【ガダルカナル島の戦い】(がだるかなるじまのたたかい)
戦闘概要 | ||
戦争 | 太平洋戦争(大東亜戦争) | |
年月日 | 1942年8月7日~1943年2月7日 | |
場所 | ソロモン諸島ガダルカナル島 | |
交戦勢力 | 日本 | |
アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、イギリス | ||
結果 | 連合軍の勝利 | |
戦力 | 日本軍 | 36,204人 |
連合軍 | 60,000人 | |
損害 | 日本軍 | 10,600人、餓死・戦病死15,000人 |
連合軍 | 戦死1,598人、戦傷4,709人 |
太平洋戦争(大東亜戦争)において、1942年8月以降日本軍とアメリカ軍の間で、西太平洋ソロモン諸島ガダルカナル島の支配権を巡って生起した一連の戦闘。
概要
1942年6月初めに勃発したミッドウェー海戦で、連合艦隊が壊滅的打撃を蒙ったことにより、日本は海上・航空戦力を大幅に失った。
この大敗を受けて、大本営は、今後守勢となるであろう戦局に対応すべく、ソロモン諸島における制空権確保の為にニューブリテン島・ラバウル基地以南に前哨基地を建設する事を考案する。
そして同月中にガダルカナル島での飛行場建設を正式に決定した。
同年8月にアメリカ軍は日本軍が飛行場を建設しているガダルカナル島に上陸、同島の海岸線を占拠した。
対する大本営は島の奪回を命令、10月末までに3次にわたる陸上兵力による攻撃が実施された。
しかし兵站に勝るアメリカ軍の前にいずれも失敗に終わる。
加えて物資不足に兵士等のマラリア感染などが重なって翌年の1943年2月に日本軍は撤退し、ガダルカナル島はアメリカ軍に占領された。
結果
この島での攻防戦を境に戦局はアメリカ軍の優勢が確定する。
この間にも日本軍はソロモン海戦、南太平洋海戦といった海戦や航空戦で戦力を消耗している。
その結果制空権及び制海権はアメリカ軍に奪われ、更に補給線が断ち切られた事で多くの餓死者、病死者を出す羽目に陥る。
度重なる消耗戦を経て、陸海空全域における戦力を大幅に欠損した日本軍は以後、連合国軍に対する大規模な攻勢をかける事が不可能になった。
ガダルカナル島の戦い
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ガダルカナル島の戦い(ガダルカナルとうのたたかい、英: Battle of Guadalcanal)は、第二次世界大戦において1942年8月以降日本軍と連合軍が西太平洋ソロモン諸島のガダルカナル島を巡って繰り広げた戦いである。ミッドウェー海戦と共に太平洋戦争における攻守の転換点となった。日本側は激しい消耗戦により、戦死者だけでなく兵員に多数の餓死者を発生させたうえ、軍艦、航空機、燃料、武器等多くを失った。
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- ^ Cowdrey (1994) p. 71: 「死者19,200のうち、戦闘による死者は8,500にすぎない。過半数は栄養不良、マラリア、下痢、脚気によって死んだ」。海軍(地上・海上)の死者を含まない。
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- ^ Frank, pp. 598–618; Shaw, p. 52; and Rottman, p. 65. 数字には戦闘、疾病、事故などあらゆる原因を含む。死者の内訳は地上部隊24,600–25,600人、海上3,543人、航空2,300人。捕虜の大部分は日本海軍の建設部隊に配属された朝鮮人労働者であった。軍艦の損失には軍艦と大型の特務艦を含む。航空機の損失には戦闘と事故の両方を含む。
- ^ Tucker 2014, p. 213
- ^ 米海兵隊戦史部は陸軍・海兵隊合わせて負傷4,709人としている。これに海兵隊航空部隊の127人が加わる。Frank によると Bureau of Personnel, World War II Casualty List, Books 2 and 3, Naval Historical Center, Washington, D.C. では戦いの全期間で海軍の負傷者2,953人となっている (Frank, p. 644) 。
- ^ Frank, pp. 598–618; and Lundstrom, p. 456. 第一次ソロモン海戦でオーストラリア兵85人が死亡。ソロモン諸島住民の死者数は不明。残りの死者の多くはアメリカ人である。数字には戦闘、疾病、事故などあらゆる原因を含む。死者の内訳は地上部隊1,768人、海上4,911人、航空420人。南太平洋海戦ではアメリカの航空兵4人が日本軍の捕虜となり、戦後まで生き残った。ほかのアメリカ軍兵士(陸海空を合わせて)の捕虜数は日本側記録でも不明だが、いずれも生き残らず、死亡の時期や原因もほとんどが不明である(Jersey, pp. 346, 449)。捕獲した日本軍の文書によると、捕虜となった2人の海兵隊斥候は日本陸軍の軍医によって木に縛り付けられ、生きたまま解剖されたという (Clemens, p. 295)。軍艦の損失には軍艦と大型の特務艦を含む。航空機の損失には戦闘と事故の両方を含む。
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ガダルカナル島の戦い(11月まで)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 02:46 UTC 版)
「村雨 (白露型駆逐艦)」の記事における「ガダルカナル島の戦い(11月まで)」の解説
8月24日以降の第二次ソロモン海戦では、第2駆逐隊(村雨、春雨、五月雨)の3隻で長門型戦艦2番艦陸奥を護衛した。9月8日、村雨は特設水上機母艦國川丸を護衛してショートランド泊地に進出、ブーゲンビル島ブイン飛行場建設のための資材や設営隊を揚陸した。9月10日、東方哨戒隊(村雨、國川丸)としてショートランド泊地を出撃。サンタクルーズ諸島北東400浬附近を行動して飛行哨戒を実施、前進部隊(第二艦隊)や南雲機動部隊の側面を警戒した。9月11日、國川丸所属の零式観測機2機が.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}南緯01度40分 東経160度00分 / 南緯1.667度 東経160.000度 / -1.667; 160.000地点で飛行艇1機を撃墜、村雨は搭乗員8名を捕虜とする。同日午後、村雨は前進部隊と合流、國川丸の護衛任務を姉妹艦春雨と交替した。また村雨は重巡愛宕(前進部隊指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官座乗)に飛行艇搭乗員8名を引き渡した。9月17日、第2駆逐隊第1小隊(村雨、五月雨)は特別奇襲隊となり、前進部隊から分離してヌデニ島に向かった。9月19日夜にヌデニ島に到着、アメリカ軍艦艇や飛行艇部隊を捜索したが敵影はなく、引き揚げた。20日、連合艦隊は第四水雷戦隊の大部分と國川丸の外南洋部隊(第八艦隊)編入を発令する。第四水雷戦隊(由良、時雨、白露)は22日にショートランド泊地へ進出、第2駆逐隊(村雨、五月雨、春雨)は前進部隊と共にトラック泊地に帰投したあと、輸送船団を護衛して9月下旬までにショートランド泊地に進出した。 10月2日、第9駆逐隊司令佐藤康夫大佐(司令駆逐艦朝雲)指揮下の駆逐艦5隻(朝雲、夏雲、峯雲、村雨、春雨)は零式水上観測機少数の援護を受け、ガ島輸送に成功した。