ケニア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/06 08:48 UTC 版)
国名
正式名称はスワヒリ語で「Jamhuri ya Kenya」[注釈 1]、英語では「Republic of Kenya」[注釈 2]。日本語での表記はケニア共和国。通称「ケニア」。「ケニヤ」とも表記する。国名はアフリカ大陸で二番目に高いケニア山(5,199メートル[3])に由来する。[4]
歴史
クシ語系の民族移動
紀元前2000年ごろに北アフリカからケニア地域へクシ語系の民族移動が行われた。
バンツー系の民族移動
紀元前1000年までに、バンツー語系、ナイル語系の民族がケニアの地域に移動し、今日のケニア国民を形成する民族として定住した(en:Bantu expansion)。
アラブの進出とスワヒリ文明の勃興
7、8世紀ごろにはアラブ人が海岸地域に定住しており、モンバサやマリンディなど交易の拠点を建設した。10世紀までに、ケニア沿岸部にはバンツーとアラブの言語が混ざったスワヒリ語のスワヒリ文明が栄え始めた。1418年ごろに明の鄭和の艦隊の一部がマリンディにまで到達した記録が残っている。15世紀末、ヴァスコ・ダ・ガマの来訪をきっかけにポルトガル人が進出するも、やがて撤退しアラブ人が再進出。18世紀にはアラブ人の影響力が内陸部にまで及び、奴隷貿易や象牙貿易などが活発になる。
オマーン帝国
1828年にはオマーン帝国のスルタンであるサイイド・サイードがモンバサを攻略した。
イギリスの進出
19世紀にアフリカの植民地化が進むと、ケニア沿岸にはイギリスとドイツ帝国が進出。権力争いの末にイギリス勢が優勢となり、1888年には沿岸部が帝国イギリス東アフリカ会社(IBEA)により統治されるようになった。1895年にイギリス領東アフリカが成立。1895年から1901年の間に、モンバサからキスムまでの鉄道が英国によって完成した。1896年のアングロ=ザンジバル戦争で敗れたスルタンがザンジバル・スルタン国(1856年 - 1964年)に根拠地を移した。1902年、ウガンダもイギリスの保護領となり、イギリスの影響が及ぶ地域が内陸部に広がった。1903年に鉄道はウガンダまで延びた。1920年には直轄のケニア植民地となる。
政治運動の始まり
1921年6月10日、ハリー・トゥクによってキクユ青年協会(YKA)が設立され、政治運動が始まった。1924年にYKAの政治活動が禁止されると、ジェームス・ボータらによってキクユ中央協会(KCA)が結成された。
1940年、第二次世界大戦でイタリア領東アフリカとの戦場になると、KCAも政治活動が禁止された。のちにマウマウ団の乱の際、一部の活動家が組織をKCAと自称していたのはキクユ中央協会の活動を継承していたためである。1942年にケニア・アフリカ学生同盟(Kenya African Study Union、KASU)が設立され、1947年にジョモ・ケニヤッタが加わりケニア・アフリカ同盟(KAU)に改組された。
マウマウ団の乱
1952年 - 1956年ケニア土地自由軍(KLFA)が植民地政府に対してマウマウ団の乱を起こし、イギリスへの抵抗運動が始まった。マウマウ団の乱は敗北した。このとき、KAUのメンバーであったジョモ・ケニヤッタが投獄されている。当時、グレンデールのホウィック男爵の草分けであるイヴリン・ベアリングがケニア総督(在任1952年 - 1959年)であった。
独立とケニヤッタ政権
反乱を契機に独立の機運が高まった。1960年には、KAUの中心メンバーによって、ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が結成され、同時期にKADUが結成された。一国体制と連邦体制と両方の意見を持つ2つの政党、KANUとKADUの間で意見の対立があったが、James Gichuru、ジャラモギ・オギンガ・オディンガ、トム・ムボヤが率いるKANUが主導となる。
1963年に英連邦王国として独立。翌1964年に共和制へ移行し、ケニア共和国が成立した。初代大統領に就任したジョモ・ケニヤッタやダニエル・アラップ・モイは、冷戦中の当時「アフリカ社会主義」を掲げて親ソビエト連邦の姿勢を示した。国内的にはケニア・アフリカ民族同盟(KANU)の一党制が敷かれ、その後は一貫して西側寄りの政策を採った。のちにKANUを飛び出したオギンガ・オディンガがKPUを設立した(1969年に活動禁止となる)。ケニヤッタ政権下でケニアは経済成長を遂げた。
モイ政権
1978年のケニヤッタ死去後、ダニエル・アラップ・モイが第2代大統領に就任した。1982年8月、空軍クーデター未遂事件が起きた。
1991年に複数政党制を導入。ムワイ・キバキはKANUを飛び出して民主党(DP)を結成。2000年、モイがケニヤッタの息子、ウフル・ケニヤッタをKANUの後継者とし、en:The National Allianceと改組された。
