南太平洋海戦とは? わかりやすく解説

南太平洋海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/01 09:58 UTC 版)

南太平洋海戦(みなみたいへいようかいせん)は[1]1942年10月26日ソロモン海域で行われた日米両軍の機動部隊による海戦のこと[2]アメリカ軍側の呼称はサンタ・クルーズ諸島海戦(Battle of the Santa Cruz Islands)[3]。日本軍は空母翔鶴瑞鳳が大破・中破という損害を受けたものの、米空母ホーネットを撃沈、空母エンタープライズを中破という戦果を挙げ、戦術的には日本軍の勝利であった[4]。しかし多数の航空機と搭乗員を失い、また戦闘の主目的であるガダルカナル島飛行場も占領できなかった[5]


注釈

  1. ^ 十一航艦司令長官は塚原二四三中将で、軍隊区分においては南東方面部隊指揮官となり、外南洋部隊を指揮する。
  2. ^ 第八艦隊司令長官は三川軍一中将で、軍隊区分においては外南洋部隊指揮官となる。
  3. ^ 敷設艦津軽、運送艦運宗谷、輸送船明陽丸のうち、明陽丸は潜水艦により撃沈された[16]
  4. ^ ガ島から発進したSBD ドーントレスと、エスピリトゥサント島から発進したB-17型重爆[28]、一木支隊第二梯団と横須賀鎮守府第五特別陸戦隊を乗せた輸送船3隻と護衛部隊(指揮官:第二水雷戦隊司令官田中頼三少将)を襲った[29]。空襲で軽巡神通(二水戦旗艦)中破、駆逐艦睦月と輸送船金龍丸が沈没、輸送船や護衛艦はニューブリテン島ラバウルブーゲンビル島南東端のショートランド泊地に避退した[30]
  5. ^ 第十七軍司令官百武中将や辻参謀は、駆逐艦五月雨親潮を乗り継いでラバウルからガダルカナル島へ進出、10月9日夜にガ島タサファロング岬に上陸した[63]。連絡と中継のため、第十七軍参謀長宮崎周一少将はラバウルに残った[64]
  6. ^ 高速輸送船団は優秀輸送船6隻(笹子丸、吾妻山丸、九州丸、南海丸、佐渡丸、崎戸丸)から成り[75]、第四水雷戦隊(司令官高間完少将)が指揮する駆逐艦8隻(秋月〈四水戦旗艦〉、村雨五月雨夕立春雨時雨白露有明)が護衛していた[76]。優秀船3隻(笹子丸、吾妻山丸、九州丸)を喪失した[77][78]
  7. ^ 17日の飛行場攻撃では、零戦18と艦攻18が出撃し、艦攻8を失った[84]
  8. ^ 伊176潜水艦長田辺弥八少佐は、ミッドウェー作戦時の伊号第百六十八潜水艦の艦長である。この海戦で伊168は空母ヨークタウンと駆逐艦ハムマンを撃沈した[96]
  9. ^ 利根型重巡洋艦は水上偵察機5-6機を搭載する偵察能力に優れた艦種、秋月型駆逐艦10cm連装高角砲を装備した防空駆逐艦である。
  10. ^ 第二師団司令部と辻政信参謀の協議により、右翼隊長の川口清健少将が突然罷免され、東海林俊成大佐が右翼隊長に任命された[110]
  11. ^ 乗組員を各艦に収容したあと、由良は夕立と春雨により自沈処理された[126]
  12. ^ 一部の二次資料では、瑞鶴艦爆隊長の坂本明大尉機と記述する[201]
  13. ^ 原為一(当時、天津風艦長)によれば、同艦は搭乗員15名(うち2名戦死)を収容した[206]
  14. ^ 翔鶴隊は空母1隻を爆撃して6発命中、この空母を瑞鶴隊雷撃と協同で撃沈、駆逐艦1隻大破炎上、撃墜1を報告した[168]
  15. ^ アメリカ側の資料で、南太平洋海戦の対空戦闘中に日本軍の潜水艦[207]伊号第二十一潜水艦)が第16任務部隊を襲撃して重巡ポートランドや駆逐艦ポーターを雷撃、ポーターを撃沈したとの資料があるが[42]、日本側記録では該当艦がない[208]。確認できる攻撃は、10月27日午前3時38分の伊21から戦艦ワシントンに対するもの[209]。魚雷が早爆してワシントンに被害はなかった[209]
