バリ島沖海戦
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バリ島沖海戦(バリとうおきかいせん)は[2]、太平洋戦争中の海戦[注 1]で、蘭印作戦の一局面である[4]。
注
- ^ バリ島海戰[3]二月十九日深夜、二十日拂暁にかけて行はれたバリ島沖、ロンボツク水道の夜戰〔バリ島沖海戰〕は、エンダウ沖海戰と共にわが海軍が、日清日露の兩戰役に於ける各夜戰以來、得意の夜戰にその傳統を誇る純粹に驅逐艦の活躍であつた。特にこの海戰に於ては、我驅逐艦二隻が、巡洋艦二隻、驅逐艦五隻よりなる有力な米蘭聯合艦隊を相手とし、旺盛なる攻撃精神の下、優秀なる術力を發揮してこれを撃滅したといふ、海戰史に前例を見ぬ水雷戰隊としての一大戰果をあげてゐるのである。
- ^ ○感状[5]〔 第八驅逐隊 昭和十七年二月十九日「バリ」島急襲攻略作戰ニ際シ同日夜半「ロンボク」海峡ニ於テ我ガ上陸ヲ阻止セントシテ來襲セル敵巡洋艦二隻及驅逐艦五隻以上ト遭遇スルヤ寡勢克ク勇戰忽チ敵驅逐艦四隻ヲ撃沈シ同巡洋艦二隻及驅逐艦一隻ヲ撃破遁走セシメタルノミナラズ爾后此ノ戰闘ニ於テ損傷ヲ受ケタル僚艦ヲ曳航翌晝間ニ於ケル敵機ノ猛爆ヲ冒シテ之ヲ味方泊地ニ移シ遂ニ救出ノ目的ヲ達シタルハ此ノ武勲顕著ナリト認ム 仍テ茲ニ感状ヲ授與ス 昭和十七年十二月八日 聯合艦隊司令長官 山本五十六 〕
- ^ 〔 二月二十日午前零時わが驅逐艦二隻はジャバ島東方バリ島の東方ロンボク水道で敵巡洋艦二隻、驅逐艦五隻よりなる米蘭聯合艦隊に遭遇するや直ちに果敢なる攻撃に出で、戰闘十分間にして驅逐艦四隻を撃沈、同一隻を大破せしめ、さらに逃走を企てた巡洋艦二隻を急追すること三時間、分離行動中の他のわが驅逐艦二隻も急遽南下し共に攻撃を加へて二隻とも大破せしめた。わが方は驅逐艦一隻が損害を受けたが戰闘、航海には差支へない程度のものであつた。本海戰は話にならぬほど格段に優勢な敵艦隊に對し敢然挑戰し多大の損害を與へ、平素夜間猛訓練を重ねたわが輕艦隊の眞面目を發揮したもので、索敵撃滅のわが海軍傳統の攻撃精神を如實に示したものである。〕[7](戦果は誤認)
- ^ 魚雷艇部隊は戦場に到着できず、海戦には参加していない。
- ^ 〔 この時傷ついた駆逐艦は次の報告を行った。『我れ単艦にて哨戒す』 恰もロンボク水道の真中であった。敵米、英、蘭連合艦隊が、豪州へ落ちんつれば、必らず通過しなければならぬ海上の関所である。『我れ哨戒す』 動けなくなった駆逐艦は、この水道で哨戒しながら動けぬながらも砲戦によって敵を撃滅せんとしたのである。〕[48]。
- ^ 〔 敵の損害 撃沈 驅逐艦四(蘭国三、米国一)|大破 巡洋艦二(デロイテル・ジャバ) 駆逐艦一(米)|我方の損害 損傷 驅逐艦一隻 註 二月二十一日同二十七日の大本営発表(二月十五日海軍省公表)による。[58] 〕、〔 二月二十日●我驅逐隊はバリ島ロンボク水道で驅逐艦四隻撃沈、巡洋艦二隻、驅逐艦一隻大破 [59] 〕
- ^ 〔 以上の戦闘半ばに○○輸送の護衛に當ってゐた僚艦二隻の駆逐艦も、来援して、結局敵駆逐艦四隻撃沈、二巡洋艦一駆逐艦を大破せしめた大戦果をあげ、我が駆逐艦一隻は損傷したが、戦闘航海に支障なき程度のものだった。この海戦は大東亞戦開戦以来最初の水雷戦隊に依る海戦であり、帝国海軍伝統的誇りである夜襲戦の真髄を発揮したものであった。[60] 〕
