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ケニア [Kenya]
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ケニア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/13 03:04 UTC 版)
- ケニア共和国
- Jamhuri ya Kenya(スワヒリ語)
Republic of Kenya (英語) -


(国旗) (国章) - 国の標語: Harambee
(スワヒリ語: "共に働こう") - 国歌: Ee Mungu Nguvu Yetu (Oh God of All Creation)(おお、万物の神よ)

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公用語 スワヒリ語(国語)、英語 首都 ナイロビ 最大の都市 ナイロビ 独立
- 日付イギリスから
1963年12月12日通貨 ケニア・シリング(KES) 時間帯 UTC (+3)(DST: なし) ISO 3166-1 KE / KEN ccTLD .ke 国際電話番号 254
ケニア共和国(ケニアきょうわこく)、通称ケニアは、東アフリカに位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国である。北にエチオピア、北西に南スーダン、西にウガンダ、南にタンザニア、東にソマリアと国境を接し、南東はインド洋に面する。首都はナイロビ。
首都ナイロビには国際連合環境計画、国際連合人間居住計画の本部がある。旧イギリス植民地。
目次 |
国名
正式名称はJamhuri ya Kenya(スワヒリ語、ジャムフリ・ヤ・ケニャ [ʄɑmˈhuˑrijaˈkɛɲɑ])、Republic of Kenya(英語)。
日本語の表記はケニア共和国。通称ケニア。綴りがKenyaであるため、「ケニヤ」とも表記する。実際の発音は「ケニャ」[ˈkɛɲɑ]。
国名はケニア山に由来する。
歴史
詳細は「ケニアの歴史」を参照
紀元前2000年ごろに北アフリカからクシ語系のケニア地域への民族移動が行われた。 7、8世紀頃には、アラブ人が海岸地域に定住しており、モンバサやマリンディなど交易の拠点を建設した。 西暦1000年ぐらいまでに、バンツー語系、ナイル語系の民族がケニアの地域に移動し、今日のケニア国民を形成する民族として定住した。ケニア沿岸部には、バンツーとアラブの言語が混ざったスワヒリ語のスワヒリ文明が栄え、1418年頃に明の鄭和の艦隊の一部がマリンディにまで到達した記録が残っている。
15世紀末、ヴァスコ・ダ・ガマの来訪をきっかけにポルトガル人が進出するも、やがて撤退しアラブ人が再進出。18世紀にはアラブ人の影響力が内陸部にまで及び奴隷貿易や象牙貿易などが活発になる。1828年にはオマーン帝国のスルタン・サイイド・サイードがモンバサを攻略したが、19世紀にアフリカの植民地化が進むとスルタンはザンジバルに根拠地を移し、ケニア沿岸にはイギリスとドイツ帝国が進出。権力争いの末、イギリス勢が優勢となりイギリス領東アフリカが誕生し、1888年には沿岸部が帝国イギリス東アフリカ会社 (IBEA) により統治されるようになった。1895年までには内陸部にまでイギリスの影響が及ぶようになった。
1895年‐1901年の間に、モンバサからキスムまでの鉄道が英国によって完成した。1903年に鉄道はウガンダまで延びる。 1902年、現在のケニア全域がイギリスの保護領となり、1920年には直轄のケニア植民地となる。第二次世界大戦後、1944年にキクユ青年協会が設立(政治運動の始まリ)、1946年にケニア・アフリカ学生同盟(KASU)が設立し、ケニア・アフリカ民族同盟つまりKANUの前身となる。 1952-56年ケニア土地自由軍が植民地に政府に対してマウマウ団の乱を起こし、イギリスへの抵抗運動が始まった(KANUのリーダーのケニヤッタ投獄)。マウマウ団の乱は敗北したものの、反乱を契機に独立の機運が高まった。一国体制と連邦体制と両方の意見を持つ二つの政党KANU とKADUとの意見の対立があったが、ケニヤッタやトム・ムボヤが率いるKANUが主導となる。1963年に英連邦王国として独立。翌1964年に共和制へ移行、ケニア共和国が成立した。