10月5日、佐藤司令の指揮下駆逐艦6隻(朝雲、夏雲、峯雲、村雨、春雨、夕立)はショートランド泊地を出撃。午後3時過ぎ、急降下爆撃機SBDドーントレス9機の空襲により、まず峯雲が至近弾を受け浸水により速力低下、夏雲は峯雲を護衛して避退した。つづいて村雨も至近弾による浸水被害を受け、負傷者10数名、速力21ノットに低下し、揚陸を断念して避退した。佐藤司令はひきつづき3隻(朝雲、夕立、春雨)を率いてガ島へ突入、揚陸を無事に完了した。なお米軍は駆逐艦1隻撃沈、1隻大破(おそらく沈没)を報告している。10月6日朝、夏雲、峯雲はショートランドに帰投した。増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官は、損傷した2隻(村雨、峯雲)のラバウル回航を指示する。村雨はトラック泊地で応急修理をすませ戦線に復帰したが、峯雲は長期修理を余儀なくされ、夏雲も10月12日のサボ島沖海戦で沈没、第9駆逐隊健在艦は朝雲のみとなった。 10月12日夕刻、第四水雷戦隊司令官高間完少将は大規模輸送作戦にそなえて秋月型駆逐艦1番艦秋月に移乗し、第四水雷戦隊旗艦とした。村雨はトラック泊地からショートランド泊地へ直行して13日17時に到着。その後、ラバウルやショートランドを出撃した護衛部隊・輸送船団は合流してガダルカナル島へ向かった。10月14日、増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官指揮下のもと、軽巡3隻(川内、由良、龍田)と駆逐艦4隻(朝雲、白雪、暁、雷)は、それぞれガダルカナル島への揚陸に成功。翌日、四水戦(秋月、村雨、五月雨、夕立、春雨、時雨、白露、有明)等の護衛による輸送船団6隻は、アメリカ軍機の空襲で輸送船3隻(笹子丸、九州丸、吾妻山丸)が座礁するもかろうじて輸送任務に成功した。だが日中のアメリカ軍艦砲射撃や空襲により、揚陸地点に集積されていた物資は大部分を焼き払われてしまった。 10月16日、連合艦隊は水上機母艦(日進、千歳、千代田)による輸送をやめ、軽巡洋艦及び駆逐艦での輸送を下令した。高間少将は秋月を水雷戦隊旗艦として、第1小隊:第9駆逐隊(朝雲)・第11駆逐隊(白雪)・第6駆逐隊(暁、雷)、第2小隊:第2駆逐隊(村雨、夕立、春雨、五月雨)、第3小隊:第19駆逐隊(浦波、敷波、綾波)、第4小隊:第27駆逐隊(時雨、白露、有明)を指揮する。17日午前2時以降ショートランド泊地を出撃した軽巡戦隊(川内、由良、龍田)と水雷戦隊は、同日午後10時にガダルカナル島へ到着。駆逐艦2隻(時雨、村雨)が警戒及び陸上砲撃を行う中、各艦・各部隊は陸軍兵2159名、大砲18門、軍需物資の揚陸に成功した。由良にアメリカの潜水艦(グランパス)から発射した魚雷1本が命中だったが、不発のため損害は軽微だった。 詳細は「由良 (軽巡洋艦)#沈没」を参照 10月24-25日、南太平洋海戦および陸軍のガダルカナル第二次総攻撃の際、第四水雷戦隊(秋月〔旗艦〕、由良、村雨、春雨、五月雨、夕立)は陸軍支援のためガダルカナル島ルンガ泊地へ突入すべく行動を開始した。先行して泊地に突入した突撃隊(指揮官山田勇助大佐/兼第6駆逐隊司令 駆逐艦3隻《暁、雷、白露》)に続行してツラギ北方(インディスパンサブル海峡)を通過中、米軍機による攻撃を受ける。10月25日午前10時55分、SBDドーントレスの急降下爆撃により由良が命中弾を受け速力低下、秋月も至近弾を受けた。秋月は最大発揮速力23ノットに低下、第二攻撃隊は北方への退避を開始する。ドーントレス、F4Fワイルドキャット戦闘機、B-17爆撃機による波状攻撃をうけて由良は復旧の見込みがなくなり、第2小隊(春雨、夕立)により処分されて午後7時に沈没。秋月は各艦が救助した由良の乗組員を収容すると、旗艦を村雨に移譲して撤退を開始した。その後、第四水雷戦隊旗艦は村雨から朝潮型駆逐艦朝雲に移った。
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ガダルカナル島の戦い(11月以降)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/17 02:46 UTC 版)
「村雨 (白露型駆逐艦)」の記事における「ガダルカナル島の戦い(11月以降)」の解説
11月上旬、橋本信太郎三水戦司令官指揮下の外南洋部隊増援部隊は全力でガ島輸送作戦を実施する。11月1日、三水戦司令官は重巡「衣笠」に将旗を掲げた。同日夜、甲増援隊(朝雲《四水戦旗艦》、軽巡《天龍》、駆逐艦《村雨、春雨、夕立、時雨、白露、有明、夕暮、暁、雷》)、第一攻撃隊(巡洋艦《衣笠、川内》、駆逐艦《天霧、初雪》)、乙増援隊は順次ショートランド泊地を出撃した。白雪が艦底を触接して多少の浸水被害を受けたほか、揚陸地点の悪天候により艦載艇を多数喪失、物資の一部を揚陸できなかった。 11月4日、増援部隊指揮官(三水戦司令官)は戦力を再編。将旗を衣笠から駆逐艦浦波に移し、天龍を加えた乙増援隊を直率する。同日深夜、甲増援隊(朝雲《旗艦》、村雨、春雨、夕立、時雨、白露、有明、夕暮、朝潮、満潮)、乙増援隊(浦波《三水戦司令官旗艦》、敷波、綾波、白雪、望月、天龍)はショートランド泊地を出撃、5日夜揚陸に成功し各艦ともに損害はなかった。ショートランド泊地帰投後、三水戦司令官は川内に移動し、外南洋部隊増援部隊指揮官の職務を第二水雷戦隊司令官田中頼三少将に引き継いだ。6日夕刻、川内以下第三水雷戦隊各艦はトラック泊地へ向かった。 11月7日、高間(四水戦司令官)少将は旗艦を駆逐艦朝雲から軽巡天龍へ変更となった。第9駆逐隊司令(旗艦朝雲)指揮下の乙増援隊(警戒隊《朝雲、望月》、輸送隊《村雨、夕立、時雨、白露、夕暮、朝潮、満潮》)は同日深夜ショートランド泊地を出撃。8日夜半に揚陸成功、被害は望月にアメリカ軍魚雷艇が発射した魚雷1本が命中(不発)のみである。11月9日、前進部隊指揮官(第二艦隊長官)は第四水雷戦隊に対し原隊への復帰と、飛行場砲撃を行う第十一戦隊の警戒隊として同戦隊の指揮下に入るよう命じた。四水戦旗艦は天龍から朝雲に戻った。 詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照 11月12日、第四水雷戦隊(朝雲、村雨、五月雨、夕立、春雨)は、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対する戦艦艦砲射撃を企図する挺身攻撃隊(指揮官兼第十一戦隊司令官阿部弘毅少将、金剛型戦艦2隻《比叡、霧島》)を護衛してアイアンボトム・サウンドに進入した。だがスコールの中で幾度も針路を変更したため、寄せ集め部隊の挺身攻撃隊は陣形を乱した。金剛型戦艦2隻の前方警戒を行うはずの第四水雷戦隊は3隻(朝雲、第2駆逐隊第1小隊《村雨、五月雨》)と、第2駆逐隊第2小隊(夕立、春雨)の二群に分離し、四水戦3隻が旗艦「比叡」の近距離を航行、第2小隊(夕立、春雨)が挺身攻撃隊前方に突出する格好になった。挺身攻撃隊(比叡、霧島、長良、雪風、天津風、暁、雷、電、照月)を待ち構えていたアメリカ軍巡洋艦部隊(指揮官ダニエル・J・キャラハン少将)の誤判断、第2小隊(夕立、春雨)の突入により第三次ソロモン海戦第一夜戦が生起。海戦史上まれに見る大混戦となり、両軍とも大きな被害を受けた。五月雨を率いて旗艦朝雲に続行していた村雨は魚雷7本を発射、3本命中により敵巡洋艦轟沈と認定された。だが村雨にも高角砲弾1発が命中し、機関部に損傷を受けた。そのため村雨は13日の比叡の護衛や、五月雨が参加した14日の第三次ソロモン海戦第二夜戦には加わらなかった。