  16. ^ 瑞鶴隊はエンタープライズ型空母1撃沈、サウスダコタ型戦艦1轟沈、艦型不詳巡洋艦1撃沈、駆逐艦1大破、撃墜8を報告した[168]
  17. ^ 隼鷹艦爆隊隊長の山口正夫大尉や分隊長の三浦尚彦大尉は隼鷹第1次攻撃で戦死し、中尉の彼が最先任となっていた。
  18. ^ トラック残留(主隊〈大和、陸奥、第7駆逐隊〉、前進部隊〈金剛、榛名、愛宕、高雄、隼鷹、飛鷹〉、機動部隊〈比叡、霧島、利根、雪風、天津風、照月、浜風〉)、内地回航(空母〈翔鶴、瑞鶴、瑞鳳〉、重巡〈妙高、熊野、筑摩〉、駆逐艦〈嵐、舞風、谷風、浦風、磯風、秋雲、時津風、初風〉)[277]
  19. ^ 南太平洋海戦時点で日本軍が保有していた軽空母3隻(大鷹雲鷹鳳翔)は、機動部隊として使用できなかった[278]。空母飛鷹は、第三次ソロモン海戦のあと12月5日にトラック泊地を出発、内地に帰投した[279]
  20. ^ 大本營発表 二十七日午後八時三十分/一 帝国艦隊は十月二十六日黎明より夜間に亙りサンタクルーズ諸島北方洋上において敵有力艦隊と交戦、敵航空母艦四隻、戦艦一隻、艦型未詳一隻を撃沈、戦艦一隻、巡洋艦三隻、駆逐艦一隻を中破し、敵機二百機以上を撃墜その他により喪失せしめたり。我方の損害、航空母艦二隻、巡洋艦一隻小破せるも、何れも戦闘航海に支障なし。未帰還機四十數機。(註)本海戦を南太平洋海戦と呼称す(第二次ソロモン海戦以後の戦果喪失略)[309]
  21. ^ 連合艦隊旗艦主隊(大和陸奥)ほか。
  22. ^ 摩耶は戦時編制において第四戦隊所属だが、臨時に第五戦隊司令官の指揮下で行動していた[355]。第五戦隊所属の重巡羽黒は整備艦船に区分されており[352]、内地の佐世保海軍工廠で修理中だった[356]
  23. ^ 二航戦には空母飛鷹が所属するが、10月20日に機関故障を起こし作戦行動不能となる[358]。飛鷹は航空隊を隼鷹に補充し、駆逐艦磯波(第19駆逐隊)と(第6駆逐隊)に護衛されトラック泊地に後退した[82]
  24. ^ 最上型重巡洋艦4番艦の熊野は戦時編制において第七戦隊所属だが、本作戦時は故障に悩まされていた[368]。第七戦隊司令官西村祥治少将は[369]、10月18日に旗艦を鈴谷に変更し、鈴谷は機動部隊前衛、熊野は機動部隊本隊となった[130]
  25. ^ 野分は補給部隊護衛のため、10月26日の航空戦には参加していない[131]。第4駆逐隊の駆逐艦萩風一木支隊先遣隊輸送で損傷し[370]、修理中のため海戦に参加せず。
  26. ^ 浜風は第17駆逐隊に所属するが、本作戦では第17駆逐隊(谷風、浦風、磯風)が機動部隊前衛、浜風は機動部隊本隊の護衛となった。
  27. ^ 第61駆逐隊には駆逐艦秋月が所属するが、外南洋部隊(第八艦隊)に編入されて第四水雷戦隊旗艦となり、10月25日の戦闘で損傷した[126]
  28. ^ 南太平洋海戦当日の鈴谷(艦長木村昌福大佐)は第七戦隊旗艦であり、機動部隊前衛に所属する[368]。熊野は機動部隊本隊に所属しており、別行動(既述)[130]
  29. ^ 外南洋部隊の主戦力であった第六戦隊は、第一次ソロモン海戦の帰路で潜水艦により重巡加古が沈没[374]、10月11日-12日のサボ島沖海戦(連合軍呼称:エスペランス岬沖海戦)[375]で重巡古鷹が沈没し旗艦青葉が大破(第六戦隊司令官五藤存知少将戦死)[376]、健在艦は衣笠だけになった。
  30. ^ 第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将:軽巡川内、第11駆逐隊(白雪初雪)、第19駆逐隊(敷波浦波綾波)。第四水雷戦隊司令官高間完少将:秋月型駆逐艦秋月、軽巡由良、第2駆逐隊(村雨、五月雨、夕立、春雨)、第9駆逐隊(朝雲)、第27駆逐隊(有明、夕暮、白露、時雨)、第6駆逐隊(暁、雷)。

