
- ^ 坂本幸四郎『青函連絡船』p98-100 朝日イブニングニュース社1983
- ^ 「連絡船主汽缶の機械焚火」『交通技術』6巻6号p31 1951
- ^ 古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p289、290 成山堂書店1988
- ^ a b 古川達郎『連絡船ドック』p50 船舶技術協会1966
- ^ a b 古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p308 成山堂書店1988
- ^ a b c 古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p309 成山堂書店1988
- ^ 当時、商船にはRCAが多く、アメリカ海軍は全てスペリーであったが、東京計器がスペリーの代理店となり、函館に出張所を開設するなど、青函連絡船にとってはスペリー優位で、国鉄では全船スペリーを希望した。しかしRCAから国鉄に圧力がかかり、RCAも3台導入した。当時のアメリカ人には民生用機器でRCAの名が売れていたため、この3台を当時進駐軍専用船であった3隻に装備した:吉澤幸雄「レーダーが連絡船に装備されるにいたった経緯と秘話」『船の科学』44巻2号p66 1991
- ^ 古川達郎『連絡船ドック』p52 船舶技術協会1966
- ^ a b 『洞爺丸台風海難誌』p79、80国鉄青函船舶鉄道管理局1965
- ^ 『台風との斗い』p12、13 特定非営利活動法人語りつぐ青函連絡船の会2011
- ^ 『復刻・台風との斗い』p101-107 特定非営利活動法人語りつぐ青函連絡船の会2011
- ^ 古川達郎『鉄道連絡船細見』p148 JTBパブリッシング2008
- ^ 第2航路は函館港口の第1航路と函館桟橋のある若松埠頭とを結ぶ航路:『台風との斗い』p2 特定非営利活動法人語りつぐ青函連絡船の会2011
- ^ a b 『洞爺丸台風海難誌』p70-72 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
- ^ 坂本幸四郎『青函連絡船』p128-133 朝日イブニングニュース社1983
- ^ a b 『台風との斗い』p18 特定非営利活動法人語りつぐ青函連絡船の会2011
- ^ 田中正吾『青函連絡船洞爺丸転覆の謎』p51 成山堂書店1997
- ^ 加藤弘 佐藤正彦 元良誠三「青函連絡船洞爺丸等の転覆事件に関する実験的研究」『造船協会論文集』101号p116-118 昭和32年8月 1957
- ^ 放水口のない初代檜山丸型模型での実験では、波高6m、波周期9秒で900トンに達した:山本熈『車両航送』p307 日本鉄道技術協会1960
- ^ 古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p317、318 成山堂書店1988
- ^ 加藤弘 佐藤正彦 元良誠三「青函連絡船洞爺丸等の転覆事件に関する実験的研究」『造船協会論文集』101号p129 昭和32年8月 1957
- ^ 山本熈『車両航送』p302 日本鉄道技術協会1960
- ^ 古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p319 成山堂書店1988
- ^ 山本熈『車両航送』p306、307 日本鉄道技術協会1960
- ^ 「青函連絡船洞爺丸等の遭難経過とその後の浮揚作業の概要について」『船の科学』9巻9号p80 1956
- ^ a b 『洞爺丸台風海難誌』p251 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
- ^ 『航跡』p114 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
- ^ この手動クラッチ操作は船尾車両甲板下の操舵機室でしか行えないため、操舵機能喪失が直ちに事故につながる出入港時のみ、直流電源OFFのまま、予め直流電動機をクラッチで交流電動機に接続しておき、交流電源故障時には操舵室の警報が鳴るため、直ちに操舵室から遠隔操作で直流電動機の電源を入れ、油圧ポンプの運転を再開でき、ほぼ切れ目なく動力操舵が維持できた。通常は沖へ出てから、交流電動機による直流電動機の連れ回しを回避するため、このクラッチは切られた。なお2台の油圧ポンプは1つの油圧回路に並列に接続されており、1台運転でも力量が半分となるだけで舵は2枚とも動いた:泉益生『連絡船のメモ(上巻)』p22、23 船舶技術協会1972
- ^ 泉益生『連絡船のメモ(中巻)』p198 船舶技術協会1975
- ^ 山本熈『車両航送』p292 日本鉄道技術協会1960
- ^ 『青函連絡船史』p162 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 『写真集 さようなら青函連絡船』p80 北海道新聞社1987
- ^ 古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p120 成山堂書店1988
- ^ a b 古川達郎『連絡船ドック』p69 船舶技術協会1966
- ^ a b 古川達郎『連絡船ドック』p126 船舶技術協会1966
- ^ 『青函航路船舶要目一覧表』昭和37年p2 国鉄青函船舶鉄道管理局1962
- ^ 『洞爺丸台風海難誌』p254 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
- ^ 1982年には石狩丸(3代)の客載車両渡船化に対応して、さらに17m延伸され165mとなった:『青函連絡船栄光の航跡』p96、97 北海道旅客鉄道株式会社1988
- ^ 古川達郎『続連絡船ドック』p177 船舶技術協会1971
- ^ 『青函連絡船史』p157国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 函館市青函連絡船記念館摩周丸『青函連絡船運航ダイヤ実績表』昭和29年9月28日 国鉄青函鉄道管理局1954
- ^ a b 『航跡』p313 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
- ^ 古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p322 成山堂書店1988
- ^ 『航跡』p26 国鉄青函船舶鉄道管理局1978
- ^ 函館市青函連絡船記念館摩周丸『青函連絡船運航ダイヤ実績表』昭和40年9月30日-10月1日 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
- ^ 『青函連絡船栄光の航跡』p369 北海道旅客鉄道株式会社1988
- ^ 『青函連絡船史』p273-276 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 『青函連絡船50年史』p180 国鉄青函船舶鉄道管理局1957
- ^ 『青函連絡船史』p465 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 『洞爺丸台風海難誌』p224 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
- ^ 『洞爺丸台風海難誌』p225 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
- ^ 『青函連絡船史』p217 p479 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ a b c 函館市青函連絡船記念館摩周丸『青函連絡船運航ダイヤ実績表』昭和45年3月31日-4月2日 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 『青函連絡船史』巻末年表p14 青函船舶鉄道管理局1970
- ^ a b 『青函連絡船栄光の航跡』p370 北海道旅客鉄道株式会社1988
- ^ “こだま”『北海道新聞』1970.8.29.
- ^ 函館市青函連絡船記念館摩周丸『青函連絡船運航ダイヤ実績表』昭和45年9月7日 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 『青函連絡船史』p216 p479 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 函館市青函連絡船記念館摩周丸『青函連絡船運航ダイヤ実績表』昭和29年9月27日 国鉄青函鉄道管理局1954
- ^ 函館市青函連絡船記念館摩周丸『青函連絡船運航ダイヤ実績表』昭和40年8月31日-9月1日 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
- ^ 函館市青函連絡船記念館摩周丸『青函連絡船運航ダイヤ実績表』昭和40年9月4日 国鉄青函船舶鉄道管理局1965
- ^ a b c 『青函連絡船史』巻末附表18 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ a b 『青函連絡船史』p156 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ a b c 『青函連絡船史』p157 p160 国鉄青函船舶鉄道管理局1970
- ^ 1949年1月から( )内の符字へ変更:古川達郎『鉄道連絡船100年の航跡』p260 成山堂書店1988
- 石狩丸 (初代)のページへのリンク