ビラ・スタンモーア夜戦とは? わかりやすく解説

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ビラ・スタンモーア夜戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/23 00:57 UTC 版)

ビラ・スタンモーア夜戦(ビラ・スタンモーアやせん、英語: Battle of Vila-Stanmore)は、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)3月5日にソロモン群島ニュージョージア諸島で生起した海戦のこと[1]ブラケット海峡の戦い(Battle of Blackett Strait)とも呼ばれる。




注釈

  1. ^ ニュージョージア島とイサベル島周辺を中部ソロモン諸島と呼称する。ブーゲンビル島、ショートランド島、ブカ島を北部ソロモン諸島と称する。『戦史叢書39巻、大本營海軍部・聯合艦隊〈4〉』73頁の注釈より。
  2. ^ 後日、沖縄方面根拠地隊司令官。沖縄戦で戦死。
  3. ^ 候補生らが「初めて入港した港湾では必ず行われる実習項目となっており、ガンルーム士官が短艇指揮として陸上との連絡、上陸員の送迎を行う上に必要な実施教育だった」(#村雨の最期p.14)
  4. ^ 「漸次北上の地歩を固めつつあった時であり、弾薬の補給も意の如くならないので射撃の制限を加えたのかもしれない。しかしむしろ敵は無益な交戦を避けて、極力当面の作戦目的たる基地の推進に重点を置いたと考えるのが正しいであろう」という見方が存在する(#村雨の最期pp.106-107)。この時期、南太平洋部隊は艦船と航空機が不足気味ではあったが(#ポッターpp.344-345)、弾薬に関する制限が実際にあったかどうかについては不明である。
  5. ^ 「椰子林を管理していた人々の家らしい」(#村雨の最期p.47)。目立った建物だったらしく、「潮流に遮られ、泳げども泳げども近づかない赤い屋根の魔法にとりつかれて、遂に力盡き果てコロンバンガラ島の海に村雨を追って沈んでしまった」者もいた(#村雨の最期p.58)。

出典

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ビラ・スタンモーア夜戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 02:46 UTC 版)