出典

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南太平洋海戦

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ガダルカナル島の戦い」の記事における「南太平洋海戦」の解説

詳細は「南太平洋海戦」を参照 日本海軍連合艦隊日本陸軍第17軍総攻撃支援のために近藤信竹中将指揮下の第二艦隊(第三戦隊:戦艦金剛榛名第二航空戦隊空母隼鷹飛鷹)および南雲忠一中将指揮下の第三艦隊第一航空戦隊空母瑞鶴翔鶴龍驤瑞鳳等)を派遣する10月26日、これによって発生した南太平洋海戦において日本側は搭乗員多数失ったが、空母1隻が沈没、同1隻中破戦果挙げ一時的にアメリカ太平洋艦隊展開する空母戦力無くなることとなった。この報告を受け第38師団1万名の輸送決定した一方アメリカ側この頃ガダルカナル情勢に相当の危機感持っていた。ヨーロッパ戦線では間近に迫っていたドイツへ反攻作戦のために大量兵力兵器を必要としていたが、ルーズベルト大統領10月24日統合参謀本部に「入手可能なあらゆる兵器を、ガダルカナル保持のためその地域確実に送れ。」と書いたメモ送っている。 第1海兵師団2つ機関銃分隊指揮していたジョン・バジロン軍曹は、日本軍第二次総攻撃が行われた10月24日 - 26日の間、分隊のほとんどの隊員死傷する中で機関銃陣地死守して日本軍撃退大きな役割果たした。この行為に対してアメリカ軍最高位勲章である名誉勲章授与され英雄として帰国した帰国後は戦時国債販売キャンペーンで顔の一人として活動した。しかしその後前線へ復帰志願して硫黄島の戦い戦死)。

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南太平洋海戦

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サウスダコタ (戦艦)」の記事における「南太平洋海戦」の解説

