セイロン沖海戦
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セイロン沖海戦(セイロンおきかいせん)は、1942年4月5~9日にインド洋セイロン島沖で日本海軍とイギリス海軍の間で行われた戦闘。インド洋作戦の過程で発生した。本記事では、セイロン沖海戦前後に日本海軍が実施および計画した通商破壊作戦(ベンガル湾機動作戦[1]、B作戦[2])についても述べる。
注釈
- ^ 第3戦艦戦隊司令官、東洋艦隊次席指揮官[44]
- ^ このうち、駆逐艦「デコイ」は故障発生のため4月1日にコロンボへ向かった[45]。
- ^ 日本空母戦史、179ページ、ただし、日本軍を迎撃した部隊の説明の後に以上合計42機とあるが、各部隊ごとのところに書かれている機数を合計するとハリケーン36機、フルマー10機で合計46機になる。War at Sea 1939-1945 Volume 2, p.26でも迎撃機は42機とする。
- ^ 第19駆逐隊第2小隊の駆逐艦敷波は、ビルマ輸送護衛従事のため不在。
- ^ 木俣滋郎『日本軽巡戦史』229頁の編成表で「七戦隊司令官:栗田健男少将」とあるは誤記。栗田中将は既に第三戦隊司令官へ転任済み。
- ^ 第七戦隊の重巡最上は、ミッドウェー作戦での損傷修理のため不在。
- ^ 第十六戦隊の軽巡五十鈴は、豪北方面作戦従事中のため不在。木俣滋郎『日本軽巡戦史』235-236頁。
- ^ 第19駆逐隊の駆逐艦磯波は、ミッドウェー作戦での損傷修理のため不在。
- ^ 第四戦隊の重巡高雄と摩耶は3月中旬に内地帰投、不在。鳥海は馬来部隊旗艦(第一南遣艦隊旗艦)のため別行動。
- ^ 機動部隊の空母が航空攻撃を受けたのは本海戦が初であった。空母に関しては、開戦前、海軍では空母は攻撃力こそ高いが防御は極めて弱く、防空などの受け身の防御によって敵の攻撃を完全に阻止することは不可能とする判断から、集中と分散のどちらで使用すべきか論議され、結論に達していなかった。一航艦は、ハワイ作戦で長途隠密行動を行うため、集中使用を行い、指揮運用が容易で、攻撃力集中の利点もあり、その後も集中運用を続けたが、欠点となる本格的な航空攻撃を受けたことがなかった[211]。空母戦は先制空襲が理想だが、必ず成功すると限らない以上、相互打ち合いが多くなると考え、脆弱性を前提に使用法の集中、分散の利害得失が論議された。いずれの使用法にしろ空襲を受けた際の防御処置をとって戦闘力持続に努めることが必要とわかっていたが、日本海軍では認識不十分で研究・施策ともに熱意が欠けていた[204]。また、一航艦航空参謀だった源田実、吉岡忠一によれば、ミッドウェー作戦直前の珊瑚海海戦で「翔鶴」が被弾した際、精鋭の第一、第二航空戦隊ならばそのような被害は受けなかっただろうと、この戦訓を真剣に研究しなかったとして、空母の集団使用による防空戦闘機の集中使用こそ敵の反撃阻止に有利との考えが強くなっており、具体的な適否を検討する事なく、観念的にそのように考えていたという[212]。
出典
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- ^ 「昭和17年3月26日~昭和17年4月22日 軍艦飛龍戦闘詳報(2)」p6~12
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- ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫36頁
- ^ 源田実『海軍航空隊始末記』文春文庫60-61頁
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- ^ 戦史叢書43巻、161頁
- ^ 戦史叢書43巻、p.422-423
- ^ ゴードン・ウィリアム・プランゲ 『ミッドウェーの奇跡 上』原書房236頁
- ^ #海軍驕りp13~15
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- ^ 戦史叢書43巻、313-314頁
- ^ #海軍驕りp34
セイロン沖海戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 14:59 UTC 版)
「ハーミーズ (空母・初代)」の記事における「セイロン沖海戦」の解説
