ばん‐かい〔‐クワイ〕【×挽回】
挽回
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 03:52 UTC 版)
吉野に逼塞していた義就だったが、寛正4年11月に義政により赦免された(同年8月8日に義政生母の日野重子が死去したことに伴い大赦(恩赦)が行われ、翌月9月18日に斯波義敏や日親らと共に赦免された)。義就は細川勝元と対抗する山名宗全・斯波義廉の支持を得て、寛正6年(1465年)8月に挙兵。文正元年(1466年)8月25日に大和から河内に向かい諸城を落とした。大和では義就派の越智家栄・古市胤栄も挙兵して政長派の成身院光宣らと戦い、11月に十市遠清の仲介で両者は和睦した。 義就は12月に河内から上洛。義政との拝謁も果たし、政長に畠山邸の明け渡しを要求し、管領職を辞任させた。翌文正2年(1467年)1月18日、両派の軍が上御霊神社において衝突し、義就は宗全や斯波義廉の家臣朝倉孝景の協力を得て政長を破った(御霊合戦)。この御霊合戦により山名方(義就・斯波義廉派。西軍)が有利となったことを危惧し、翌年には細川方(政長・斯波義敏派・東軍)が巻き返しを図った。これらに将軍家、畠山、斯波、山名、京極、土岐、六角、富樫などの諸氏の家督争いや幕府内または諸家内での権力争いなどが複雑に関与し、応仁の乱が勃発する。 応仁の乱では義就は宗全率いる西軍に属して政長と戦い、内裏や東寺に陣取り10月3日の相国寺の戦い、翌応仁2年(1468年)の東軍足軽大将骨皮道賢討伐にも参戦。西軍きっての戦上手として河内・大和・摂津・山城を転戦、山城の実力支配も行った。文明元年(1469年)に東軍寄りだった山城西部の乙訓郡を占拠(西岡の戦い)、勝竜寺城を根拠として山崎に陣取った西岡国人や山名是豊、河内の政長派などと戦った。 文明5年(1473年)、宗全と勝元が死去したのち、東西両軍の和睦が進められる中、義就は講和に反対していた。文明9年(1477年)9月21日に政長討伐のために河内へ下り諸城を陥落、10月9日に政長派の守護代遊佐長直を若江城から追い河内を制圧する(若江城の戦い)。越智家栄と古市澄胤らも大和を制圧、政長派の筒井順尊・箸尾為国・十市遠清は没落し、義就は河内と大和の事実上の支配者となった。義就が河内方面に下向後の11月11日、京では東西両軍の間で講和が成立し、西軍諸将は相次いで帰国して解散、応仁の乱は終結した。
※この「挽回」の解説は、「畠山義就」の解説の一部です。
「挽回」を含む「畠山義就」の記事については、「畠山義就」の概要を参照ください。
挽回
「挽回」の例文・使い方・用例・文例
- 私はその遅れを挽回するように最善を尽くします。
- 彼らはそれをどのように挽回するのですか。
- 評価を挽回する
- 彼はどうやって自分の人生を挽回するかつくづくと考えた.
- 名誉を挽回(ばんかい)する.
- 彼は失敗に対して名誉を挽回すべく一生懸命がんばった.
- 名誉を挽回する.
- チームは最終 3 イニングで退勢を挽回し, ついに同点にもちこんだ.
- 名誉は一度失うと挽回することがきわめて難しい.
- 今日の競馬は後半のレースでいくらか挽回したが, 結局少しへこんだ.
- 威信はいったん落とすと挽回し難い
- 身代を立て直す、身代を盛り返す、身代を挽回する
- 家運を挽回する
- 頽勢を挽回する
- 威信はいったん落ちると挽回し難い
- 威信はいったん落すと挽回し難い
- 彼は挽回の見込無し
- 衰運を挽回する
品詞の分類
- >> 「挽回」を含む用語の索引
- 挽回のページへのリンク