1998年8月7日には、首都ナイロビの在ケニアアメリカ合衆国大使館がアルカーイダによって攻撃されるアメリカ大使館爆破事件が発生し、数千名の死傷者を出した。
キバキ政権
2002年の総選挙の結果、旧KANU政権の継続を阻止しようとしたムワイ・キバキを代表とする大小多数の政党による連合組織「国民虹の連合(NARC)」が選挙に勝利し、初めての政権交代が実現した。しかしキバキは、公約である憲法見直しへの着手を実施せず、またキバキの出身部族であるキクユ人優遇策をとり、また連合組織内の党派同士の約束を破って連合を分裂させるなど、新たな政権の樹立を期待した選挙民を裏切った。政権は保守色のある抵抗勢力と呼ばれるキバキ派と改革派の政党LDP(のちにODMに発展)に分裂する。改革派の中心はライラ・オディンガであった。2002年以来審議された憲法改正は、2005年7月にケニア議会で改正案が承認されたが、大統領権限の強い性格のものであり改革派は改正案に反対であった。11月に国民投票を行ったが、改正案は国民投票により否決され、ムワイ・キバキ大統領は閣僚の交代を余儀なくされた。
ケニア危機
そして、2007年12月の大統領選挙は、キバキ派(国家統一党;PNU)とライラ・オディンガを中心とした改革派(ODM:オレンジ民主運動)との一騎討ちとなった。当初オディンガ優勢とされたにもかかわらず、同年12月30日、選挙管理委員会がキバキ大統領の再選を発表した。しかし、意外な結果となったことを不服とした野党勢力が行った抗議行動は、警官による鎮圧も含め、両派衝突による暴動へと変容した。暴動は、ナイロビのスラムやリフト・バレー州において住民同士の暴力や警官による鎮圧が発生し、1,000名を越える死者(リフトバレー州での教会に逃げた避難民焼き討ちによる大量焼死事件や相次ぐODM議員の暗殺事件も含む)と非常に多くの国内避難民を生み出した。
国際連合事務総長コフィー・アナンにより翌年1月に行われた調停の結果、和解の合意がなされ、キバキとオディンガが、大統領と首相を分け合う連立政権が成立することで、2月末に政治的混乱は一応収拾された。連立政権とともに国民の対話と和解の法と暫定憲法が成立する(2007年-2008年のケニア危機)。
連合政権はその後、本格的に憲法改正作業に着手する。2010年8月4日、国民投票によって新憲法の成立が決まった。新憲法は、1963年にイギリスの植民地支配から独立した際に制定された憲法に代わり、大統領権限の縮小による三権分立の強化など、より制度的な民主化を促進するとみられる(ケニア共和国憲法 (2010年)、en:Constitution of Kenya、en:Kenyan constitutional referendum, 2010)。
東アフリカ大旱魃
ウフル・ケニヤッタ政権
2013年3月の大統領選挙でウフル・ケニヤッタが当選、4月に就任。2013年9月21日にケニアショッピングモール襲撃事件が発生し、ソマリアで活動していたアル・シャバブが犯行声明を出した。
2017年8月の大統領選挙でケニヤッタが再選されたが、最高裁はこれを無効とした。これはアフリカで選挙結果が法的に無効にされた初めてのケースである[5]。同年10月にやり直しの大統領選挙が執行されたが、野党候補のライラ・オディンガがボイコットしたためケニヤッタが圧倒的多数で再選された。
2022年大統領選挙
2022年8月9日に実施された大統領選挙について、選挙管理委員長は同月15日、副大統領のウィリアム・ルトが50.49%の得票で勝利したと発表した(オディンガの得票率は48.85%)[6]。オディンガは翌16日、選管委員の半数が疑義を呈しているなどとして、委員長が発表した選挙結果の受け入れを拒否と法的対抗手段をとることを表明した[7]。
政治
大統領制をとる。ケニア議会は224議席、任期5年、一院制の国民議会からなっていたが、2013年より二院制(Countyの代表である上院と選挙区議会の下院)に移行した。
政党
初代大統領ジョモ・ケニヤッタ、二代目ダニエル・アラップ・モイと建国以来ケニア・アフリカ民族同盟(KANU)が長く政権の座にあり一時期に一党制であったが、1991年より複数政党制が導入された。
注釈
- ^ 発音 [ʄɑmˈhuˑrijaˈkɛɲɑ]、ジャムフリ・ヤ・ケニャ
- ^ 発音: [rɪˈpʌb·lɪk əv ˈken.jə]、リパブリック・オヴ・ケンニャ
- ^ 大統領、上院議員(Senator)、カウンティの知事、国会議員などを選出。
- ^ County Governments Act No.17 of 2012
- ^ ルイヤ語はさらに14の言語に分類することができ、主なものとしてブクス語(約140万人)、ロゴーリ語(約62万人)、イダホ=イスハ=ティリキ語などがある。
- ^ カレンジン語は幾つかの言語をまとめた方言群であり、キプシギス語(約190万人)、ナンディ語(約95万人)などを含む。