- ^ 〔 清水 僕はその黙々としてやるといふ気持は、潜水艦なり駆逐艦は徹底してると思ふんです。艦長を中心にして、ピラミツド型に団結してゐるわけですね。例のバリ島沖の海戦で、こっちの駆逐艦が1隻傷ついたのです。後で艦長以下全員に集まって貰って座談會を開いたんですが、負傷者がドンドン出る、電流が切れてしまって艦内はまっ暗です。その時、甲板を「艦長は御無事だぞ!」と叫んで歩く聲がする。その聲を聴いて私は涙で出た。…それが今度は下に行って、艦内を隈なく廻って、さう皆に知らせて行く。それを着てみんなは非常に元気づいたといふのです。これなども、艦長を中心とする団結の非常に高い精神の発露だと感激しました。[61] 〕
脚注
- ^ a b c d e 戦史叢書26巻341頁
- ^ 戦史叢書102巻、108頁「昭和17年(1942年)2月20日 バリー島沖海戦(わが駆逐艦4隻と米蘭聯合の巡洋艦・駆逐艦と交戦)」
- ^ #海戦の変貌コマ83(原本129頁)
- ^ 朝日新聞の太平洋戦争記事 1994, p. 25.
- ^ a b 「昭和18年1月27日(水)海軍公報(部内限定)第4301号 pp.14-15」 アジア歴史資料センター Ref.C12070429400
- ^ #S170216蘭印第2護衛隊詳報(1) p.26〔 (1)「バリー」島攻略戦 0050乃至0500 8dg「バリー」島サヌル沖及「ロンボック」海峡ニ於テ敵巡二隻驅逐艦五隻ト交戦敵驅逐艦四隻撃沈一隻大破「ジャバ」「トロンプ」小破 満潮損傷ヲ受ク日出後敵機ノ猛爆ヲ受ケ大潮舟首浸水 〕
- ^ #朝日、展望二コマ34-35(原本57-58頁)
- ^ a b #ニミッツの太平洋海戦史35頁
- ^ a b c d e f 戦史叢書80巻、192-193頁「バリ島攻略とバリ島沖海戦」
- ^ 写真太平洋戦争2巻 1995, pp. 203–206.
- ^ a b c d e 戦史叢書35巻、412-414頁「ジャワ攻略態勢の進展」
- ^ a b 戦史叢書80巻、194-196頁「ジャワ島攻略作戦前の連合軍の作戦指導等」
- ^ 勇躍インド洋作戦 1994, pp. 50–51「バリ島の要地を占領」
- ^ #蘭印東インド攻略作戦pp.1-2『八 「チモール」「バリ」及「バレンバン」の攻略』
- ^ a b 戦史叢書3巻、221頁「東部Hとバリー島問題」
- ^ a b 戦史叢書26巻、318-321頁「航空部隊、バリ島攻略を強調」
- ^ 戦史叢書102巻、103頁「昭和17年(1942年)1月23日」
- ^ 戦史叢書3巻、240-241頁「海軍の第三期作戦移行と機動部隊の参加決定」
- ^ 戦史叢書26巻、321-322頁「第一根拠地隊」
- ^ a b 戦史叢書3巻、415頁
- ^ 戦史叢書26巻334頁
- ^ 戦史叢書26巻、323頁「陸軍部隊」
- ^ a b c 戦史叢書26巻、324頁「事前航空制圧進まず」
- ^ a b c 戦史叢書3巻、416頁
- ^ a b c d e f 戦史叢書26巻、325-328頁「船団の進航」
- ^ 戦史叢書26巻、326頁「バリ島第一次急襲作戦攻略隊及び支援隊行動要図」
- ^ #高松宮日記4巻、118頁「バリー島上陸成功(第八駆逐隊)、〇一〇〇。」
- ^ 戦史叢書26巻、335頁「陸軍部隊の戦闘」
- ^ a b c d e f 戦史叢書3巻、417頁
- ^ #S170216蘭印第2護衛隊詳報(1) p.53〔 第八驅逐隊司令|19日1937第三艦隊第二艦隊各司令長官第五戦隊第一根拠地隊各司令官(第二水雷戦隊司令官)|大潮ハ「バリー」島「サヌーロード」哨戒中1630敵潜望鏡発見續イテ魚雷4本ノ攻撃ヲ受ク被害ナシ我爆雷攻撃ヲナス効果不明 〕
- ^ 写真太平洋戦争2巻 1995, p. 152.