初代大統領に就任したジョモ・ケニヤッタはアフリカ社会主義を掲げたものの、一貫して西側寄りの政策を採り、国内的にはケニア・アフリカ民族同盟KANUの一党制が敷かれたが、後にKANUを飛び出したオギンガ・オディンガ(ライラ・オディンガの父)がKPUを設立した(1969年に活動禁止となる)。ケニヤッタの下でケニアは経済的に成長を遂げた。
政治
詳細は「ケニアの政治」を参照
大統領制をとる。議会は一院制(224議席、任期5年)。 初代大統領ジョモ・ケニヤッタ、二代目ダニエル・アラップ・モイと建国以来ケニア・アフリカ民族同盟 (Kenya African National Union, KANU) が長く政権の座にあった(91年から複数政党制が導入された)。
2002年の総選挙の結果、それまでのKANU政権(モイがケニヤッタの息子を後継とした)の継続を阻止しようとしたムワイ・キバキを代表とする大小多数の政党による連合組織(NARK:国民虹の連合)が選挙に勝利し、初めての政権交代が実現した。 しかし、キバキは、公約である憲法見直しへの着手を実施せず、またキバキの出身部族であるキクユ人優遇策をとり、また連合組織内の党派同士の約束を破って連合を分裂させるなど、新たな政権の樹立を期待した選挙民を裏切った。政権は保守的な色のある抵抗勢力と呼ばれるキバキ派と改革派の政党LDP(後にODMに発展)に分裂する。改革派の中心は、ライラ・オディンガであった。2002年以来審議された憲法改正は、2005年7月に議会で改正案が承認されたが、大統領権限の強い性格のものであり改革派は改正案に反対であった。11月に国民投票を行ったが、改正案は国民投票により否決され、ムワイ・キバキ大統領は閣僚の交代をよぎなくされた。
そして、2007年12月の大統領選挙は、キバキ派(国家統一党;PNU)とライラ・オディンガを中心とした改革派(ODM:オレンジ民主運動)との一騎打ちとなった。当初オディンガ優勢とされたにもかかわらず、同年12月30日、選挙管理委員会がキバキ大統領の再選を発表した。しかし、意外な結果となったことを不服とした野党勢力が行った抗議行動は、警官による鎮圧も含め、両派衝突による暴動へと変容した。暴動は、ナイロビのスラムやリフト・バレー州において住民同士の暴力や警官による鎮圧が発生し、1000名を越える死者(リフトバレー州での教会に逃げた避難民焼き討ちによる大量焼死事件や相次ぐODM議員の暗殺事件も含む)と非常に多くの国内避難民を生み出した。 1月に行われた国連のアナンによる調停の結果、和解の合意がなされ、キバキとオディンガが、大統領と首相を分け合う連立政権が成立することで、2月末に政治的混乱は一応収拾された。連立政権とともに国民の対話と和解の法と暫定憲法が成立する。 2007年-2008年のケニア危機
連合政権は、その後、本格的に憲法改正作業に着手する。2010年8月4日に国民投票によって新憲法の成立が決まった。新憲法は、1963年にイギリスの植民地支配から独立した際に制定された憲法に代わり、大統領権限の縮小による三権分立の強化等、より制度的な民主化を促進するとみられる。ケニア2010年憲法
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「ケニア」の用例一覧
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ja.wikisource.org/wiki/千九百七十一年七月二十四日にパリで改正された万国著作権条約及び関係諸議定書の日本国による受諾に関する件
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ィスアベバ(エチオピア) アクラ(ガーナ) リーブルビル(ガボン) ヤウンデ(カメルーン) コナクリ(ギニア) ナイロビ(ケニア) アビジャン(コートジボワール) キンシャサ(コン...
law.e-gov.go.jp/htmldata/S29/S29F03301000003.html
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上がろう」 (Pick Yourself Up) の歌詞を引用。 ↑ カニャディアング村。 ケニア 西部の ニャンザ州 ラチュオニョ県に位置。 ↑ 原文では「our power alone cannot protect...
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