本戦闘で乗組員5名が負傷した。また、春雨と分離後も単艦で米艦隊に突入した夕立は損傷して航行不能となり、五月雨に雷撃処分(放棄)されたあと米重巡洋艦の砲撃で沈没し、第2駆逐隊から初めての沈没艦となった。 11月18日、四水戦各艦はトラック泊地に帰投した。21日、四水戦旗艦は長良型軽巡洋艦長良に変更。22日、僚艦五月雨は日進隊(日進、高雄、雷)と共に内地へ出発。春雨は既にニューギニア戦線に投入されていたため、トラック泊地の第2駆逐隊は村雨1隻となった。28日、駆逐艦2隻(村雨、初雪)はブイン基地に派遣されていた空母飛鷹航空隊の撤収を命じられた。29日、2隻(村雨、初雪)はトラック泊地を出発。12月1日、ラバウルに立ち寄り輸送物件を搭載。2日、ショートランド泊地に到着して飛鷹基地物件を収容。4日、2隻(村雨、初雪)はトラックに帰投。飛鷹に物件を移載して任務を終了した。12月8日、第2駆逐隊司令駆逐艦は春雨から村雨に戻った。 ガダルカナル島で激戦が続く一方、日本軍はニューギニア方面の作戦を進展させるためニューギニア島北岸のマダンとウェワクを占領して飛行場を設置し、ラエ(モロベ州州都)、サラモアに対する後方基地として強化することにした(「ム」号作戦)。だがポートモレスビーの連合軍基地から激しい空襲を受ける可能性があり、外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官はウエワク攻略部隊の上空警戒のため、第二航空戦隊(司令官角田覚治少将:空母《隼鷹》)と護衛部隊(阿賀野型軽巡洋艦《阿賀野》、駆逐艦3隻《磯風、浜風、村雨》)を派遣した。 12月13日附で第二航空戦隊・第十戦隊各部隊は南東方面部隊に編入。ウェワク攻略部隊(駆逐艦《巻雲、夕雲、風雲》、輸送船《清澄丸》)は12月16日12時ラバウルを出撃、マダン攻略部隊(軽巡《天龍》、駆逐艦4隻《荒潮、涼風、磯波、電》、輸送船2隻《愛国丸、護国丸》)は同日18時にラバウルを出撃した。母艦航空部隊(隼鷹、阿賀野、磯風、浜風、村雨)もトラック泊地を出撃、同部隊の援護を受けたウェワク攻略部隊は、特に大きな戦闘もなく18日夜にウェワク揚陸に成功した。一方、マダン攻略部隊は12月18日の空襲で護国丸が中破、アメリカの潜水艦アルバコアの雷撃で天龍が喪失した。12月20日、第二航空戦隊および第十戦隊各艦は前進部隊(指揮官近藤信竹中将)への復帰を下令された。同日、村雨はトラック泊地に到着した。 12月21日、長良の内地帰投にともない第四水雷戦隊旗艦は村雨に変更される。24日、五月雨がトラック泊地に帰着。30日、司令駆逐艦を五月雨に変更。 1943年(昭和18年)1月中旬より、村雨は大鷹型航空母艦3番艦冲鷹の護衛任務に従事した。8日、駆逐艦2隻(朝雲、時雨)に護衛された冲鷹がトラック泊地に到着した。1月10日、3隻(冲鷹、村雨〔第四水雷戦隊旗艦〕、浦波)はトラック泊地を出発。1月12日、ニューアイルランド島カビエン北方で駆逐艦秋風と合同し、基地人員・物件を移載。13日、冲鷹は搭載航空機を発艦させ、14日トラック帰着。燃料補給後の3隻はただちにトラックを出発、20日に横須賀に帰投。村雨は整備・補修および対空火器の換装(毘式四十粍機銃を九六式二十五粍高角機銃に換装)等を実施。28日により浦賀船渠に入渠した。
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ガダルカナル島の戦い(8月)
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「江風 (白露型駆逐艦)」の記事における「ガダルカナル島の戦い(8月)」の解説
8月7日、連合軍はウォッチタワー作戦を発動してガダルカナル島とフロリダ諸島に上陸を開始、ガダルカナル島の戦いがはじまった。8月11日、第24駆逐隊(海風、江風、涼風)はその他の艦艇と共に横須賀を出港。本艦は第9駆逐隊(朝雲、夏雲、峯雲)と行動を共にし、前進部隊(第二艦隊)本隊との合同を目指した。また僚艦2隻(海風、涼風)は千歳型水上機母艦「千歳」を護衛した。 8月16日、陸軍一木支隊先遣隊を乗せた駆逐艦6隻がトラックを出撃してガダルカナル島へ向かった。また、同日、一木支隊の残りを運ぶ船団もトラックより出撃した。第二十四駆逐隊は8月17日にトラックに到着。即日出撃し、翌日船団と合流した。また、第二十四駆逐隊は8月17日に外南洋部隊に編入されている。8月20日、「江風」はガダルカナル島方面で行動中の駆逐艦「陽炎」との交替を命じられた。しかし、ガダルカナル島の飛行場への敵機進出の報により、翌日には「江風」はオントンジャワ環礁の南西40浬付近での待機となった。同日、ガダルカナル島への増援補給のためと思われる輸送船団発見により、「江風」とレカタにあった駆逐艦「夕凪」にその攻撃が命じられた。だが、「夕凪」は波浪大のため高速が出せず間に合わないことから、「江風」単独での突入となった。「江風」は8月22日1時(日本時間)にルンガ泊地に着き、2時に駆逐艦2隻(アメリカ駆逐艦「ブルー」と「ヘンリー」)を発見して魚雷6本、砲弾6発を発射した。この攻撃で「ブルー」に魚雷1本が命中。「ブルー」は処分されている。攻撃後、北上中にアメリカ軍機2機に襲撃されて重傷者1名を出したが、「行動に関し指令を乞ふ」と発信した若林艦長(至急入院を要する状態)に対し宇垣纏連合艦隊参謀長は『中佐艦長にして何たる覚悟ぞ』と賞賛している。その後、「江風」は「夕凪」と合流して燃料補給を行うべくショートランド諸島(ショートランド泊地)へ向かった。
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ガダルカナル島の戦い(9月)
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「江風 (白露型駆逐艦)」の記事における「ガダルカナル島の戦い(9月)」の解説
1942年(昭和17年)8月下旬から9月にかけて、第24駆逐隊(海風、江風、涼風)は外南洋部隊(第八艦隊)に所属し、駆逐艦によるガダルカナル島への高速輸送作戦『鼠輸送』に従事した。8月27日、ガ島揚陸予定の部隊は徹夜で輸送船2隻から駆逐艦3隻(海風、江風、磯風)に移乗し、第24駆逐隊司令村上暢之助大佐指揮のもと、同日5時30分にショートランド泊地を出撃する。陽炎型12番艦「磯風」は第17駆逐隊所属だが、臨時に第24駆逐隊指揮下に入った。しかし川口支隊(第20駆逐隊便乗中)との合流をめぐって混乱が生じ、上級部隊の命令に従い第24駆逐隊はショートランド泊地に引き返した(17時30分着)。8月28日、増援部隊指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官は、旗艦を重巡「衣笠」に変更。午前6時、第24駆逐隊(海風、江風、磯風)はショートランド泊地を出撃してガ島へ向かい、また北方からも第20駆逐隊(天霧、朝霧、夕霧、白雲)が南下してガ島揚陸を目指す。だが第20駆逐隊はアメリカ軍機の空襲で大損害(朝霧沈没、夕霧・白雲大破。駆逐隊司令山田雄二大佐《江風初代艦長》戦死)を受け、救援のために駆逐艦「陽炎」が派遣された。航空支援がない限り揚陸成功の見込みなしと判断した村上24駆司令は「本日ノ揚陸ヲ断念シ引返ス、28日1925」を打電し、独断で反転する。田中司令官も駆逐艦輸送作戦に消極的となったが、外南洋部隊(第八艦隊)司令部は『「カ」号作戦は駆逐艦を以て陸兵を輸送し任務を強行する外今更方法なきを以て引続き既定方針を決行せしめらるる方針なり』を通知した。 