- ^ 日本空母戦史、155頁「オランダ駆逐艦を撃沈(二月十七日)」
- ^ The U.S. Navy Against the Axis, p. 28
- ^ a b c 戦史叢書26巻、342頁「連合軍攻撃部隊行動概要図(昭和十七年二月十七日〜二月二十日」
- ^ 写真太平洋戦争2巻 1995, p. 160.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 戦史叢書26巻、328-330頁「バリ島沖海戦第一次合戦(自二月十九日二三五三至二月二十日〇一一〇)」
- ^ a b #高松宮日記4巻、133頁〔 ○蘭印部隊(四一三=二〇-一五四〇)(中略)「満潮」被弾、機関運転不能。戦死四一、戦傷二七。「荒潮」曳航北上中 〕
- ^ #スラバヤ・バタビア沖海戦(S17) p.61〔 …「ジャバ型巡洋艦二隻みゆ」の無電が僚艦○○から○○駆逐艦にもたらされたのは二十日の午前零時であった。 〕
- ^ a b c d e f 戦史叢書26巻、337-339頁「バリ島沖海戦の事後検討 第一次合戦」
- ^ #S170216蘭印第2護衛隊詳報(2) p.2〔 第一根拠地隊司令官 20日0150(宛略)「サヌル」沖ニ表レタル敵「ジャバ」型巡洋艦攻撃ノ為長良21dgヲ率ヰ南下ス20日0300』-『第一根拠地隊司令官 20日0132(宛略)我全速ニテ南下ス未明「サヌル」沖着ノ豫定第二小隊ハ輸送船ヲ単独北上セシメ速ニ第一小隊ニ合同セシメヨ 〕
- ^ a b c d 戦史叢書26巻、339頁「バリ島沖海戦の事後検討-第二、第三、第四次合戦」
- ^ a b c d 戦史叢書26巻、330頁「バリ島沖海戦第二次合戦(自〇三一〇至〇三二三)」-「バリ島沖第三次合戦(自〇三四一至〇三四六)」
- ^ a b c d e f g h 戦史叢書26巻、340頁「バリ島沖海戦の事後検討-第二、第三、第四次合戦」
- ^ a b 写真太平洋戦争2巻 1995, p. 161.
- ^ a b c d e f 戦史叢書26巻、331頁「バリ島沖海戦第四次合戦(自〇三四七至〇三五四)」
- ^ #S170216蘭印第2護衛隊詳報(2) p.8〔 満潮駆逐艦長|20日1057(宛略)一.被害 主機械室二番砲其ノ他数個所但シ浸水箇所ナシ/二.戦死64(戦死准士官以上3下士官兵38戦傷者准士官以上1下士官兵26)/三.機械室被弾ニ依リ運転不能ナリ/四.0830荒潮着曳航準備中0930 〕
- ^ #S170216蘭印第2護衛隊詳報(2) p.8〔 満潮駆逐艦長|20日0904蘭印部隊|昨夜「バリー」海峡ニ依ル被害ニ対シ応急処置ニ努メツツアルモ機械室破壊ノ為今ノ処運転可能ノ見込ミ立タズ此ノ儘漂白當方面ノ哨戒ニ當リツツ損傷復旧ニ努ム 我ノ一「バルング」海峡中部0730 〕
- ^ #海軍作戦史大東亜戦争第一年p.58
- ^ #S170216蘭印第2護衛隊詳報(2) p.4〔 荒潮駆逐艦長|20日0420|我敵巡洋艦二隻ト交戦中 0351 〕
- ^ The U.S. Navy Against the Axis, pp. 32-33
- ^ a b c d e f g 戦史叢書26巻、332頁「第一次急襲部隊の引き揚げ」
