厳島の戦いとは? わかりやすく解説

いつくしま‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【厳島の戦い】


厳島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/09 06:50 UTC 版)

厳島の戦い(いつくしまのたたかい)は、天文24年[注 1]10月1日1555年10月16日)に、安芸国厳島毛利元就陶晴賢との間で行れた合戦である。


注釈

  1. ^ 合戦の発生年について「弘治元年」とする資料や史跡案内(厳島各所の史跡説明板)も多いが、天文から弘治への改元は天文24年10月23日(西暦1555年11月7日)である。
  2. ^ 『藝州厳島図絵』では高安ヶ原を自刃の地と記されている。
  3. ^ さんとうかいぞくけいくさにっき
  4. ^ 大永4年(1524年)の佐東銀山城の戦いでは大内軍の本陣が置かれ、天文9年(1540年)の吉田郡山城の戦い直前には大内軍が厳島を中継して頭崎城に出陣した。また、大寧寺の変や防芸引分でも厳島は早々に占拠されている。
  5. ^ 長州藩となった毛利家に対して、村上氏は毛利家臣に組み込まれたか、小藩である森藩として残っているため力関係が弱くなっている。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』(吉川弘文館、2007年)
  2. ^ a b c d e f g h i j 森本繁「防長経略 陶晴賢を撃破、有名天下に轟く!」(『歴史群像シリーズ9 毛利元就』学習研究社、1988年)p62~70
  3. ^ a b c d e f 小和田泰経『戦国合戦史事典』(新紀元社、2010年)
  4. ^ 西尾和美『戦国期の権力と婚姻』(清文堂、2005年)
  5. ^ a b 河合 1984, p. 182.
  6. ^ 河合 1984, p. 181.
  7. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v 森本繁「厳島合戦」(『歴史群像シリーズ9 毛利元就』学習研究社、1988年)p22~37
  8. ^ a b c 宮本義己「人道主義に根ざした合理性の追求」(『歴史群像シリーズ49 毛利戦記』学習研究社、1997年p106〜113)
  9. ^ a b c 森本繁「毛利軍の渡海は『二十九日』」(『歴史群像シリーズ49 毛利戦記』学習研究社、1997年) p94~95
  10. ^ わがふるさとと愛媛学V ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~ 厳島合戦と村上水軍 - 愛媛県生涯学習センター データベース『えひめの記憶』
  11. ^ a b c 厳島合戦 - 宮島観光協会ウェブサイト
  12. ^ a b 現地説明版「龍ヶ馬場(駒ヶ林)」
  13. ^ a b c d おもしろ山口学 大内氏・陶氏VS毛利氏 厳島の戦い 第2回:陶晴賢らの渡海と、渡海に反対した弘中隆兼の最期 - 山口きらめーる 2013年8月23日号 vol.256(山口県総合企画部広報広聴課)
  14. ^ 宮島の歴史 - 宮島観光協会ウェブサイト
  15. ^ a b c 宇田川武久「"厳島"を制した毛利直轄水軍」(『歴史群像シリーズ9 毛利元就』学習研究社、1988年)p118~124
  16. ^ a b c 歴史群像シリーズ49 毛利戦記 p146~151・河野収「鳥瞰戦国講座『戦国三大奇襲戦』勝利の条件」(1997年 学習研究社)
  17. ^ a b c d おもしろ山口学 大内氏・陶氏VS毛利氏 厳島の戦い 第1回:兵力差の真実と、手紙が残した真実 - 山口きらめーる 2013年7月26日号 vol.255(山口県総合企画部広報広聴課)
  18. ^ 秋山伸隆「ひろしま歴史回廊 第9部・再考 厳島合戦(5) 警固衆の役割 攻防繰り返した水軍」(中国新聞 2007年5月26日)
  19. ^ a b わがふるさとと愛媛学V ~平成9年度 愛媛学セミナー集録~ 日本史の中の水軍 - 愛媛県生涯学習センター データベース『えひめの記憶』
  20. ^ a b 秋山伸隆「ひろしま歴史回廊 第9部・再考 厳島合戦(7) 包ヶ浦から博奕尾越 島熟知 房顕の献策か」(中国新聞 2007年6月9日)
  21. ^ a b 鍛代敏雄「神意を湛える瀬戸内の要衝」(『歴史群像シリーズ49 毛利戦記』学習研究社、1997年)p40~44


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厳島の戦い

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弘中隆包」の記事における「厳島の戦い」の解説

天文20年1551年)に、陶隆房(のちの晴賢)が義隆に対して謀反起こして甥の大内義長擁立した大寧寺の変)。隆包は謀反には反対論通したが[要出典]、反乱後陶晴賢(隆房から改名と共に義長に属したことから、同調していたとされる。なお、この頃槌山城菅田宣真が守っており、隆包の城ではなかった。 天文22年1553年4月陶家臣の毛利房宏と共に筑前国出陣し陶晴賢に対して反抗的であった原田隆種高祖城糸島市)を攻めた天文23年1554年) に生じた三本松城の戦いにも従軍三本松城津和野城)の支城である賀年城攻めた時には近くにある茶臼山八幡山)に陣を張ったと伝わる。 大内・陶毛利の関係が決裂した後、天文24年1555年3月に、毛利との内通疑われ江良房栄を晴賢の命によって岩国殺害する(晴賢は隆包の内通疑い、身の潔白証明のために殺害させたともされる)[要出典]。厳島の戦い直前9月には、晴賢が厳島全軍移そうとしていることに反対し、陸路による安芸侵攻主張元就謀略であると義長に直訴したり晴賢の妻を通したりするなどして[要出典]再三諫言したが、三浦房清諸将の声に乗せられ血気にはやる晴賢は聞き入れなかった。ついに隆包は、実弟の方明を岩国残して嫡子の隆助と共に厳島渡海したが、村上水軍毛利方に付いたのを見て大内軍の敗戦覚悟したと伝わる。 隆包の予想通り、罠にかかった大内軍は総崩れとなった大混乱陥った大内軍の中で唯一陣を保全した隆包は、塔の岡(厳島神社のすぐ北にある丘陵付近で自ら盾となって総大将の晴賢を逃がした潰走する大内軍の中で、弘中父子その手500はさらに抵抗続けるも、吉川元春らの攻撃受けて大聖院付近から民家火を放って逃亡する。やがて晴賢は自刃したが、弘中隊は100名足らずで天険の駒ヶ標高509メートル)の竜ヶ馬場に籠もった。3日間の孤軍奮戦の末、最後吉川軍に囲まれ遂に討死した。

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