村雨 (白露型駆逐艦)」の記事における「ビラ・スタンモーア夜戦」の解説

1943年昭和18年1月24日、第2駆逐隊僚艦春雨輸送任務中にアメリカ潜水艦ワフー(USS Wahoo, SS-238) の雷撃大破10ヶ月近く戦線離脱余儀なくされた。2月3日村雨浦賀船渠出て横須賀回航2月7日第四水雷戦隊司令官高間少将旗艦村雨)は駆逐艦3隻(村雨浦波朝潮)および空母冲鷹指揮して横須賀出港2月12日、4隻はトラック到着到着と共に第四水雷戦隊旗艦長良変更された。2月23日救援艦3隻(天津風浦風雄島と共に春雨曳航中の船体前部切断喪失)がトラック泊地到着工作艦明石に横付して修理はじまった2月上旬日本海軍ケ号作戦にてガダルカナル島から撤退するその後日本海軍ニュージョージア島防衛拠点とすべく、海軍第8聯合特別陸戦隊4000名と設営隊3600名、陸軍南東支隊佐々木登少将。第38師団歩兵229聯隊など6000名)をニュージョージア島派遣し、同島南西部ムンダ飛行場築いた。だがアメリカ軍空襲輸送船3隻のうち1隻が沈没、1隻が炎上し、すぐに弾薬糧食の不足という事態に陥ってしまう。そこでトラック泊地にいた第2駆逐隊司令村雨と第9駆逐隊峯雲に緊急輸送命令出され2月27日附で南東方面部隊編入2月28日トラック出撃してラバウル向かった3月2日、2隻(村雨峯雲)はラバウル到着した3日、「村雨」はコロンバンガラへ向け出撃ラエへの輸送作戦陽動兼ねていたが輸送船団全滅のため引き帰し同日1130ラバウル入港の際に座礁離礁入港できたのは翌日夜明け間近であった。 「村雨」、「峯雲」は各艦ドラム缶200本、弾薬糧食上甲板満載すると、4日夕刻ラバウル出撃した。ビスマルク海海戦ダンピール海峡の悲劇)の生還者収容した駆逐艦部隊雪風朝雲敷波浦波初雪)等がラバウル帰着した日でもある。 駆逐艦2隻(村雨峯雲)はブーゲンビル島ショートランド泊地立ち寄ったのち、3月5日午後9時30分から10時30分までコロンバンガラ島クラ湾での補給実施帰途西側水道つかわず北上してショートランド泊地へむかう航路をとった。ところが2隻の行動アメリカ軍通報されており、PBYカタリナ飛行艇"ブラックキャット"が偵察哨戒実施アメリカ潜水艦グレイバックグランパスクラ湾出口配備された。当時の天候薄曇り月齢28視界15km程、風もない静かな夜であったという。 詳細は「ビラ・スタンモーア夜戦」を参照 同時刻、アーロン・S・メリル少将指揮する68任務部隊クリーブランド級軽巡洋艦3隻(モントピリアクリーブランドデンバー)、駆逐艦3隻(ウォーラーコンウェイコニー)がクラ湾進入していた。第68任務部隊ニュージョージア島ムンダ飛行場対す艦砲射撃実施すべく出撃したのだが、日本軍巡洋艦もしくは駆逐艦2隻がショートランド出撃したとの報告情報部から受け、さらに夜間哨戒機偵察報告受信し日本艦隊迎撃すべく準備整えていたのである速力20ノット航行する艦隊2257分(日本時間と約1時間ずれている)にレーダー目標探知23時01分に射撃開始したレーダーのない2隻(村雨峯雲)は米艦隊存在に全く気付いておらず、砲撃受けた当初夜間空襲判断していた。種子島洋二駆逐艦長は、当初対空戦闘』を下令つづいて敵艦隊と悟り「右砲戦、右80度、反航する敵艦射撃開始」を命令したものの、まず峯雲被弾炎上し続いて村雨主砲機関部破壊され航行不能陥った。まもなく村雨艦尾から沈没したコロンバンガラ島日本軍守備隊は、北東方面での海戦で1隻が大爆発するのを目撃している。アメリカ軍によれば峯雲駆逐艦ウォーラー魚雷轟沈村雨巡洋艦3隻の砲撃沈没日本側の記録では、峯雲沈没時刻23時15分、村雨沈没時刻23時30分。 村雨乗員245名中、生存者129名、戦死者116であった峯雲乗員255名中、生存者45名、戦死者210であった沈没多数乗組員生存していたのだが、大発動艇による救助遅れたことで溺死者が増えてしまったという。同日コロンバンガラ島守備隊メリル隊の艦砲射撃受けて甚大な被害出しており、救助に向かうまでに時間要したのが一因であった3月8日駆逐艦部隊朝雲雪風長月浦波敷波)が鼠輸送のためコロンバンガラ島到着13日にも輸送部隊朝雲雪風長月)が同島に到着する。第2駆逐隊司令種子島艦長下生存者はこれらの駆逐艦分乗しラバウル向かった橘司令は駆逐艦五月雨移乗し村雨峯雲生存者横須賀送還された。この時、第2駆逐隊司令村雨峯雲沈没原因について『敵巡洋艦3隻の砲撃と、B-17十数機(触接していたのはカタリナ飛行艇夜間哨戒仕様)の空襲』と報告しレーダーに厳重警戒を行うように警告した峯雲村雨沈没白露春雨大破長期修理により、健在第四水雷戦隊は6隻(長良朝雲五月雨時雨有明夕暮)にまで消耗した4月1日ビスマルク海海戦沈没した時津風と共に村雨除籍決定した。第2駆逐隊白露型、帝国駆逐艦籍のそれぞれから削除された。なお、村雨喪失により第2駆逐隊残存艦は五月雨春雨大破長期修理中)となっており、7月1日附で解隊。のちに、2隻は白露型2隻編制となっていた第27駆逐隊時雨白露)に編入された。 神奈川県横須賀市鴨居駆逐艦村雨」の碑が建っている。※同地にある鴨居八幡神社飛地境内として登記

※この「ビラ・スタンモーア夜戦」の解説は、「村雨 (白露型駆逐艦)」の解説の一部です。
「ビラ・スタンモーア夜戦」を含む「村雨 (白露型駆逐艦)」の記事については、「村雨 (白露型駆逐艦)」の概要を参照ください。

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