8月29日、「磯風」で発電機故障が発生したため輸送作戦に参加できなくなり、駆逐艦5隻(第24駆逐隊《海風、江風》、第11駆逐隊《初雪、吹雪、白雪》)はガ島揚陸作戦を実施することになった。陸兵の揚陸には成功したが、第24駆逐隊司令は撃滅を命じられていたルンガ泊地方面のアメリカ軍艦艇(輸送船2隻、巡洋艦1隻、駆逐艦2隻)を攻撃することなく帰途につき、上級司令部を激怒させた。8月31日午前6時、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将指揮下の三水戦各艦(軽巡洋艦川内、第19駆逐隊《浦波、敷波》)がショートランド泊地に到着。これをもって田中二水戦司令官は増援部隊指揮官を更迭され(発令8月29日)、駆逐艦「夕霧」に乗艦してトラック泊地へ戻った。以降、橋本三水戦司令官は軽巡川内を旗艦として、ガダルカナル島への輸送作戦を指揮する。この間、第24駆逐隊司令指揮下の8隻(海風、江風、涼風、陽炎、初雪、吹雪、白雪、天霧)はガ島への輸送作戦を実施し、21時30分に川口清健陸軍少将(川口支隊長)を含む陸兵約1200名の揚陸に成功。9月1日にショートランド泊地へ戻った。 9月4日、陸軍青葉支隊をガ島へ輸送するため、増援部隊各隊はショートランド泊地を出撃。輸送隊(浦波隊《浦波、敷波、有明》、夕立隊《夕立、初雪、叢雲》)と川内隊(川内、海風、江風、涼風)は21時から23時にかけてガ島揚陸を実施する。川内隊は陸軍部隊の大発動艇輸送作戦(舟艇機動)を掩護する役目も与えられており、4日深夜から5日午前1時頃まで掩護を実施した。また夕立隊はルンガ泊地に突入してアメリカ軍輸送駆逐艦2隻を撃沈する。宇垣纏連合艦隊参謀長は『曩の二十四駆逐隊司令に比し雲壌の差あり。矢張り攻撃精神旺盛なるものはよく勝を収む』と戦藻録に記載し、夕立隊指揮官吉川潔中佐(夕立駆逐艦長)を絶賛している。9月5日附で駆逐艦4隻(海風、江風、涼風、夕立)および山陽丸は外南洋部隊(第八艦隊)に編入された。 9月7日、駆逐艦5隻(海風、江風、涼風、初雪、叢雲)はガ島揚陸作戦を実施した。本作戦における各艦は大発動艇を曳航していたが、波浪の為に上手くいかなかった。第24駆逐隊は揚陸成功後、ルンガ泊地に突入したが敵艦艇を発見できず、対地砲撃を実施したのち、9月8日14時に帰投した(アメリカ軍によるとYPボート1隻炎上)。7日の揚陸により、川口・一木支隊の輸送は終了。また村上大佐は9月2日附で第24駆逐隊司令を更迭され、新司令中原義一郎中佐(陽炎型10番艦「時津風」駆逐艦長)は9月10日に着任した。 9月9日、第24駆逐隊(海風、江風、涼風)はフロリダ諸島(ツラギ湾内)に敵輸送船6隻発見の偵察報告を受けてガ島に突入、哨戒艇1隻を撃破したが輸送船団は存在しなかった。ツラギの陸上砲台から砲撃されたが、被害なく無事に帰投した。9月11日、駆逐艦3隻(海風、江風、夕立)は陸軍青葉支隊のガ島輸送を実施、悪天候に悩まされつつ揚陸を完了した。9月13日、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対する日本陸軍総攻撃に呼応して、外南洋部隊は支援行動にあたる。主隊・支援隊(鳥海、青葉、古鷹、衣笠、天霧)等は囮船団と共に適宜行動し、奇襲隊(川内、敷波、吹雪、涼風)、陽炎隊(陽炎、白雪)、第7駆逐隊(漣、潮)、第19駆逐隊部隊(浦波、叢雲、夕立)、第24駆逐隊(海風、江風)もガダルカナル島へ向かった。しかし日本軍の飛行場占領は失敗し、駆逐隊(海風、江風、浦波、叢雲、夕立)は対地砲撃を実施したあと帰途についた。 ガ島の戦局に不安を感じた日本陸軍第十七軍は、輸送船佐渡丸(護衛、駆逐艦嵐)に乗船してソロモン諸島に到着した陸軍青葉支隊のガ島投入を決定する。奇襲部隊指揮官橋本三水戦司令官は、増援輸送とガ島突入をかねて部隊を編成、駆逐艦4隻(漣、潮、吹雪、涼風)は14日夜にルンガ泊地に突入した。続いて奇襲隊(川内、海風、江風、浦波、敷波、嵐、叢雲、白雪)もガ島へ向かうが、ヘンダーソン飛行場未占領という事態をうけて「川内」はショートランド泊地へ帰投。駆逐艦部隊のみて揚陸を実施した。川口支隊の攻撃失敗により外南洋部隊各隊・各艦はラバウルやショートランド泊地へ帰投し、奇襲隊も増援部隊という区分に戻された。 9月中旬、日本軍はガダルカナル島に対する増援輸送を強化することになった。9月18日、増援部隊指揮官はアメリカ軍輸送船団ルンガ泊地侵入の情報により直率隊(川内、浦波、白雪、叢雲、浜風)による出撃を決意し、同時に有賀幸作第4駆逐隊司令に駆逐艦4隻(嵐、海風、江風、涼風)によるガ島輸送を命じた。幾度かの計画変更の末、輸送隊は18日夜のガ島揚陸に成功した。この頃のソロモン諸島は月明期に入ったため、アメリカ軍機による夜間空襲を受ける可能性が高まっていた。9月24日、中原義一郎第24駆司令指揮下の駆逐艦4隻(白露型3隻《海風、江風、涼風》、陽炎型《浦風》)は、陸兵と道路構築用の土木用具を搭載してガ島へ向かうが、アメリカ軍機の夜間空襲を受けて揚陸を断念するに至った。この戦闘で、駆逐艦2隻(海風、浦風)が小破、増援部隊は鼠輸送の一時中止に至った(再開は10月1日より)。9月26日、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)と第24駆逐隊(海風、江風、涼風)は外南洋部隊(第八艦隊)から除かれた。また同日附で第二水雷戦隊旗艦も、川内型軽巡2番艦「神通」から長良型軽巡洋艦2番艦「五十鈴」に変更されている。前進部隊(第二艦隊・第二水雷戦隊)に復帰した第24駆逐隊は、順次トラック泊地に戻った。10月10日までトラック泊地で待機、次期作戦準備をおこなう。
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ガダルカナル島の戦い(10月以降)
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「江風 (白露型駆逐艦)」の記事における「ガダルカナル島の戦い(10月以降)」の解説
10月11日、二水戦司令官田中頼三少将が指揮する第二水雷戦隊(軽巡洋艦五十鈴《二水戦旗艦》、第15駆逐隊《親潮、黒潮、早潮》、第24駆逐隊《海風、江風、涼風》、第31駆逐隊《高波、巻波、長波》)はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対し艦砲射撃を実施予定の第三戦隊(金剛型戦艦《金剛、榛名》〔司令官栗田健男中将・海兵38期〕)を護衛してトラックを出撃。対するアメリカ軍は10月11日-12日のサボ島沖海戦に勝利して外南洋部隊支援隊(第六戦隊)を撃退したが、大小の損害を受けて消耗した米艦隊(指揮官ノーマン・スコット少将)もガ島海域から撤収した。10月13日から14日にかけての深夜に行われたヘンダーソン基地艦砲射撃で、第15駆逐隊・第24駆逐隊は第三戦隊(金剛、榛名)の直衛、第31駆逐隊は警戒隊、応援に派遣された第19駆逐隊はガ島〜ルッセル諸島の哨戒隊として行動、長波がアメリカ軍魚雷艇を撃退した。ヘンダーソン飛行場はかなりの損害を受けたが、航空機42機とB-17重爆6機、さらに日本軍が知らなかった新造滑走路(戦闘機用)が健在だった。このため第四水雷戦隊(司令官高間完少将:旗艦秋月、第2駆逐隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》、第27駆逐隊《時雨、白露、有明、夕暮》)が護衛してした高速輸送船団(吾妻山丸、南海丸、九州丸、佐渡丸、笹子丸、埼戸丸)は、10月15日ガ島揚陸中に空襲を受け輸送船3隻を喪失、揚陸した物資も大部分を焼き払われてしまった。 