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こうぎょくてんのう くわうぎよくてんわう 【皇極天皇】
(594-661) 日本書紀で第三五代天皇(在位 642-645)の漢風諡号(しごう)。名は宝皇女。和風諡号は天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)。茅渟王(ちぬのおおきみ)の王女。舒明(じよめい)天皇の皇后。天智・天武両天皇の母。皇居は飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)。645年孝徳天皇に譲位し、その死後、重祚(ちようそ)して斉明天皇となった。
歴代天皇事典 |
皇極天皇
皇極天皇の時代は、天変地異が続いて民衆が嘆き、皇極天皇が雨乞いをしたという。
そのようななか、645年「乙巳の変(いっしのへん)」が起きた。
この頃政治は蘇我蝦夷・入鹿の専横が目立ち、642年には聖徳太子の娘上宮大娘(かみつみやのいらつめ)に「蘇我臣は国政をほしいままにし、無礼の振る舞いが多い。
なにゆえ太子の民を勝手に使役するのか」と大憤慨させたという。
そして643年には蘇我入鹿は蘇我馬子の娘の法提郎媛の子古人大兄皇子を皇位につけようとして邪魔になる聖徳太子の子山背大兄王を殺害しょうと兵を挙げ襲った。
山背大兄王はこの時は奴に助けられたが、後に一族もろとも自害した(「上宮王家の滅亡」ともいわれている)。
これらをみていた中臣鎌足、軽皇子(後の孝徳天皇)、中大兄皇子らが語らって、645年、三韓の調(儀礼をともなう貢物)を奉献する日を選び、蘇我倉山田石川麻呂に上奏文を読み上げるよう協力をたのんだ。
いよいよ皇極天皇が大極殿に出御され、古人大兄皇子が陪席した。
中臣鎌子は、日頃から蘇我入鹿の性格が疑い深く昼夜剣を帯ぴていることを知っていたので、俳優(わざびと)に教え、入鹿をだまして剣を取り上げた。
入鹿は大極殿の中に入り座についた。
石川麻呂が前に進み出て三韓の上表文を読み上げた。
中大兄皇子は衛門府(ゆけいのつかさ)に命じ一斉に十二の宮門をさし固め誰も通らせないようにし、中大兄皇子は自ら長槍をとって大極殿の傍らに隠れた。
いっぽう中臣鎌足は弓矢をもって皇子を守った。
鎌足は海犬養連勝麻呂に命じ、佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に剣を授け、「すばやく斬れ」といった。
しかし佐伯連子麻呂らは怖気づき剣が振るえなかった。
石川麻呂は、上表文を読み終わろうとするが、佐伯連子麻呂らの様子が変なため恐ろしくなり、全身に汗が流れ出してきて声も乱れ手も震えた。
これに気づいた入鹿が怪しんで、「なぜ震えているのか」と咎めると、石川麻呂は「あまりに天皇のお側近いのが畏れ多くて、不覚にも汗が流れて」と答えた。
中大兄皇子は佐伯連子麻呂らが入鹿の威勢を恐れためらっているのを見て、不意をついて躍り出て剣で入鹿に斬りつけた。
皇極天皇は大変驚いて中大兄皇子に、「これはいったい何事が起こったのか」といわれた。
中大兄皇子は蘇我入鹿の皇位簒奪の悪行を細かに奏上した。
この後古人大兄皇子は邸に逃げ、蘇我入鹿の父蝦夷は邸を焼いて自害した。
皇極天皇は中臣鎌足の推挙により皇位を軽皇子に譲り(譲位の初例)自らは上皇となった。
そのようななか、645年「乙巳の変(いっしのへん)」が起きた。
この頃政治は蘇我蝦夷・入鹿の専横が目立ち、642年には聖徳太子の娘上宮大娘(かみつみやのいらつめ)に「蘇我臣は国政をほしいままにし、無礼の振る舞いが多い。
なにゆえ太子の民を勝手に使役するのか」と大憤慨させたという。
そして643年には蘇我入鹿は蘇我馬子の娘の法提郎媛の子古人大兄皇子を皇位につけようとして邪魔になる聖徳太子の子山背大兄王を殺害しょうと兵を挙げ襲った。
山背大兄王はこの時は奴に助けられたが、後に一族もろとも自害した(「上宮王家の滅亡」ともいわれている)。
これらをみていた中臣鎌足、軽皇子(後の孝徳天皇)、中大兄皇子らが語らって、645年、三韓の調(儀礼をともなう貢物)を奉献する日を選び、蘇我倉山田石川麻呂に上奏文を読み上げるよう協力をたのんだ。