- ^ 一人当たりGDPに対する生徒一人当たり公共教育支出額の割合。初等・中等教育は2006年、高等教育は2004年の数値。
出典
- ^ a b “UNdata”. 国連. 2021年10月10日閲覧。
- ^ a b c d e [1](2021年10月17日閲覧)
- ^ “アフリカで一番高い山はどこ? - アフリカ大陸最高峰”. www.tabi2ikitai.com. 2022年12月22日閲覧。
- ^ a b Kokusai jōhō daijiten : Pasupo = Paspo.. Gakushū Kenkyūsha, 学習研究社. (Shohan ed.). Tōkyō: Gakken. (1992). ISBN 4-05-106027-6. OCLC 31669709
- ^ “ケニア選挙やり直しの英断、司法独立への期待に火 アフリカ初の無効判決、一躍国民のヒーローになった最高裁判事” (2017年9月7日). 2017年9月18日閲覧。
- ^ ケニア大統領選 副大統領「勝利」対立陣営、敗北認めず『東京新聞』朝刊2022年8月17日国際面掲載の共同通信記事(2022年8月22日閲覧)
- ^ 「元首相、大統領選結果拒否 ケニア、法的措置も示唆」東京新聞 TOKYO Web 2022年8月16日配信の共同通信記事(2022年8月22日閲覧)
- ^ Expensive Tokyo embassy leads to Kenyan resignations RFI, 27/10/2010
- ^ 「在日ケニア大使館、不当に高い? 反汚職委が経緯調査」共同通信(2010年10月20日)
- ^ a b c 外務省 ケニア基礎データ
- ^ “ケニアで地方分権が始まる。日本が支援する、分権実施に向けた人材育成もスタート”. 国際協力機構. 2014年10月24日閲覧。
- ^ “World Development Indicators”. World Bank. 2014年10月11日閲覧。
- ^ a b “Kenya Vision 2030”. Republic of Kenya. 2014年10月11日閲覧。
- ^ “FAOSTAT”. Food and Agriculture Organization. 2014年10月11日閲覧。
- ^ 『日本経済新聞』2013年12月19日【初歩からのアフリカ】ケニアの園芸産業に続け
- ^ “密猟ではなくアボカド…ケニアのゾウに新たな脅威”. AFP (2021年4月17日). 2021年4月18日閲覧。
- ^ a b “海外ビジネス情報:ケニア”. 日本貿易振興機構. 2014年10月11日閲覧。
- ^ NICHOLE SOBECKI (2020年4月16日). “アフリカの大都市、ナイロビの新型コロナ対策 外出禁止令で格差が浮き彫りに”. ナショナルジオグラフィック 2020年4月17日閲覧。
- ^ a b c “2009 POPULATION & HOUSING CENSUS RESULTS”. Minister of State for Planning, National Development and Vision 2030. 2014年10月11日閲覧。
- ^ a b The World Factbook2014年10月11日閲覧
- ^ 松田素二「民族対立の社会理論」『現代アフリカの紛争を理解するために』アジア経済研究所 1998年
- ^ 宮本正興「アフリカの言語 その生態と機能」『ハンドブック現代アフリカ』岡倉登志編 明石書店、2002年12月
- ^ Lewis, M. Paul, Gary F. Simons, and Charles D. Fennig (eds.). 2015. Ethnologue: Languages of the World, Eighteenth edition. Dallas, Texas: SIL International. Online version: http://www.ethnologue.com.
- ^ Why don't some women take their husbands' names after marriage?, The STAR, Sep 19, 2015.
- ^ The World Bank (2013), Africa Development Indicators 2012/13
- ^ “ケニア 安全対策基礎データ「犯罪発生状況、防犯対策」”. 外務省. 2021年12月5日閲覧。
- ^ “ケニアでもオバマ氏勝利を祝福、6日は「国民祝日」に”. AFPBB News (2008年11月6日). 2009年6月2日閲覧。
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