ニューカレドニアヌーメアでは、新任南太平洋部隊指揮官ウィリアム・ハルゼー・ジュニア中将麾下アメリカ軍機動部隊対しサンタクルーズ諸島からガダルカナル島にかけてのソロモン海の安全を確保するよう命じた。すなわち、ガ島日本陸軍ヘンダーソン飛行場総攻撃をおこなうので、この支援のためガ島接近する日本艦隊近藤信竹中将前進部隊南雲忠一中将機動部隊)を阻止する任務与えたウィリス・A・リー提督指揮する64任務部隊戦艦ワシントン重巡サンフランシスコ軽巡ヘレナ軽巡アトランタ駆逐艦6隻)には、日本軍ガダルカナル島増援部隊砲撃阻止するよう命じたキンケイド提督の第61任務部隊英語版)(第16任務部隊、第17任務部隊)に、ガダルカナル北東海面進出するよう命じた10月25日正午PBYカタリナ飛行艇日本空母機動部隊発見した。第61任務部隊攻撃隊を発進したが、空振りおわった。 翌10月26日未明ヌデニ島発進したアメリカ軍PBY飛行艇南雲機動部隊爆撃したが、被害はなかった。同日26日午前5時(日本時間)、翔鶴索敵機は第61任務部隊発見し午前6時第一航空戦隊翔鶴瑞鶴瑞鳳)は攻撃隊を発進させた。またエンタープライズから索敵として出撃したSBDドーントレス一航戦発見このうち2機が軽空母瑞鳳爆撃して中破させた。ここに南太平洋海戦の火蓋切られた。第61任務部隊二つ集団わかれており、航空戦始まったときキンケイド提督直率の第16任務部隊空母エンタープライズ戦艦サウスダコタ重巡ポートランド軽巡サン・ファン駆逐艦8隻)は、ジョージ・D・マレー少将指揮する17任務部隊空母ホーネット重巡ノーザンプトンペンサコラ軽巡サン・ディエゴジュノー駆逐艦6)からおよそ20km離れた海域にいた。 一航戦第一次攻撃隊はスコール中にあったエンタープライズ隊をやりすごし、青天下のホーネット隊に攻撃集中した爆弾魚雷命中によりホーネット炎上して傾斜したF4F邀撃と各艦の対空砲火一航戦第一次攻撃隊は大きな被害を受け、攻撃指揮官村田重治少佐翔鶴飛行隊長)も戦死した続いて一航戦第二次攻撃隊(0610分発進翔鶴隊〈零戦5、艦爆19触接艦攻1〉、0645発進瑞鶴隊〈零戦4、艦攻16触接艦攻1〉)が日本時間8時20分から午前9時の間到達し健在第16任務部隊エンタープライズサウスダコタポートランドほか)を狙った米軍時間9時50分エンタープライズレーダー接近する日本軍攻撃隊を探知したサウスダコタエンタープライズのそばで対空砲撃を行った。『ニミッツ太平洋海戦史』では「戦艦サウス・ダコタ」の対空砲火が正確で猛烈きわめたため、「エンタープライズ」損害飛行甲板三個爆弾受けたにすぎなかった。」と記述している。翔鶴隊(爆撃)は「敵航空母艦一隻爆撃六弾命中、続イテ攻撃セル瑞鶴艦攻隊ノ成果相俟テ之ヲ撃沈駆逐艦一隻大破炎上 敵機一機撃墜」、瑞鶴隊(雷撃)は「航空母艦一(エンタープライズ型)撃沈戦艦一(サウスダコタ型)轟沈巡洋艦一(艦型不詳)撃沈駆逐艦一大敵機八機撃墜」、制空隊は敵戦闘機4・艦爆1機撃墜報告した一航戦第二次攻撃損害は、喪失零戦1、艦爆10艦攻9)、不時着零戦1、艦爆2、艦攻1)であった実際戦果/被害は、エンタープライズ中破重巡洋艦ポートランド魚雷3本命中不発)、駆逐艦スミス英語版)が被弾機に突入された。 つづいて日本攻撃第3波12:30日本時間午前9時30分)に襲来しサウスダコタ九九式艦上爆撃機襲われた。ホーネット着艦不能となったので、エンタープライズは2隻分の艦上機受け入れていた。サウスダコタレーダー疑わしい目標探知エンタープライズ着艦ようとしていた味方機を誤射した。エンタープライズは「周辺所属不明機なし」と通知した直後日本軍攻撃隊が低いをついて攻撃開始した。この攻撃隊は、第二航空戦隊司令官角田覚治少将)の空母隼鷹」から飛来し志賀淑雄大尉率い二航戦第一次攻撃29機(零戦12艦爆17であった雲高3500メートル雲底500メートル視界悪く空母発見できなかった部隊周囲護衛艦艇を攻撃したサウスダコタは一番主砲塔上に250kg爆弾直撃を受け、49名が負傷した。ほとんど損傷がなかったにかかわらず動揺した士官操舵系無断で第2戦闘指揮所切り換えたため数分操艦不能となり、結果サウスダコタ空母エンタープライズ突進した。この時はエンタープライズが4トン戦艦回避し大惨事まぬかれた。二航戦第一次攻撃隊は空母命中弾3発、大型巡洋艦命中弾1、軽巡命中弾2、敵機12撃墜報告した日本側は艦爆11自爆9、不時着2)を喪失した実際には、エンタープライズ至近弾、サウスダコタ命中弾1、軽巡サン・ファン命中弾があった。 これ以降エンタープライズサウスダコタは、炎上したホーネット曳航役の一部艦艇戦場残して避退した。アメリカ艦隊ニューカレドニアヌーメア退いた連合軍ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場基地引き続き保持しエスピリッツサント島航空基地と共に拠点強化すすめた。本海戦で、サウスダコタ日本26機の撃墜記録した。しかしサウスダコタのピート・パブリック対空射撃指揮官は、戦艦ワシントンのスコッティ・キャンベル対空射撃指揮官に「個々撃墜申告合計しただけ」と2人きりの場所で打ち明けている。10月30日04:14サウスダコタ駆逐艦マハンUSS Mahan, DD-364)と衝突マハン船首曲がり構造材大破したまた、火災直ち鎮火され両艦はヌーメア帰還しサウスダコタは再び工作艦ヴェスタルから補修受けたこの頃サウスダコタは「艦隊疫病神」であるという評判立っていたという。 南太平洋海戦における日本軍大本営発表では「空母4隻、戦艦1隻、艦型未詳1隻撃沈戦艦1隻、巡洋艦3隻、駆逐艦1隻中破敵機200以上撃墜/我方空母2隻、巡洋艦1隻小破、未帰還40数機」だったももの、アメリカ側空母ホーネット駆逐艦ポーター沈没空母エンタープライズ戦艦サウスダコタ軽巡サンファン駆逐艦2隻が損傷した日本側は空母翔鶴瑞鳳および重巡筑摩駆逐艦照月27日未明夜間空襲)が損傷し航空隊損害甚大であった11月上旬戦果訂正では、空母3隻(ホーネットエンタープライズ大型空母サラトガ疑いあり〉)、戦艦サウスダコタ巡洋艦3隻と駆逐艦1隻撃沈巡洋艦3隻と駆逐艦3隻撃破敵機喪失200以上となった