10月26日の南太平洋海戦における第二水雷戦隊は、前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官:旗艦愛宕)に所属し、第四戦隊(愛宕、高雄)、第三戦隊(金剛、榛名)、第五戦隊(妙高、摩耶)、第二航空戦隊(司令官角田覚治少将:空母隼鷹)と共にアメリカ軍機動部隊と交戦した。11月上旬、第二水雷戦隊はショートランド泊地へ進出し、5日附で田中少将(二水戦司令官)は橋本信太郎少将(三水戦司令官)より増援部隊指揮官の職務を引き継ぐ。第二水雷戦隊は再びガダルカナル島への強行輸送作戦に従事することになった。11月6日深夜、甲増援隊(第15駆逐隊《親潮、早潮、陽炎》、第24駆逐隊《海風、江風、涼風》、第31駆逐隊《巻波、高波、長波》、第10駆逐隊《夕雲、風雲》)はショートランドを出撃。途中でアメリカ軍機の空襲を受け、駆逐艦2隻(高波、長波)が若干の損傷を受けた。輸送隊は深夜にタサファロング沖に到着して糧食を降ろし、傷病兵と便乗者を乗せて帰投した。 11月13日以降、増援部隊(早潮《田中司令官座乗》、親潮、陽炎、海風、江風、涼風、高波、巻波、長波、天霧、望月)は輸送船11隻を護衛し、ガダルカナル島に向かった(第三次ソロモン海戦)。だがアメリカ軍機の波状攻撃を受け輸送船6隻が沈没、1隻が大破して駆逐艦2隻(天霧、望月)護衛下で退避する。江風は沈没輸送船より生存者550名を救助した。田中司令官は残存輸送船4隻と駆逐艦9隻を指揮してガ島への進撃を続行。11月15日未明に輸送船4隻(廣川丸、山浦丸、鬼怒川丸、山東丸)はガダルカナル島タサファンログ泊地に座礁揚陸を強行するが、アメリカ軍機と米艦艇の攻撃で全滅した。増援部隊各艦は15日22時になりショートランド泊地へ戻った。 第三次ソロモン海戦の勝利により、ガダルカナル島への日本軍増援を阻止した連合軍は、パプアニューギニアのブナ地区へ上陸作戦を敢行、反攻に乗り出した。外南洋部隊は第三次ソロモン海戦を終えて帰投したばかりの各艦・各隊に対し、ブナ方面増援輸送を下令。南東方面は、従来のガダルカナル島に加え、東部ニューギニア方面でも連合軍に対処をせまられる。外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官は麾下艦船にラバウル回航を下令し、第24駆逐隊もラバウルに回航された。11月18日、第8駆逐隊司令指揮下の駆逐艦部隊(朝潮、江風、海風)でブナ輸送作戦を実施中にB-17の爆撃を受け「海風」が大破、「江風」も損傷した。「海風」は「朝潮」に曳航されてラバウルに戻り、本艦は単艦でラバウルに戻った。このためラバウルに停泊中だった第15駆逐隊2隻(親潮、陽炎)が海風救援のため出動している。 11月25日、中原(第24駆逐隊司令)は司令駆逐艦を「海風」から「江風」に変更。11月28日附で、江風駆逐艦長は柳瀬善雄少佐(柳瀬は10月30日まで神風型駆逐艦6番艦追風駆逐艦長)に交代した。 詳細は「ルンガ沖夜戦」を参照 11月30日、第24駆逐隊(江風、涼風)はルンガ沖夜戦に参加する。第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(旗艦長波)の指揮下、駆逐艦8隻(長波、高波、黒潮、親潮、陽炎、巻波、江風、涼風)という戦力で、輸送任務のためガダルカナル島へ突入。第二輸送隊(江風、涼風)も魚雷を発射して米艦隊撃破に貢献、単縦陣(江風、長波、涼風)で戦場を離脱した。日本側は駆逐艦1隻(高波)が沈没し、アメリカ側は重巡ノーザンプトンを喪失、重巡3隻(ミネアポリス、ペンサコラ、ニューオーリンズ)も大破という損害だった。一方でドラム罐輸送作戦自体は失敗し、外南洋部隊は第二次ドラム罐輸送作戦を行うよう指導する。 12月3日、田中二水戦司令官(長波)指揮下、第二次輸送作戦(親潮、黒潮、陽炎、巻波、長波、江風、涼風、嵐、野分、夕暮)が実施されるが、「巻波」が空襲により損傷した。投下ドラム罐1500個のうち回収されたのは310個だった。 12月7日午前11時、第15駆逐隊司令佐藤寅治郎大佐(黒潮座乗)の指揮下、駆逐艦11隻(嵐、野分、長波、親潮、黒潮、陽炎、浦風、谷風、江風、涼風、有明)による第三次輸送作戦が実施されるが、午後4時以降の空襲で「野分」が被弾し航行不能となる。駆逐艦4隻(野分、長波〔野分曳航担当〕、嵐、有明)がショートランドへ引き返した。健在だった駆逐艦部隊もガ島附近でアメリカ軍魚雷艇と航空機に迎撃されて引返し、輸送作戦は失敗した。 詳細は「照月 (駆逐艦)」を参照 ガダルカナル島の戦況は悪化する一方であり、山本五十六連合艦隊司令長官は「今次ノ駆逐艦輸送ニ期待スルトコロ極メテ大ナリ、アラユル手段ヲ講ジ任務達成ニ努メヨ」と訓示する。12月11日13時30分、田中司令官は最新鋭の秋月型駆逐艦2番艦「照月」を旗艦とし、警戒隊(照月、嵐、長波、江風、涼風)、輸送隊(陽炎、黒潮、親潮、谷風、浦風、有明)、合計駆逐艦11隻という戦力を揃えてショートランド泊地を出撃した。ガダルカナル島揚陸中、外側哨区警戒隊だった第24駆逐隊(江風、涼風)はアメリカ軍魚雷艇2隻撃沈・1隻大破擱座を報告した。だが警戒隊(長波、嵐、照月)は魚雷艇の雷撃を受け、被雷した「照月」は沈没(旗艦は長波に変更)。輸送作戦も成功したとはいえず、この戦闘を最後に田中司令官は地上勤務にまわされた。 12月21日、駆逐艦2隻(江風、有明)は輸送船宏山丸を護衛してコロンバンガラ方面輸送(ニュージョージア島のムンダ)を実施。ムンダ飛行場の設営強化に協力したが、同基地は常に激しい空襲にさらされ、効果的な基地にはならなかったという。12月30日、新任の第二水雷戦隊司令官として小柳冨次少将が着任し、駆逐艦「長波」に将旗を掲げた。
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ガダルカナル島の戦い(八月〜九月)
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「川内 (軽巡洋艦)」の記事における「ガダルカナル島の戦い(八月〜九月)」の解説
8月24日、第三水雷戦隊(川内、天霧、夕霧、朝霧、白雲)は輸送船2隻(佐渡丸、浅香山丸、〔指揮官川口清健陸軍少将、川口支隊主力約5000名〕)を護衛してトラック泊地を出撃、ガ島にむけて南下を開始した。同時期に生起した第二次ソロモン海戦で日本海軍は空母龍驤・駆逐艦睦月・輸送船金龍丸を喪失、輸送船団を護衛していた姉妹艦神通(第二水雷戦隊旗艦)も中破した(トラック泊地へ回航)。輸送船団によるガ島突入は中止され、駆逐艦による強行輸送作戦がはじまる。上層部の命令を受けて第20駆逐隊(天霧、朝霧、夕霧、白雲)は輸送船(佐渡丸、浅香山丸)から陸兵を受け入れると、川内と分離・先行してガ島突入を目指す。だがショートランド諸島(ショートランド泊地)からガ島突入を企図する第24駆逐隊(海風、江風、磯風)との合同作戦に手間取るうち、8月28日に空襲を受け朝霧沈没、夕霧と白雲大破、駆逐隊司令山田雄二大佐が戦死、第20駆逐隊は大打撃を受けてしまった(10月1日附で解隊)。川内は輸送船2隻(佐渡丸、浅香山丸)を護衛し、一旦ラバウルへ向かった。 増援部隊指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官は重巡衣笠を臨時の旗艦としてブーゲンビル島ブイン近くのショートランド諸島(ショートランド泊地)から指揮をとっていたが、作戦方針をめぐって陸軍や第八艦隊(司令長官三川軍一中将)と対立した。8月31日午前8時、第三水雷戦隊(川内、第19駆逐隊《浦波、敷波》および第17駆逐隊《浦風、谷風》)がショートランド泊地に到着。