第六水雷戦隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 17:01 UTC 版)
太平洋戦争開戦時、第四艦隊(司令長官井上成美中将、旗艦鹿島)・第六水雷戦隊(司令官梶岡定道少将:旗艦・軽巡夕張)に所属していた。六水戦には第29駆逐隊(追風、疾風、夕凪、朝凪)と第30駆逐隊 (睦月、如月、弥生、望月) が所属していた。 詳細は「ウェーク島の戦い」を参照 12月8日、開戦と共に第四艦隊はウェーク島に対する攻略作戦を開始した。別働の第29駆逐隊第2小隊(夕凪、朝凪)を除く夕張以下第六水雷戦隊・特設巡洋艦2隻(金龍丸、金剛丸)・哨戒艇2隻、第十八戦隊(司令官丸茂邦則少将)の軽巡2隻(天龍、龍田)は、ウェーク島攻略部隊(指揮官梶岡定道第六水雷戦隊司令官)を編制し、ルオット島(クェゼリン環礁)を出撃、日本軍航空隊の空襲を受けるウェーク島へ向かった。12月11日からの攻略戦では、生き残っていたF4F ワイルドキャット戦闘機4機と陸上砲台の反撃により2隻の駆逐艦(疾風、如月)を喪失し、追風・弥生・第33號哨戒艇・天龍・龍田・金剛丸・金龍丸等に若干の損傷と死傷者があった。クェゼリン環礁への退却中、天龍は夕張に対し『貴部隊ニ対シ援助ヲ要スルコトアラバ知ラサレ度』と通信するが、応答はなかったという。12月13日、ウェーク島攻略部隊はルオットに戻る。 12月21日、ウェーク島第二次攻略部隊はルオットを出撃。この第二次攻略作戦には、南雲機動部隊より派遣された第八戦隊(司令官阿部弘毅少将)重巡2隻(利根、筑摩)・第二航空戦隊(司令官山口多聞少将)空母2隻(蒼龍、飛龍)・第17駆逐隊(谷風、浦風)が航空支援をおこない、第六戦隊(司令官五藤存知少将)重巡4隻(青葉、衣笠、加古、古鷹) が陸上支援に加わった。さらに、日本軍上陸部隊(海軍陸戦隊)には夕張副長田中光夫中佐がくわわり、連合陸戦隊を指揮することになった。哨戒艇2隻擱座という激戦の末、ウェーク島のアメリカ軍は12月23日に降伏した。12月29日、ウェーク島攻略部隊はルオットに戻る。 1942年(昭和17年)1月3日、第六水雷戦隊はトラック泊地に帰投した。その後も第六水雷戦隊(夕張、第23駆逐隊《4月10日編入:菊月、夕月、卯月》、第29駆逐隊、第30駆逐隊)・第十八戦隊・第六戦隊はラバウル方面、ラエとサラモア、ブーゲンビル島、ポートモレスビーの各攻略作戦に参加した。 詳細は「ラエ・サラモアへの空襲」を参照 3月5日、第六水雷戦隊司令官(旗艦夕張)指揮下のラエ・サラモア攻略部隊(第六水雷戦隊《夕張、追風、朝凪、夕凪、睦月、弥生、望月》、津軽、特設巡洋艦5隻)、攻略戦支援部隊(第六戦隊、第十八戦隊、第23駆逐隊)はラバウルを出撃、東部ニューギニアに向かった。3月8日未明、攻略部隊はラエとサラモアを占領する。3月10日、米空母機動部隊(レキシントン、ヨークタウン)艦載機の空襲により攻略部隊は大損害を受け、六水戦も夕張・朝凪・夕凪に損害があった。攻略各隊はラバウルに引き揚げ、3月17日附で解散した。トラック泊地に後退した夕張は、3月25日から4月10日まで修理をおこなった。 5月5日、ツラギ攻略作戦に従事中の駆逐艦菊月(第23駆逐隊)が空母ヨークタウンの艦載機に撃沈された。一方、夕張以下六水戦の大部分は5月7-8日の珊瑚海海戦にMO攻略部隊として参戦した。