- ^ #S170216蘭印第2護衛隊詳報(2) p.13〔 荒潮駆逐艦長|20日1251第八駆逐隊司令第二水雷戦隊司令官|敵ノ爆撃ニ依リ満潮ノ損害状況 至近弾ニ依リ鋲緩ミ処々浸水スルモ區劃防禦ニ依リ喰止メラルル見込1100 〕
- ^ #S170216蘭印第2護衛隊詳報(2) p.12〔 第八駆逐隊司令|20日1244(宛略)大潮今朝ノ敵爆撃ニ依リ第二區糧食庫浸水応急處置ヲナシツツアルモ速力ハ今ノ處十節トミトム直衛機送ラレ度1200 〕- p.13〔 第8駆逐隊司令|20日1428(宛略)司令旗ヲ一時朝潮ニ移シ戦斗ヲ指揮ス大潮ハ「マカッサル」ニ先行応急処置ヲ行ハシム1300 〕
- ^ a b c d e 戦史叢書26巻、335-337頁「第二次バリ島輸送作戦」
- ^ a b 勇躍インド洋作戦 1994, p. 52.
- ^ #戦藻録(1968)86頁『二月廿一日土曜日晴上天気』
- ^ a b 朝日新聞の太平洋戦争記事 1994, p. 75.
- ^ #海軍作戦史大東亜戦争第一年コマ59(原本107頁)
- ^ #大東亜戦争記録画報前編コマ95(原本180頁)
- ^ #海戦の変貌p.87
- ^ #スラバヤ・バタビア沖海戦(S17)p.96
- ^ a b 写真太平洋戦争2巻 1995, p. 162.
- ^ #達昭和18年6月(1) p.35〔 達第百四十五號 大東亞戰爭中捕獲セル米國驅逐艦「スチユウワード」ヲ帝国艦艇籍ニ編入シ左ノ通命名ス 昭和十八年六月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 第百二號哨戒艇 〕
- ^ #海軍駆逐隊、平成27154-155頁『戦績は永遠に』
- 1 バリ島沖海戦とは
- 2 バリ島沖海戦の概要
- 3 海戦
- 4 結果
- 5 参考文献
- 6 関連項目
バリ島沖海戦
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1942年2月20日、阿部大佐率いる第八駆逐隊はバリ島攻略のため陸軍部隊を乗せた輸送船団を4隻の駆逐艦(朝潮、大潮、荒潮、満潮)で護衛した。陸軍部隊を上陸完了後の出港直後、オランダ海軍カレル・ドールマン少将率いる連合国艦隊に襲撃された。同艦隊はオランダ軽巡洋艦3隻、駆逐艦1隻にアメリカ駆逐艦6隻と魚雷艇5隻からなり、日本軍は圧倒的に不利であった。しかし夜戦を得意とする第八駆逐隊は、砲雷戦を敢行。猛烈な射ち合いとなったが、日本軍の正確な射撃が敵を上回り、オランダ駆逐艦「ピートハイン」を撃沈。アメリカ駆逐艦「スチアート」の舵取機械室を破壊して小破。怯んだ連合国艦隊は隊列を崩して離脱。その後、遅れて続いてきたオランダ軽巡洋艦「トロンプ」と遭遇して砲雷戦を再開。「トロンプ」に砲弾を多数命中させて中破。連合国艦隊を撃退し勝利した。 宇垣纏連合艦隊参謀長は、「戦藻録」のなかで「第八駆逐隊の海戦振りは誠に見事なり。オランダ艦隊に大損害を與えたり。一駆逐艦隊を以て誠に立派なる夜戦なり。司令は阿部弘毅少将の弟なりと云ふ」とこの勝利を賞賛した。またこの年の5月27日の海軍記念日に阿部は築地の東京劇場にて、バリ島沖海戦の勝利について講演する栄誉を与えられ、山本五十六大将より感状が授与された。
※この「バリ島沖海戦」の解説は、「阿部俊雄」の解説の一部です。
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