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南太平洋海戦

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ホーネット (CV-8)」の記事における「南太平洋海戦」の解説

詳細は「南太平洋海戦」を参照 帰投したホーネットは、三脚マストの上CXAMレーダー設置し従来この位にあったSCレーダーメインマスト移動したまた、艦首部はじめとして20ミリ機銃30基から32増設され、格納庫甲板設置されていたカタパルト撤去された。整備の後、ホーネット真珠湾近海訓練行った8月7日アメリカ軍ガダルカナル島建設中日本軍飛行場部隊急襲しガダルカナル攻防戦始まったこの方面のアメリカ機動部隊エンタープライズの他、サラトガ (USS Saratoga, CV-3)、ワスプ (USS Wasp, CV-7) を中心としたフレッチャー少将率い任務部隊がいたが、8月24日第二次ソロモン海戦エンタープライズ損傷しサラトガ8月31日伊26雷撃損傷ワスプ9月15日伊19雷撃沈没し即座に行動可能なアメリカ空母は、この時点ホーネットただ一隻となってしまった。ホーネットはただちにソロモン戦線進出し損傷したエンタープライズ急ピッチで修理行って真珠湾出撃10月24日ニューヘブリディーズ諸島北西海域ホーネットエンタープライズの各任務部隊合流ガダルカナル島対す日本側の動き警戒することとなった10月25日には偵察機日本機動部隊発見していたが、無線封止不手際により攻撃成功しなかった。 10月26日の南太平洋海戦当日アメリカ軍再度日本機動部隊発見しホーネット早朝より第1次攻撃隊(F4F 8機、SBD 15機、TBF 6機)と第3次攻撃隊(F4F 7機、SBD 9機、TBF 9機)を飛ばした第1次攻撃隊は7時27分に機動部隊発見し空母翔鶴450キロ爆弾4発を命中させ、翔鶴大破させた。第3次攻撃隊は空母発見できなかったものの、重巡筑摩爆撃開始して筑摩撃破した。 しかし、ホーネット入れ違い殺到してきた日本機動部隊本隊からの第1次攻撃隊(村田重治少佐指揮艦攻20機、艦爆21機、零戦21機)に発見された。エンタープライズスコール中に逃げ込んだので、ホーネットのみが打ちのめされるとなった第1次攻撃隊の攻撃により、ホーネット250キロ爆弾3発と魚雷2本が命中艦爆艦攻各1機(指揮官機である村田機含む)がホーネット体当たりしたホーネット被弾により艦内動力失い航行不能となり、火災発生させた。また、11度傾斜した駆逐艦モリスラッセル、マスティンによる支援受けて消火には成功したが、依然航行不能であり重巡洋艦ノーザンプトン曳航試みた。だが、曳航索が切れやり直しとなった。続く日本軍攻撃エンタープライズ向かい損傷したエンタープライズホーネット残して退避したノーザンプトン前回より太いワイヤー用いてホーネット曳航再開したがそこに日本軍第二航空戦隊からの第2次攻撃隊(艦攻7機、零戦8機)が来襲した。攻撃受けたノーザンプトン曳航索を切り離したためホーネット停止状態であったが、命中した魚雷は1本だけであった魚雷第二エレベーター側部の右舷命中し、これにより傾斜14度増大メーソン英語版艦長総員退艦準備発令した続いて瑞鶴からの第3次攻撃隊(艦爆2機、艦攻6機、零戦5機)がホーネット攻撃。まず艦爆攻撃により至近弾1発があり傾斜がさらに増大艦長総員退艦を命じた次に艦攻爆撃行い800キロ爆弾1発が命中した乗員の退艦終了後第二航空戦隊第3次攻撃隊(艦爆4機、零戦6機)が現れホーネットにさらに爆弾1発を命中させた。 このころアメリカ軍ホーネット放棄決定し駆逐艦マスティン(英語版)(USS Mustin, DD-413) およびアンダーソン英語版)(USS Anderson, DD-411) に処分命じた。マスティンが魚雷8本を打ち込んで3本命中させ、続いてアンダーソンも8本の魚雷発射し6本を命中させるホーネット沈まず、2隻はさらに5インチ砲弾430発を打ち込んだそうこうしている内に、日本艦隊迫ってきたのでマスティンとアンダーソン避退ていった