いよいよ皇極天皇が大極殿に出御され、古人大兄皇子が陪席した。
中臣鎌子は、日頃から蘇我入鹿の性格が疑い深く昼夜剣を帯ぴていることを知っていたので、俳優(わざびと)に教え、入鹿をだまして剣を取り上げた。
入鹿は大極殿の中に入り座についた。
石川麻呂が前に進み出て三韓の上表文を読み上げた。
中大兄皇子は衛門府(ゆけいのつかさ)に命じ一斉に十二の宮門をさし固め誰も通らせないようにし、中大兄皇子は自ら長槍をとって大極殿の傍らに隠れた。
いっぽう中臣鎌足は弓矢をもって皇子を守った。
鎌足は海犬養連勝麻呂に命じ、佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田に剣を授け、「すばやく斬れ」といった。
しかし佐伯連子麻呂らは怖気づき剣が振るえなかった。
石川麻呂は、上表文を読み終わろうとするが、佐伯連子麻呂らの様子が変なため恐ろしくなり、全身に汗が流れ出してきて声も乱れ手も震えた。
これに気づいた入鹿が怪しんで、「なぜ震えているのか」と咎めると、石川麻呂は「あまりに天皇のお側近いのが畏れ多くて、不覚にも汗が流れて」と答えた。
中大兄皇子は佐伯連子麻呂らが入鹿の威勢を恐れためらっているのを見て、不意をついて躍り出て剣で入鹿に斬りつけた。
皇極天皇は大変驚いて中大兄皇子に、「これはいったい何事が起こったのか」といわれた。
中大兄皇子は蘇我入鹿の皇位簒奪の悪行を細かに奏上した。
この後古人大兄皇子は邸に逃げ、蘇我入鹿の父蝦夷は邸を焼いて自害した。
皇極天皇は中臣鎌足の推挙により皇位を軽皇子に譲り(譲位の初例)自らは上皇となった。
| 第35代天皇 | |
| 天皇名 | 皇極天皇 |
| 読み方 | こうぎょくてんのう |
| 名・諱等 | 天豊財重日足姫尊 |
| 読み方 | あめとよたからいかしひたらしひめ |
| 時代区分 | 古代 |
| 天皇在位 | 642年から645年 |
| 生年 | 594? |
| 没年 | 661 |
| 父 | 茅渟王 |
| 母 | 吉備姫王 |
| 兄弟 | 軽皇子(孝徳天皇) |
| 配偶者 | 舒明天皇 |
| 皇子女 | 葛城皇子・大海人皇子 |
| 即位宮 | 飛鳥板蓋宮 |
| 天皇陵 | 斉明天皇(重祚)参照 |
| 所在地 | 斉明天皇(重祚)参照 |
ウィキペディア |
皇極天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/06 06:31 UTC 版)
皇極天皇(こうぎょくてんのう、推古天皇2年(594年) - 斉明天皇7年7月24日(661年8月24日)は、日本の第35代天皇(在位:皇極天皇元年1月15日(642年2月19日) - 4年6月14日(645年7月12日))。
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- ^ 河内祥輔は、舒明天皇には敏達・推古両天皇の皇女である田眼皇女も妃にいたにも関わらず、敏達天皇の皇曾孫に過ぎず且つ一度婚姻経験のある皇極天皇が皇后になったのを疑問として、天智天皇の生母として後世に「皇后」としての地位を付与されたとする説を採る。また、仮説としながらも寶女王の天皇在位を斉明天皇としてのみとして、舒明天皇崩御後から孝徳天皇即位までは内乱による天皇空位期であり、上宮王家滅亡から古人大兄王殺害までの事件を内乱による戦いであった可能性を指摘している。『古代政治史における天皇制の論理』(吉川弘文館、1986年)P54-60
- ^ “帝斉明天皇の陵墓と特定 奈良・牽牛子塚古墳” (日本語). 47NEWS (共同通信). (2010年9月9日) 2010年9月9日閲覧。
[続きの解説]
「皇極天皇」の続きの解説一覧
- 1 皇極天皇とは
- 2 皇極天皇の概要
- 3 飛鳥時代(27代から37代)
- 4 陵墓
固有名詞の分類
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