これをもって田中少将は増援部隊の任務を解かれ、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将がその任を引き継いだ。 これ以降、川内はソロモン諸島で活動を行った。第三水雷戦隊を基幹とする増援部隊はブーゲンビル島ショートランド泊地からガダルカナル島への強行輸送作戦(鼠輸送/東京急行)に従事した。9月4日、増援部隊指揮官直率隊(川内、海風、江風、涼風)、夕立隊(夕立、初雪、叢雲)、浦波隊(浦波、敷波、有明)はガ島輸送のため、それぞれショートランド泊地を出撃。川内隊は大発動艇のガ島輸送作戦(蟻輸送)を掩護した。夕立隊は輸送終了後にルンガ泊地へ突入し、アメリカ軍輸送駆逐艦2隻を撃沈している。 9月8日午前3時、アメリカ軍は輸送駆逐艦2隻・特設哨戒艇2隻(漁船改造)を投入してアメリカ海兵隊2個大隊をガ島に上陸させ、ガ島ヘンダーソン飛行場のため展開中の日本陸軍部隊に打撃を与えた。陸軍より『八日0800頃巡洋艦一隻駆逐艦六隻輸送船四隻『タイボ』岬附近ニ上陸ヲ開始セリ』の報告を受け、外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官は増援部隊(三水戦)等にアメリカ軍輸送船団の攻撃を指示する。川内および駆逐艦部隊(白雪、吹雪、陽炎、天霧、夕暮)はガ島ルンガ泊地に突入。だが、アメリカ軍輸送船団はすでに存在せず、掃海艇1隻を被弾座哨させたにとどまった。 9月12日、三水戦司令官ひきいる艦艇奇襲隊(川内、敷波、吹雪、涼風)はガ島ルンガ泊地に突入したが米艦艇を認めず、ヘンダーソン飛行場を砲撃した。このほかにも外南洋部隊主力艦(鳥海、青葉、古鷹、衣笠)と囮部隊が行動していたが、日本陸軍の飛行場攻撃延期により、各隊はガ島から距離をとった。ガ島飛行場攻撃の展開に不安をもった日本陸軍(第十七軍)は、輸送船佐渡丸(護衛、駆逐艦嵐)に乗ってラバウルに到着した陸軍青葉支隊を、ただちにガ島へ投入する。増援部隊各艦はガ島輸送を兼ねてショートランド泊地を出撃、ガ島へ突入することになった。9月14日夜、駆逐艦4隻(漣、潮、涼風、吹雪)はガ島輸送を実施。奇襲隊(川内、海風、江風、浦波、敷波、嵐、叢雲、白雪)もガ島へ向かったが、ヘンダーソン飛行場健在の情報により昼間のガ島揚陸は中止され、川内はショートランドへ戻った。このため駆逐隊のみでガ島輸送を実施した。 ガ島総攻撃に失敗した日本軍は、同島所在陸軍の兵力・物資・弾薬・重火器・糧食を増強することになり増援部隊(第三水雷戦隊および編入部隊・艦)は引続きガ島強行輸送作戦に従事した。9月18日、増援部隊指揮官直率隊(川内、浦波、白雪、叢雲、浜風)はアメリカ軍輸送船団(ガ島守備隊報告によると輸送船6、巡洋艦3、駆逐艦10)を攻撃するためショートランド泊地を出撃、各隊に合流を命じた。しかしガ島守備隊よりアメリカ軍輸送船団全隻撤収の報告を受け、輸送隊(海風、江風、涼風、嵐)は予定とおり揚陸を実施。川内以下直率隊はルンガ泊地桟橋付近を砲撃したが、効果は不明だった。
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ガダルカナル島の戦い(十月〜十一月)
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「川内 (軽巡洋艦)」の記事における「ガダルカナル島の戦い(十月〜十一月)」の解説
詳細は「サボ島沖海戦」を参照 10月11日、ガダルカナル島飛行場砲撃に向かった外南洋部隊支援隊指揮官五藤存知第六戦隊司令官指揮下の飛行場砲撃隊(第六戦隊《青葉、古鷹、衣笠》、第11駆逐隊第2小隊《吹雪、初雪》)は米艦隊に迎撃され、2隻(古鷹、吹雪)を喪失した(サボ島沖海戦)。並行して実施された水上機母艦2隻(日進、千歳)、駆逐艦6隻(秋月、綾波、白雪、叢雲、朝雲、夏雲)による輸送作戦も、第六戦隊救援にむかった駆逐艦2隻(叢雲、夏雲)を空襲により喪失した。10月12日午前2時、増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官は米艦隊の脅威にさらされた日進輸送隊を収容するため直率隊(川内、由良、天霧、浦波、磯波、時雨、白露)をひきいてショートランド泊地を出撃した。橋本司令官は日進隊と合流後、4隻(由良、天霧、時雨、白露)に日進隊の護衛を命じ、自身は第9駆逐隊・第11駆逐隊救援のためガ島方面へ向かった。川内隊は朝雲(第9駆逐隊司令佐藤康夫大佐)と白雪(第11駆逐隊司令杉野修一大佐)と合流、このあと2隻(朝雲、白雪)のみ航行不能となった叢雲救援のために引き返し、同艦を処分した。三水戦の出撃に並行しておこなわれた甲標的母艦千代田、軽巡龍田の出撃(ガ島甲標的基地建設)は中断された。 10月13日夜間、第三戦隊司令官栗田健男少将の指揮下、金剛型戦艦2隻(金剛、榛名)によるヘンダーソン基地艦砲射撃が実施された際には、水上偵察機2(川内、由良)が弾着観測を、水偵2(衣笠、古鷹)が照明弾投下機となって艦砲射撃を支援した。 10月14日、重巡2隻(妙高、摩耶)と第二水雷戦隊(旗艦五十鈴)によるガダルカナル島飛行場砲撃が行われ、この間、軽巡部隊(川内、由良、龍田)、駆逐艦部隊(朝雲、白雪《甲標的物件》、暁、雷)による輸送作戦が行われた。並行しておこわなれた千代田、暁のガ島甲標的基地設置は途中で中断された。また外南洋部隊主隊(鳥海、衣笠、天霧、望月)がガ島ヘンダーソン飛行場に艦砲射撃をおこなったものの、飛行場の戦力は健在だった。第四水雷戦隊(秋月、村雨、五月雨、夕立、春雨、時雨、白露、有明、夕暮)が護衛する輸送船6隻は、アメリカ軍機の空襲で輸送船3隻(吾妻山丸、笹子丸、九州丸)が炎上喪失、揚陸した物件もアメリカ軍機の空襲や艦砲射撃で焼き払われてしまったという。 10月16日、増援部隊指揮官直率の軽巡洋艦戦隊(川内、由良、龍田)と、第四水雷戦隊司令官高間完少将(旗艦秋月)が指揮する同水雷戦隊第1小隊:秋月・第9駆逐隊(朝雲)・第6駆逐隊(暁、雷)、第2小隊:第2駆逐隊(村雨、夕立、春雨、五月雨)、第3小隊:第19駆逐隊(浦波、敷波、綾波)、第4小隊:第27駆逐隊(時雨、白露、有明)によるガダルカナル島輸送作戦(陸兵2159名、野砲6門、速射砲12門、軍需物資)が行われることになった。17日夜、軽巡戦隊はガ島エスペランス岬にて、水雷戦隊はタサファロング岬にて揚陸に成功。231名を救助したが、この中にサボ島沖海戦で沈没した吹雪航海長以下数名が含まれていた。本作戦で由良が米潜水艦グランパスに雷撃されたが、命中魚雷は不発だったため損害は軽微だった。 11月2日、増援部隊指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官は旗艦を軽巡川内から重巡衣笠に変更、第一攻撃隊(衣笠、川内、天霧、初雪)を率いて甲増援隊(旗艦朝雲)と乙増援隊(旗艦浦波)のガ島輸送作戦を支援した。乙増援隊の輸送は成功したが、甲増援隊は揚陸地点の悪天候により一部物資を揚陸できなかった。つづいて増援部隊指揮官(橋本少将)は旗艦を衣笠から浦波に変更し、乙増援隊(浦波、敷波、綾波、白雪、望月、天龍)を指揮して11月5日のガ島輸送を実施した。ショートランド泊地帰投後の11月6日、橋本少将は将旗を川内に戻し、同時に増援部隊指揮官の職務を第二水雷戦隊司令官田中頼三少将に引き継いだ。川内以下第三水雷戦隊各艦はトラック泊地へ向かうが、この際、橋本少将はガ島輸送作戦において常に上空直掩にあたったR方面航空部隊(水上機部隊)を訪問し、謝意を述べている。 詳細は「第三次ソロモン海戦」を参照 11月中旬、川内以下第三水雷戦隊は第三次ソロモン海戦に参加。