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南太平洋海戦

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瑞鶴 (空母)」の記事における「南太平洋海戦」の解説

詳細は「南太平洋海戦」を参照 10月25日深夜第三艦隊ソロモン諸島へ向け南下中、アメリカ軍哨戒機爆撃され瑞鶴前方150m程に至近となった報告受けた第三艦隊司令部は対応を協議アメリカ軍位置発見されたと判断して一時北方反転する。この行動が、日本側にとって僥倖となった10月26日日本艦隊再度機動部隊空母エンタープライズホーネット基幹)と交戦する日本艦隊は、南雲中将直率の機動部隊本隊第一航空戦隊翔鶴瑞鶴瑞鳳》、重巡熊野》、第4駆逐隊《嵐、舞風》、第16駆逐隊雪風初風天津風時津風》、第17駆逐隊浜風》、第61駆逐隊照月》)、第十一戦隊司令官阿部弘毅少将戦艦比叡座乗指揮下の機動部隊前衛第二艦隊司令長官近藤信竹中将重巡愛宕座乗指揮下の前進艦隊第二航空戦隊角田覚治少将空母隼鷹を含む)に分離していた。日本側は空母ホーネット (USS Hornet, CV-8)と駆逐艦ポーター(USS Porter, DD-356)を撃沈空母エンタープライズ中破戦艦サウスダコタ (USS South Dakota, BB-57)、防空巡洋艦サンフアン(USS San Juan, CL-54)、駆逐艦スミスUSS Smith,DD–378)に損傷与えた一方アメリカ側空母翔鶴重巡筑摩大破空母瑞鳳中破させた。なお、第一次攻撃発進時瑞鶴攻撃隊の発艦遅れた件について瑞鶴野元艦長は、「レーダー持っている翔鶴から矢の催促がきたが、瑞鶴は(レーダーが)ないのでのんびりやることにした」と回想している。瑞鶴航空隊発進のため風上向かい翔鶴2万メートル近く離れこのためアメリカ軍攻撃隊は再び翔鶴集中攻撃加えた大破した翔鶴航空隊発進収容不可能となり旗艦としての通信能力喪失、そこで一時的に野元瑞鶴艦長航空戦指揮をとることになった。のちに南雲中将草鹿少将など第三艦隊司令部翔鶴から駆逐艦嵐(第4駆逐隊司令有賀幸作大佐)へ移動し、さらに同艦から瑞鶴移乗し将旗掲げた。また本艦損傷はなかったものの、艦載機消耗甚大であった10月30日トラック泊地帰投戦死者葬儀を行うが、輸送船救助されていた瑞鶴飛行隊長高橋定大尉葬儀開始1時間前に母艦瑞鶴)へ帰還している。 11月4日瑞鶴第五戦隊妙高)、第16駆逐隊初風時津風と共に内地帰投するよう命じられる9日瑞鶴隊(瑞鶴初風)は豊後水道にて佐世保へ向かう妙高隊(妙高時津風)と分離、呉に到着したこのため11月中旬第三次ソロモン海戦には参加していない。後日翔鶴瑞鶴は三回目感状授与された。11月11日第三艦隊司令長官南雲中将から小沢治三郎中将交代した。同艦隊参謀長23日附で草鹿少将から山田定義少将交代している。