MO攻略部隊全体の被害は限定的だったが、空母祥鳳の沈没、第五航空戦隊(翔鶴、瑞鶴)の消耗にともない、日本海軍はモレスビー攻略作戦を延期してナウル/オーシャン攻略作戦(RY作戦)を発動したが、のちに同作戦も延期されている。夕張は5月19日にトラック泊地を出発、5月24日以降横須賀で整備・補給・休養を行った。なお5月25日附の第23駆逐隊解隊にともない夕月は第29駆逐隊に、卯月は第30駆逐隊に、それぞれ編入された。 1942年(昭和17年)6月中旬、ミッドウェー海戦の敗北により空母機動部隊の主力を失った日本海軍は、南方での連合国軍拠点攻略作戦を延期すると同時に、航空基地の強化と整備を行う必要に迫られる。母港での修理・整備を終えた第六戦隊重巡4隻、第十八戦隊軽巡2隻、第六水雷戦隊各艦はトラック泊地やラバウルへと進出。同時期に夕張もトラック泊地に到着した。6月24日附で南洋諸島の航空基地確保・設営および強化を目的とした『SN作戦』が下令され、支援部隊(第六戦隊・第十八戦隊)、第一護衛隊(夕張、卯月、第29駆逐隊《追風、夕月》)、第二護衛隊(第30駆逐隊《睦月》)という兵力部署が決まる。6月下旬以降、第六水雷戦隊はガダルカナル島占領作戦に従事し、並行して同島飛行場建設をおこなう陸戦隊や基地設営隊輸送船の護衛をおこなった。
※この「第六水雷戦隊」の解説は、「夕張 (軽巡洋艦)」の解説の一部です。
「第六水雷戦隊」を含む「夕張 (軽巡洋艦)」の記事については、「夕張 (軽巡洋艦)」の概要を参照ください。
第六水雷戦隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/25 09:24 UTC 版)
略称は六水戦。先代の六水戦は、1935年(昭和10年)11月15日付で解隊された。 1940年(昭和15年)11月15日、内南洋防衛を担当する第四艦隊(三代目)隷下において再編された。六水戦司令官は阿部弘毅少将。軽巡夕張と旧式駆逐艦(睦月型、神風型)で編制された。新編以来弱小部隊だった第四艦隊は、ようやく水雷戦隊を保有することができた。太平洋戦争開戦直前、第二航空戦隊所属の第23駆逐隊(菊月、卯月、夕月)と第五航空戦隊所属の駆逐艦朧は南洋部隊(指揮官井上成美第四艦隊司令長官、旗艦「鹿島」)に編入され、六水戦を含む南洋部隊と行動を共にした。六水戦(司令官梶岡定道少将)は初戦のウェーク島攻略戦で疾風(第29駆逐隊)と如月(第30駆逐隊)を喪失する。その後も、六水戦は南洋部隊としてラバウル攻略戦、ラエ・サラモア攻略作戦(ラエ・サラモアへの空襲)などに従事した。 1942年(昭和17年)4月10日の戦時編制改訂にともない、第23駆逐隊が制式に第六水雷戦隊に編入される。だが珊瑚海海戦で菊月が失われ、第23駆逐隊は5月25日付で解隊された(夕月は第29駆逐隊へ、卯月は第30駆逐隊に編入)。6月からはパプアニューギニア方面の輸送作戦や、ガダルカナル島飛行場建設任務に従事する。同作戦実施中の7月10日付で六水戦は解隊され、夕張・第29駆逐隊・第30駆逐隊は第四艦隊隷下の第二海上護衛隊。に編入された。このうち第30駆逐隊(睦月、弥生、望月、卯月)は7月14日に新編された第八艦隊に転籍した。
※この「第六水雷戦隊」の解説は、「水雷戦隊」の解説の一部です。
「第六水雷戦隊」を含む「水雷戦隊」の記事については、「水雷戦隊」の概要を参照ください。
- 第六水雷戦隊のページへのリンク