国の重要文化財とは? わかりやすく解説

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国の重要文化財

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 03:54 UTC 版)

渋川春海」の記事における「国の重要文化財」の解説

神宮奉納本として伊勢の神宮三重県伊勢市)の収蔵する江戸時代の「渋川春海天文関係資料12種は、1978年昭和53年6月15日付で国の重要文化財に一括指定された。その後天球儀と対をなす地球儀1基も追加指定受けた渋川春海天文関係資料 12種 『天文瓊統自筆本 元禄十一年正月内奉納奥書 8冊 『日本長暦自筆本 貞享二年夏内宮奉納奥書 2冊 『日本長暦自筆本 元禄六年九月宮崎文庫奉納奥書 2冊 『日本長暦自筆本 元禄年正月応中川経晃需奥書 2冊 『日本書紀暦考自筆本内宮奉納本) 1冊 『日本書紀暦考自筆本 元禄年正月応中川経晃需奥書 1冊 『両宮御鎮座古暦自筆本 貞享元年九月奥書 1巻元禄二年七曜御暦自筆本 元禄年正月朔日奥1巻元禄三年具注暦自筆本 元禄二年十一月朔日奥書 1巻元禄四年具注暦自筆本 元禄三年冬日奥書 1巻 天球儀 元禄庚午三年在銘 1基 地球儀 1基附 『貞享暦儀』 7冊 附『日本古今交食考』 1冊 附『春海先生実記甲子延享元年書写奥書 1冊

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国の重要文化財

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 02:12 UTC 版)

高千穂神社」の記事における「国の重要文化財」の解説

本殿 - 江戸時代前期1778年)の建立五間社流造銅板葺、稲荷社を含む。延岡藩内藤政脩大檀那として安永7年1778年)に完成したもので、造営には大分城鶴崎大工等が携わった形式五間社流造で、通常脇障子となる縁西面には、稲荷社設けている。装飾細部躍動感のある大胆な構図とし、立体的につくられている。高千穂神社本殿は、材を用いた丁寧なつくりで装飾細部充実し意匠的な完成度高く九州地方南部代表する大規模な本殿建築である。また、縁に小規模な社殿附属した独特の形式や、当地方の伝説祭礼関連した彫物など、地方色顕著に有しており、高い価値がある2004年平成16年7月6日指定鉄造狛犬1対 - 伝・源頼朝奉納鋳鉄製の狛犬像高およそ55cmで、一般に像は銅像比べて複雑な形の鋳造細部仕上げが困難であるとされるが、当品は同時代鎌倉時代)の木彫のものと比較して遜色がなく、その鋳造技術遺品中出色のものとされ、1971年昭和46年6月22日指定された。 木造神像男神坐像1躯・女神坐像1躯〉附:木造神像2躯 - 元々は荒立神社神像であったが、同神社合祀した際(上述)、一緒に移されたもの。県指定有形文化財指定されていたが、2020年令和2年9月30日付で国の重要文化財に指定された。

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国の重要文化財

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/21 15:46 UTC 版)

法明寺 (京都府笠置町)」の記事における「国の重要文化財」の解説

美術品木造釈迦如来立像1923年大正12年8月4日指定木造吉祥天立像1923年大正12年8月4日指定木造増長天立像1923年大正12年8月4日指定いずれも平安時代作品

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国の重要文化財

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/29 05:32 UTC 版)

鳥取東照宮」の記事における「国の重要文化財」の解説

本殿 - 慶安3年1650年建立昭和27年1952年7月19日指定 唐門 - 慶安3年1650年建立昭和27年1952年7月19日指定 拝殿および幣殿 - 慶安3年1650年建立昭和27年1952年7月19日指定

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国の重要文化財

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 01:29 UTC 版)