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南太平洋海戦

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照月 (駆逐艦)」の記事における「南太平洋海戦」の解説

日本海軍1942年昭和17年10月7日付で秋月型2隻(1番艦秋月2番照月)により第61駆逐隊編成した駆逐隊司令則満宰次大佐海兵46期)。編制同時に61駆逐隊は、第三艦隊司令長官南雲忠一中将海軍兵学校36期)・第十戦隊司令官木村進少将40期)に編入される10月10日照月横須賀出港する10月14日トラック諸島到着する詳細は「南太平洋海戦」を参照照月」は直ち機動部隊本隊第三艦隊司令長官南雲忠一中将参謀長草鹿龍之介少将旗艦翔鶴」)と合流して出撃した。10月22日から23日にかけて重巡洋艦筑摩と共に艦隊から分離、2隻だけで南雲機動部隊南方捜索した。だがアメリカ軍発見できず、「筑摩」は南雲機動部隊前衛艦隊に、「照月」は南雲機動部隊本隊合流した10月26日の南太平洋海戦における「照月」は、第三艦隊司令長官南雲中将)直率の第一航空戦隊翔鶴瑞鶴瑞鳳)の直衛についた随伴艦は重巡洋艦熊野駆逐艦8隻(第4駆逐隊〈嵐、舞風〉、第16駆逐隊初風雪風天津風時津風〉、第17駆逐隊浜風〉、第61駆逐隊照月〉)という編成である。 戦闘初期SBDドーントレス2機(空母エンタープライズ所属機)の奇襲により空母瑞鳳」が被弾発艦不能となり戦線離脱余儀なくされた。つづく米空母2隻(エンタープライズホーネット艦載機攻撃により機動部隊前衛部隊所属していた「筑摩」が大破機動部隊本隊では旗艦翔鶴」が大破した戦史叢書によれば、「照月」は翔鶴直衛として対空戦闘中に至近弾を受け、若干損傷受けた照月主計長は、本艦損傷空襲ではなくアメリカ軍飛行艇夜間爆撃によると回想している。7名が戦死した。また南雲長官機動部隊司令部)は大破した翔鶴」から「照月」に移乗する予定だったが、照月不在のため「嵐」に移動した中島親孝第三艦隊通信参謀によれば、「照月」は出撃前の打ち合わせ参加していなかったため、いつのまにか「翔鶴」から離れていたという}。損傷空母2隻(翔鶴瑞鳳)は駆逐艦初風」と「舞風」に護衛されトラック向かい、「嵐」は27日午前7時機動部隊本隊合流して南雲司令部を「瑞鶴」に送り届けた南雲長官が「瑞鶴」に移乗するまで第二航空戦隊司令官角田覚治少将(旗艦隼鷹)が航空戦指揮委任され航空部隊隼鷹瑞鶴)を指揮してアメリカ軍機動部隊交戦した海戦後10月29日トラック泊地到着した工作艦明石」による修理受けた

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南太平洋海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 09:09 UTC 版)