「セイロン沖海戦」も参照 極東におけるイギリス最大根拠地シンガポールは、日本軍の快進撃により、1942年(昭和17年)2月15日に陥落した。イギリス東洋艦隊はセイロン島のコロンボとトリンコマリーに根拠地を変更した。レイトン大将の後任として東洋艦隊司令長官となったジェームズ・サマヴィル大将は、トリンコマリーも安全ではないと考え、モルディブのアッドゥ環礁を新母港とすることを検討した。イギリス軍にとって幸運なことに、日本軍はアッドゥ環礁の新基地を知らなかった。同時期には蘭印作戦によりオランダ領東インドが陥落し、幾度かの海戦により、ABDA艦隊も一掃された。つついでインド洋ベンガル湾南部のアンダマン・ニコバル諸島が日本軍に占領されたので、アフリカ大陸東岸ケニアのモンバサにあるキリンディニ港に逃れ臨時基地とした。 しかし第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将が率いる日本軍空母機動部隊がインド洋に進出し、セイロン島攻撃を実施するとの情報を得たイギリス軍は、空母3隻(ハーミーズ、インドミタブル、フォーミダブル)、歴戦艦ウォースパイト(HMS Warspite)など戦艦5隻を含む東洋艦隊を集結させた。 本艦はアルジャーノン・ウィリス(英語版)提督が率いる低速艦のB部隊(R級戦艦〈レゾリューション、ラミリーズ、ロイヤル・サヴリン、リヴェンジ)、空母〈ハーミーズ〉、軽巡洋艦〈カレドン、ドラゴン、ヤコブ・ヴァン・ヘームスケルク〉、随伴駆逐艦)に所属していた。 現実問題として、インド洋に展開しつつあった日本海軍(南方部隊指揮官近藤信竹中将/第二艦隊司令長官)は、正規空母5隻(赤城、蒼龍、飛龍、瑞鶴、翔鶴)と金剛型戦艦4隻を基幹とする南方部隊機動部隊、第一南遣艦隊(司令長官小沢治三郎中将)の馬來部隊、南方部隊航空部隊と潜水部隊を有しており、イギリス側は圧倒的に不利だった。イギリス東洋艦隊と南雲機動部隊が正面から対決した場合、イギリス側にとって悲惨な結果になることをサマヴィル提督は認識していた。 イギリス艦隊は「南雲機動部隊が4月1日ごろセイロン島を攻撃する」という情報を得ていたので、3月31日から4月2日までセイロン島の南で行動していたが、南方部隊機動部隊(通称 南雲機動部隊 )は現れなかった。そのため東洋艦隊の大部分は燃料補給のためにアッドゥ環礁へ向かい、一部が修理や次期作戦のためセイロン島に戻ることになった。重巡2隻(ドーセットシャー、コーンウォール)はコロンボに、空母ハーミーズはマダガスカル島攻略準備のため駆逐艦ヴァンパイア (HMAS Vampire, I68) とともにトリンコマリーへ向かった。 4月4日夕刻、イギリス軍のカタリナ飛行艇が南雲機動部隊を発見したが、零戦に撃墜された。4月5日、コロンボが南雲機動部隊の艦上機による攻撃を受け、付近の洋上で前述の英重巡2隻が撃沈された。 .mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 逃げまどうハーミーズと豪駆逐艦ヴァンパイア。 炎上し沈みゆくハーミーズ。 沈むハーミーズ。 4月8日、イギリス軍索敵機が再び日本艦隊(南雲機動部隊)を発見し、各方面に通報した。2隻(ハーミーズ、ヴァンパイア)などはトリンコマリーから洋上に退避し、南へ向かった。4月9日朝、南雲機動部隊を発進した攻撃隊(指揮官淵田美津雄少佐)は、トリンコマリーを空襲した。日本軍攻撃隊の空襲が終わったので、ハーミーズ部隊はトリンコマリーへ戻るため反転し北上した。しかし、機動部隊の戦艦「榛名」から発進した水上偵察機に発見されていた。索敵機からの報告はイギリス側も傍受し、戦闘機が派遣されたものの間に合わなかった。赤城(機動部隊旗艦)では、ハーミーズが陸上基地にハリケーン戦闘機(Hawker Hurricane)の応援を繰り返し求める無電を傍受している。 日本時間午前11時43分、南雲機動部隊から翔鶴飛行隊長高橋赫一少佐が指揮する九九式艦上爆撃機85機、零式艦上戦闘機6機が発進した。艦爆85の内訳は、翔鶴18、瑞鶴14、蒼龍18、飛龍18、赤城17であった。源田実航空参謀は護衛機が少ないことを懸念したが、母艦直衛機の問題もあり、やむを得ず護衛の零戦を6機にして出撃させたという。南雲機動部隊にとって幸運なことに、ハーミーズは艦上戦闘機を搭載していなかった。 13時30分、機動部隊攻撃隊はハーミーズを発見、5分後に急降下爆撃を開始した。ハーミーズを攻撃したのは九九艦爆45機(赤城2、飛龍11、瑞鶴14、翔鶴18)で、爆弾37発命中(命中率82パーセント)を記録した。「ハーミーズ」は「ヴァンパイア」ともに撃沈された。他に付近を行動中だったフラワー級コルベットのホリホック (HMS Hollyhock) と補給艦2隻(ブリティッシュ・サージェント、Athelstone) 、貨物船Norvikenも撃沈された。イギリス側は陸上基地から第273飛行戦隊、第803海軍航空隊、第806海軍航空隊のフェアリー フルマー戦闘機を派遣したがハーミーズの沈没には間に合わず、フルマー2機喪失と引き換えに九九艦爆4機を撃墜したと記録している。日本側はハーミーズに対する攻撃と沈没の様子を写真撮影しており、写真週報などに掲載して宣伝戦に利用している。 「ハーミーズ」では艦長以下307名が死亡した。九九艦爆のパイロット(瑞鶴艦爆)は「海上に脱出した生存者もサメの餌食になるだろうと思って銃撃を控えていたら、沈みかけたハーミスの右舷艦尾では高角砲が発砲していた。ユニオンジャックの海兵魂を見せつけられたようで胸が熱くなった。」と回想している。「ハーミーズ」と「ヴァンパイア」の生存者うち、590名は病院船「Vita」に救助された。 「ハーミーズ」は第二次世界大戦中、日本海軍に撃沈された唯一のイギリス空母である。
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