第六潜水艇沈没と遺書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 16:49 UTC 版)
第六潜水艇が訓練中に事故を起こし、乗組員14名全員が殉職した。調査委員会では、佐久間大尉の安全性を軽視した日頃の行動と、煙突の長さ以上の深度への潜航を命じたこと(本当にそのような命令があったのか、正しい命令が誤解、誤記されたのかについては議論があるが)が原因と結論されている。 殉職した乗組員は、ほぼ全員が自身の持ち場を離れず死亡しており、持ち場以外にいた乗組員も潜水艇の修繕に全力を尽くしていた。佐久間自身は、艇内にガスが充満して死期が迫る中、明治天皇に対して潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、続いてこの事故が潜水艇発展の妨げにならないことを願い、事故原因の分析を記した後、次のような遺言を書いた。 謹ンデ陛下ニ白ス我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ その後、「左ノ諸君ニ宜敷」と斎藤実を初めとする当時の上級幹部・知人の名を記し、12時30分の自身の状態を、そして「12時40分ナリ」と記して絶命した。佐久間が記した遺書は39ページにも及ぶ長いものだった。沈没した潜水艇が引き上げられた後に発表された佐久間の遺書は、当時の国内外で大きな反響を呼んだ。国外(主に欧州)では同様の潜水艇事故の折、脱出しようとした乗組員が出入口に殺到し、最悪の場合は乗組員同士で互いに殺し合うなどの悲惨な事態が発生していた。それゆえ、出入口へ殺到せずに最期まで潜水艇を修繕しようとしていた佐久間および乗組員の姿は大きな感銘を与え、各国から多数の弔電が届いた。 国内では長らく修身の教科書に「沈勇」と題して掲載されていたほか、夏目漱石は事故の同年に発表した「文芸とヒロイツク」において、佐久間の遺書とその死について言及していた。 その一方、佐久間大尉は潜水艦母船「歴山丸」との事前申し合わせを無視する事が多かった事、申し合わせよりも長時間の潜航訓練を行う事があり、浮上の遅れが歴山丸の見張り員から異常と思われなかった事など、佐久間大尉の不注意や指示無視の傾向も、事故発生原因の一因であった事で批判もあったのは事実であり、さらにもっと直接的に、はっきりと禁止されていたガソリン潜航を無断で行ったうえに、シュノーケルを開けたまま煙突の長さよりも深く潜航を命じて沈没させたと調査委員会で指摘されているため(注記として命令の記録ミスの可能性に触れられているが、沈下した他の原因については触れられていない)、加藤友三郎は佐久間大尉の軽率で危険な操艦や脱出を図らなかったことを非難している。 今日でも佐久間の命日には、出身地の福井県で遺徳顕彰祭が行われている。海上自衛隊音楽隊による演奏や、イギリス大使館付武官によるスピーチが行われている。
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