翔鶴 (空母)」の記事における「南太平洋海戦」の解説

詳細は「南太平洋海戦」を参照 ガダルカナル島日本軍劣勢に陥り、日本軍10月25日予定して陸海軍総攻撃実施決定する10月11日翔鶴以下南雲機動部隊トラック島出撃し、ソロモン海域に進出した10月15日索敵機が4群からなる船団発見そのうち最も近いものに対して翔鶴」と「瑞鶴」は艦攻9機、艦爆21機、零戦8機が攻撃向かい駆逐艦メレディス」を撃沈した損害艦爆艦攻各1機未帰還艦攻1機不時着水搭乗員駆逐艦磯風」が救助であった艦攻9機、艦爆21からなる第二次攻撃隊は敵を発見できず、本隊からはぐれた艦爆5機のみが輸送艦2隻を攻撃したものの損害与えられなかった 10月25日夜、アメリカ軍飛行艇夜間爆撃敢行したが、被害はなかった。10月26日戦闘における第三艦隊本隊戦力は、第一航空戦隊空母3隻(翔鶴瑞鶴瑞鳳)、第七戦隊重巡洋艦1隻(熊野)、駆逐艦部隊(第4駆逐隊〈嵐、舞風〉、第61駆逐隊照月〉、第17駆逐隊浜風〉、第16駆逐隊雪風初風時津風天津風〉)であった同日朝、索敵中のドーントレス2機が空母瑞鳳奇襲し爆弾1発を艦後部命中させて着艦不能とさせた。午前6時50分、翔鶴索敵機がアメリカ軍機動部隊発見翔鶴飛行隊長村田重治少佐率い九七式艦上攻撃機20高橋定大尉率い九九式艦上爆撃機21零戦8機の第一次攻撃隊が発進する続いて第二次攻撃隊の発進開始されたが、瑞鶴艦攻発進遅れたため、翔鶴艦爆隊(関衛少佐艦爆19零戦5)は瑞鶴隊を待たずアメリカ軍機動部隊向かった旗艦翔鶴)が南下する一方瑞鶴航空隊発進のため風上向かい、20kmも離れる孤立した翔鶴珊瑚海海戦続いてアメリカ軍機の集中攻撃を受けることになった爆弾4発(飛行甲板後部左舷3発、右舷後部に1発)が命中高角砲弾の一部誘爆はあったが致命傷はならず機関健在だった。特に煙突冷却用ポンプ効果発揮し事前に被弾火災想定訓練をおこなっていた事が被害最小限にしたといえる。また艦橋防空指揮所の有馬翔鶴艦長)が右舷前方から接近するドーントレス一群対し取舵」を下令したところ、塚本翔鶴航海長)は珊瑚海海戦経験から独断面舵転舵アメリカ軍艦爆隊と反航態勢)。爆弾4発命中とどめた塚本航海長は「艦長命令だからといってミスミス悪いこと知りながら盲従していたら、おそらく全弾命中して翔鶴』の運命終わりであったろうと思う」と、南雲長官草鹿参謀長面前でも命令違反犯した回想している。有馬取舵転舵下令した事は失敗だったと認め塚本叱責する事態にはならなかった。 南雲機動部隊攻撃受けていたころ、日本軍攻撃隊もアメリカ軍機動部隊空襲第二航空戦隊空母隼鷹)や第二艦隊共同空母ホーネット駆逐艦1隻撃沈エンタープライズ大破という戦果をあげている。その一方村田少佐を含む艦攻10機、関少佐を含む艦爆22機、零戦12機、搭乗員54名を失った随伴駆逐艦不時着搭乗員救助あたった午後5時、南雲司令部駆逐艦「嵐」(第4駆逐隊司令有賀幸作大佐)に移乗し翔鶴から離れた。なお、有馬翔鶴艦長)は徹底追撃戦果拡大の必要を痛感しており、翔鶴逃走するアメリカ軍機動部隊追撃することを主張した。自艦を被害担当艦(囮)にして、他艦の攻撃支援をしようという有馬特攻精神だったという。だが草鹿龍之介機動部隊参謀長に「飛行甲板大破した空母戦えるのか」と退けられている。 艦上戦死者144名、航空隊戦死者54名を出して大破した翔鶴は、駆逐艦舞風」と「初風」に護衛され避退した。10月28日トラック帰港した有馬翔鶴艦長)と大林末雄大佐瑞鳳艦長)は戦艦大和」の連合艦隊司令部訪ね戦闘状況報告したこのあと山本長官と宇垣参謀長翔鶴を自ら視察した後日翌年3月28日)、有馬海兵43期の同期生友人高木惣吉当時海軍省教育局長)に心情打ち明け、南太平洋海戦時の状況について「山本長官は間もなく戦死された。それなら思い切って遠慮せず本心吐露すればよかった。残念でたまらない」と語ったという。10月29日昭和天皇は南太平洋海戦における連合艦隊戦果称える勅語を贈る。 この後、南太平洋海戦で損傷した空母2隻(翔鶴瑞鳳)、重巡2隻(熊野筑摩)は駆逐艦8隻に護衛され内地帰投11月6-7日にそれぞれの母港到着した横須賀到着後は同地修理を行うが、この間東条英機首相視察訪れている。日本海軍は、真珠湾攻撃珊瑚海海戦・南太平洋海戦における2隻(翔鶴瑞鶴)の奮戦対し3回感状授与した。また二度大海戦における2隻(翔鶴瑞鶴)の被害の差から、瑞鶴幸運艦と呼ばれた瑞鶴乗組員達は翔鶴について、「実に運の悪い艦だ」と噂していたという。一方福地周夫翔鶴運用長)は「海軍軍人立場からいうと、(瑞鶴は)逃げ隠れていて戦うことができずに、かえって不運だった思っている。翔鶴の方が武運恵まれて幸運だった」・「敵が攻めて来ているのに隠れていて、しかも、僚艦攻撃されているのに知らん顔をして戦わなかった『瑞鶴』を、単に運がよかったとばかり思わない」と著している。珊瑚海海戦の時も、「瑞鶴隠れていて無事で、まことに幸運でした」と報告した山本長官は喜んだだろうか……と指摘している。

※この「南太平洋海戦」の解説は、「翔鶴 (空母)」の解説の一部です。
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