11月13日の第1夜戦は後方掩護に留まった。11月15日の第2夜戦における本艦は、第二艦隊司令長官近藤信竹中将(旗艦愛宕)の指揮下で行動した。近藤艦隊の戦力は、戦艦1隻(霧島)、重巡2隻(愛宕《艦隊旗艦》、高雄)、軽巡2隻(川内、長良)、駆逐艦9隻(照月、朝雲、電、五月雨、白雪、初雪、浦波、敷波、綾波)。橋本司令官は第二部隊/掃蕩隊(川内、浦波、敷波、綾波)を指揮して本隊の前方を進んだ。これに対し、アメリカ軍の戦力はウィリス・A・リー少将が率いる戦艦2隻(ワシントン、サウスダコタ)、米駆逐艦4隻(ウォーク、グウィン、ベンハム、プレストン)であった。掃蕩隊(川内、浦波、敷波)はワシントンの主砲による砲撃を受けたが、煙幕を張って退避したため命中弾はなかった。分離していた綾波は雷撃後に集中砲撃を受け沈没。また近藤中将(愛宕座乗)は掃蕩隊(川内、浦波、敷波)を敵艦と錯覚し、砲戦魚雷戦用意を発令したが射撃前に味方(川内)と判明している。この後の戦闘で、第四戦隊、第三水雷戦隊、長良隊が発射した酸素魚雷はほとんど自爆し、アメリカの新型戦艦2隻を取り逃がした。掃蕩隊はルンガ泊地に先行して「ルンガ方面敵を見ず射撃可能と認む」と報じたものの、前進部隊指揮官より敵戦艦攻撃命令があって反転する。だが戦果はなかった。また増援部隊(指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官)が護衛していた輸送船団も昼間の空襲で壊滅状態となっており、日本軍のガダルカナル島奪回企図は完全に頓挫した。トラック泊地に戻った川内はしばらく待機した。
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ガダルカナル島の戦い(9月)
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「海風 (白露型駆逐艦)」の記事における「ガダルカナル島の戦い(9月)」の解説
1942年(昭和17年)8月下旬から9月にかけて、第24駆逐隊(海風、江風、涼風)は外南洋部隊(第八艦隊)に所属し、駆逐艦によるガダルカナル島への高速輸送作戦『鼠輸送』に従事した。 8月27日、ガ島揚陸予定の部隊は輸送船2隻(ぼすとん丸、大福丸)から徹夜で駆逐艦3隻(海風、江風、磯風)に移乗し、第24駆逐隊司令村上暢之助大佐指揮のもと、同日5時30分にショートランド泊地を出撃する。陽炎型12番艦「磯風」は第17駆逐隊所属だが、臨時に24駆の指揮下に入った。しかし川口支隊(第20駆逐隊便乗中)との合流をめぐって帝国海軍は混乱し、上級部隊の命令に従い第24駆逐隊はショートランド泊地に引き返した(17時30分着)。8月28日、増援部隊指揮官田中頼三第二水雷戦隊司令官は、旗艦を青葉型重巡洋艦2番艦「衣笠」に変更した。午前6時、第24駆逐隊(海風、江風、磯風)はショートランド泊地を出撃してガ島へ向かい、また北方からも第20駆逐隊(天霧、朝霧、夕霧、白雲)が南下してガ島揚陸を目指す。だが第20駆逐隊はアメリカ軍機の空襲で大損害(朝霧沈没、夕霧・白雲大破、駆逐隊司令山田雄二大佐戦死)を受け救援のために「陽炎」が派遣された。航空支援がない限り揚陸成功の見込みなしと判断した村上大佐(24駆司令)は「本日ノ揚陸ヲ断念シ引返ス、28日1925」を打電し、独断で反転する。田中司令官も駆逐艦輸送作戦に消極的となったが、外南洋部隊(第八艦隊)司令部は『「カ」号作戦は駆逐艦を以て陸兵を輸送し任務を強行する外今更方法なきを以て引続き既定方針を決行せしめらるる方針なり』を通知した。 8月29日、「磯風」で発電機故障が発生したため輸送作戦に参加できなくなり、駆逐艦5隻(第24駆逐隊《海風、江風》、第11駆逐隊《初雪、吹雪、白雪》)はガ島揚陸作戦を実施する。陸兵の揚陸には成功したが、第24駆逐隊司令は撃滅を命じられていたルンガ泊地方面の米軍艦艇(輸送船2隻、巡洋艦1隻、駆逐艦2隻)を攻撃することなく帰途につき、上級司令部を激怒させた。当事軍令部将校だった高松宮宣仁親王は、第二次ソロモン海戦時の田中頼三二水戦司令官、村上24駆司令について『コウナルト田中司令官、遠山先任参謀ハマルデ駄目ダト云フ札付ニナル。第二十四駆逐隊司令、村上大佐仝ジ様ナ駄目ナリ。困難ナリト云ツテモヨイガ、ソレヲヤレト云ハレタラヤツテノケルダケノ断行力ガナクテハナラヌ。』と評している。 8月31日午前6時、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将指揮下の三水戦各艦(軽巡洋艦川内、第19駆逐隊《浦波、敷波》)がショートランド泊地に到着。これをもって田中二水戦司令官は増援部隊指揮官を更迭され(発令8月29日)、駆逐艦「夕霧」に乗艦してトラック泊地へ戻った。以降、橋本三水戦司令官は軽巡川内を旗艦として、ガダルカナル島への輸送作戦を指揮する。この間、神通護衛のためトラック泊地に向かっていた「涼風」がショートランド泊地に到着、24駆逐隊司令指揮下の8隻(海風、江風、涼風、陽炎、初雪、吹雪、白雪、天霧)はガ島への輸送作戦を実施し21時30分に川口清健陸軍少将(川口支隊長)を含む陸兵約1200名の揚陸に成功した。9月1日にショートランド泊地へ戻った。9月2日、上層部(連合艦隊、第八艦隊)の不興を買っていた村上大佐は第24駆逐隊司令を解任された。9月3日、第24駆逐隊新司令に陽炎型駆逐艦10番艦「時津風」駆逐艦長中原義一郎中佐(白露型4番艦夕立初代駆逐艦長)をあてる人事が決まる。中原中佐着任までの間、暫定的に村上大佐が指揮を継続することになった。 9月4日、陸軍青葉支隊をガ島へ輸送するため、増援部隊各隊はショートランド泊地を出撃した。輸送隊(浦波隊《浦波、敷波、有明》、夕立隊《夕立、初雪、叢雲》)と川内隊(川内、海風、江風、涼風)は21時から23時にかけてガ島揚陸を実施する。川内隊は、陸軍部隊の大発動艇輸送作戦(舟艇機動)を掩護する役目も与えられており、4日深夜から5日午前1時頃まで掩護を実施した。また夕立隊はルンガ泊地に突入して米軍輸送駆逐艦2隻を撃沈する。宇垣纏連合艦隊参謀長は『曩の二十四駆逐隊司令に比し雲壌の差あり。矢張り攻撃精神旺盛なるものはよく勝を収む』と戦藻録に記載し、夕立隊指揮官吉川潔中佐(夕立駆逐艦長)を絶賛している。9月5日附で駆逐艦4隻(海風、江風、涼風、夕立)および特設水上機母艦山陽丸は外南洋部隊(第八艦隊)に編入された。 9月7日、駆逐艦5隻(海風、江風、涼風、初雪、叢雲)はガ島揚陸作戦を実施した。本作戦における各艦は大発動艇を曳航していたが、波浪の為に上手くいかなかった。第24駆逐隊は揚陸成功後、ルンガ泊地に突入したが敵艦艇を発見できず、対地砲撃を実施したのち、9月8日14時に帰投した(アメリカ軍によるとYPボート1隻炎上)。7日の揚陸により、川口・一木支隊の輸送は終了。前述のように、上級司令部の不興を買っていた村上大佐は9月2日附で第24駆逐隊司令を更迭され、後任の中原義一郎中佐(9月3日附発令)は9月10日に着任した。なお、村上大佐は第二砲艦隊司令、第11特別根拠地隊附、永福丸砲艦長等を歴任し、最前線に立つ事はなかった。 9月9日、第24駆逐隊(海風、江風、涼風)はフロリダ諸島(ツラギ湾内)に敵輸送船6隻発見の偵察報告を受けてガ島に突入、哨戒艇1隻を撃破したが輸送船団は存在しなかった。ツラギの陸上砲台から砲撃されたが、被害無く、無事に帰投した。9月11日、駆逐艦3隻(海風、江風、夕立)は陸軍青葉支隊のガ島輸送を実施、悪天候に悩まされつつ揚陸を完了した。9月13日、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対する日本陸軍総攻撃に呼応して、外南洋部隊は支援行動にあたる。主隊・支援隊(鳥海、青葉、古鷹、衣笠、天霧)等は囮船団と共に適宜行動し、奇襲隊(川内、敷波、吹雪、涼風)、陽炎隊(陽炎、白雪)、第7駆逐隊(漣、潮)、第19駆逐隊部隊(浦波、叢雲、夕立)、第24駆逐隊(海風、江風)もガダルカナル島へ向かった。しかし日本軍の飛行場占領は失敗し、駆逐隊(海風、江風、浦波、叢雲、夕立)は対地砲撃を実施したあと帰途についた。 ガ島の戦局に不安を感じた日本陸軍第十七軍は、輸送船佐渡丸(護衛、駆逐艦嵐)に乗船してソロモン諸島に到着した陸軍青葉支隊のガ島投入を決定する。奇襲部隊指揮官(橋本三水戦司令官)は、増援輸送とガ島突入をかねて部隊を編成、駆逐艦4隻(漣、潮、吹雪、涼風)は14日夜にルンガ泊地に突入した。続いて奇襲隊(川内、海風、江風、浦波、敷波、嵐、叢雲、白雪)もガ島へ向かうが、ヘンダーソン飛行場未占領という事態をうけて川内はショートランド泊地へ帰投。駆逐艦部隊のみて揚陸を実施した。川口支隊の攻撃失敗により外南洋部隊各隊・各艦はラバウルやショートランド泊地へ帰投し、奇襲隊も増援部隊という区分に戻された。 9月中旬、日本軍はガダルカナル島に対する増援輸送を強化することになった。9月18日、増援部隊指揮官はアメリカ軍の輸送船団ルンガ泊地侵入の情報により直率隊(川内、浦波、白雪、叢雲、浜風)による出撃を決意し、同時に有賀幸作第4駆逐隊司令に駆逐艦4隻(嵐、海風、江風、涼風)によるガ島輸送を命じた。幾度かの計画変更の末、輸送隊は18日夜のガ島揚陸に成功した。この頃のソロモン諸島は月明期に入ったため、アメリカ軍機による夜間空襲を受ける可能性が高まっていた。9月24日、第24駆逐隊司令中原義一郎中佐(海風座乗)指揮下の駆逐艦4隻(海風、江風、涼風、浦風)は、陸兵と道路構築用の土木用具を搭載してガ島へ向かうが、アメリカ軍機の夜間空襲を受けて揚陸を断念するに至った。この戦闘で「海風」と陽炎型11番艦「浦風」が小破、増援部隊は鼠輸送の一時中止に至った(再開は10月1日より)。9月26日、第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)と第24駆逐隊(海風、江風、涼風)は外南洋部隊(第八艦隊)から除かれた。また、同日附で第二水雷戦隊旗艦も川内型2番艦「神通」から長良型軽巡洋艦2番艦「五十鈴」に変更されている。前進部隊(第二艦隊・第二水雷戦隊)に復帰した第24駆逐隊は、順次トラック泊地に戻った。「海風」は工作艦「明石」に横付して修理に従事した。その後、10月10日までトラック泊地で待機、次期作戦準備をおこなう。
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ガダルカナル島の戦い(10月以降)
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「海風 (白露型駆逐艦)」の記事における「ガダルカナル島の戦い(10月以降)」の解説
10月11日、二水戦司令官田中頼三少将が指揮する第二水雷戦隊(軽巡五十鈴〔二水戦旗艦〕、第15駆逐隊《親潮、黒潮、早潮》、第24駆逐隊《海風、江風、涼風》、第31駆逐隊《高波、巻波、長波》)はガダルカナル島ヘンダーソン飛行場に対し艦砲射撃を実施予定の第三戦隊(金剛型戦艦《金剛、榛名》〔三戦隊司令官栗田健男中将・海兵38期〕)を護衛してトラックを出撃。対するアメリカ軍は10月11日-12日のサボ島沖海戦に勝利して外南洋部隊支援隊(第六戦隊)を撃退したが、大小の損害を受けて消耗した米艦隊(指揮官ノーマン・スコット少将)もガ島海域から撤収した。10月13日から14日にかけての深夜に行われたヘンダーソン基地艦砲射撃で、第15駆逐隊・第24駆逐隊は第三戦隊(金剛、榛名)の直衛、第31駆逐隊は警戒隊、応援に派遣された第19駆逐隊はガ島〜ルッセル諸島の哨戒隊として行動、長波がアメリカ軍魚雷艇を撃退した。ヘンダーソン飛行場はかなりの損害を受けたが、航空隊および日本軍が知らなかった新造滑走路(戦闘機用)が健在だった。このため第四水雷戦隊(司令官高間完少将:旗艦秋月、第2駆逐隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》、第27駆逐隊《時雨、白露、有明、夕暮》)が護衛してした高速輸送船団(吾妻山丸、南海丸、九州丸、佐渡丸、笹子丸、埼戸丸)は、10月15日ガ島揚陸中に空襲を受け輸送船3隻を喪失し、揚陸した物資も大部分を焼き払われてしまった。 10月26日の南太平洋海戦における第二水雷戦隊は、前進部隊(指揮官近藤信竹第二艦隊司令長官:旗艦愛宕)に所属し、第四戦隊(愛宕、高雄)、第三戦隊(金剛、榛名)、第五戦隊(妙高、摩耶)、第二航空戦隊(司令官角田覚治少将:空母隼鷹)と共に米軍機動部隊と交戦した。11月上旬、第二水雷戦隊はショートランド泊地へ進出し、5日附で田中二水戦司令官は橋本信太郎三水戦司令官より増援部隊指揮官の職務を引き継ぐ。第二水雷戦隊は再びガダルカナル島への強行輸送作戦に従事することになった。11月6日深夜、甲増援隊(第15駆逐隊《親潮、早潮、陽炎》、第24駆逐隊《海風、江風、涼風》、第31駆逐隊《巻波、高波、長波》、第10駆逐隊《夕雲、風雲》)はショートランドを出撃。途中でアメリカ軍機の空襲を受け駆逐艦2隻(高波、長波)が若干の損傷を受けた。輸送隊は深夜にタサファロング沖に到着して糧食を降ろし、傷病兵と便乗者を乗せて帰投した。 11月13日以降、増援部隊(早潮《田中司令官座乗》、親潮、陽炎、海風、江風、涼風、高波、巻波、長波、天霧、望月)は輸送船11隻を護衛し、ガダルカナル島に向かった(第三次ソロモン海戦)。だがアメリカ軍機の波状攻撃を受け輸送船6隻が沈没、1隻が大破して駆逐艦2隻(天霧、望月)護衛下で退避する。田中司令官は残存輸送船4隻と駆逐艦9隻を指揮してガ島への進撃を続行。11月15日未明に輸送船4隻(廣川丸、山浦丸、鬼怒川丸、山東丸)はガダルカナル島タサファンログ泊地に座礁揚陸を強行するが、アメリカ軍機と米艦艇の攻撃で全滅した。増援部隊各艦は15日22時になりショートランド泊地へ戻った。 第三次ソロモン海戦の勝利により、ガダルカナル島への日本軍増援を阻止した連合軍は、パプアニューギニアのブナ地区へ上陸作戦を敢行、反攻に乗り出した。外南洋部隊は第三次ソロモン海戦を終えて帰投したばかりの各艦・各隊に対し、ブナ方面増援輸送を下令。南東方面は、従来のガダルカナル島に加え、東部ニューギニア方面でも連合軍に対処をせまられる。外南洋部隊指揮官三川軍一第八艦隊司令長官は麾下艦船にラバウル回航を下令し、第24駆逐隊もラバウルに回航された。11月18日、第8駆逐隊司令指揮下の駆逐艦部隊(第8駆逐隊《朝潮》、第24駆逐隊《江風、海風》)は、鴻型水雷艇2隻と共にブナおよびラエへ輸送作戦を実施中、B-17の爆撃を受け「海風」は大破。航行不能となる。江風、荒潮にも若干の被害があった。「海風」は「朝潮」に曳航されてラバウルに戻った。ラバウルに停泊中だった第15駆逐隊2隻(親潮、陽炎)も海風救援のため出撃している。「海風」は11月23日に外南洋部隊附属となり、11月と12月中は応急修理に従事した。外南洋部隊より前進部隊へ復帰後の12月26日、ラバウルを出発してトラック泊地へ回航される(28日着)。30日に高雄型重巡洋艦4番艦「摩耶」を護衛して横須賀へ向かった。同時に第二水雷戦隊司令官も田中頼三少将から小柳冨次少将(海軍兵学校42期)に交代した。
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