今井町」の記事における「国の重要文化財」の解説

今西家住宅 - 姓氏磯城縣主連なる十市氏で、廣瀬大社曾禰樋口家婿養子となり河合城築き名字河合とした。1566年永禄9年2月十市遠勝筒井順慶圧迫され今井亡命した後を追って河合清長十市衆の一族郎党引き連れて当地移住し1575年天正3年)に織田信長軍戦った敗れた信長から赦免され自治権認められ裁判執り行った大坂夏の陣の際、今井町の西辺において大野治房らを撃破した功により、徳川家康より薙刀来国俊拝領され今西名乗るように薦められた。その後建物1650年慶安3年)に建て替えられ内部土間にはお白州があり、拷問部屋のいぶし牢が残っており陣屋として使われた。1679年延宝7年)、今井天領組み入れられ、三惣年寄筆頭になり領主代官町方支配一翼担った戦国時代構造様式を残す建造物で、別名「八つ棟」(やつむね)または「八つ造り」と呼ばれている。日本建築史貴重な建物1つであり、納戸帳台構え日本最古で「民家法隆寺と言われる月曜日休館1957年昭和32年6月18日重文指定(附・棟札1枚)。 豊田家住宅 - 屋号を「紙八」といい、江戸末期から明治初年にこの家に移り住んだ。元々は材木商金融業を営む豪商牧村家所有で「西の木屋」と呼ばれた福井藩藩主松平春嶽貸し付け行い藩の蔵元務め高取藩融資し重臣待遇まで受けていた。しかし、明治維新後の廃藩置県によって大名貸貸付金凍結し債権放棄され今井町離れざるを得なかった。なお、大阪府堺市大仙公園にある今井町出身今井宗久ゆかりの茶室黄梅庵」はもと牧村家所有茶室電力王で小田原三茶人一人である松永安左エ門買受け小田原市移築したものを1978年昭和53年)に相続人松永安太郎が堺市寄贈し堺市90年記念事業一環として1980年昭和55年10月大仙公園内に移築された。この茶室秀吉吉野山花見設けられ「宗久茶屋」と称され、後に松永安左エ門今井宗久菩提寺大徳寺黄梅院 (京都市)にちなんで「黄梅庵」と名付けた住宅1662年寛文2年)の建築今井町では、今西家に次いで古い。事前予約必要。1972年昭和47年5月15日重文指定上田家住宅 - 屋号を「壺屋」といい、先祖は、葛下郡片岡城主・片岡新助藤原春利で片岡城落城後、上田七郎之長が1571年元亀2年当地移住した1679年延宝7年)より今西家・尾崎家と並び惣年寄務めていた。当家には、惣年寄の旗が残っている。1744年延享元年)の祈祷がありこの頃建築とみられる入母屋造りで、大壁造の妻をみせた外観重厚な感じ与え入口が西に構えているのは珍しい。事前予約必要。1972年昭和47年5月15日重文指定音村家住宅 - 屋号を「細九」といい、かつては金物問屋営んでいた。17世紀後半頃の建築推定される1972年昭和47年5月15日重文指定高木家住宅 - 四条屋の分家屋号を「大東四条屋」といい、本家酒造業助けながら、後には醤油業も営んでいた。1829年文政2年津田長道の「卯花日記」には、「今井里人高木氏は、世々四条村の人 にして、今は今井家居す。此家にむかしより 此社の事つかさどる事になりて、別に神主なければ、此家より神供灯明のことを物しける。高木の宮(高市御縣神社)と云也といへり」という記述があることから高市許梅に関係が深い一族である。切妻造本瓦葺き2階建で、幕末上層民家特徴が残る。江戸時代末期文政天保頃)の建物1972年昭和47年5月15日重文指定中橋家住宅 - 屋号を「米彦」といい、米屋営んでいた。建築年不明なものの、1748年寛延元年)の絵図描かれていることから、当時すでに住居構えていたことがわかる。1761年宝暦11年)には南町組頭務めていた。非公開1972年昭和47年5月15日重文指定旧米谷家住宅きゅうこめたにけじゅうたく) - 屋号を「米忠」といい、代々金具商、肥料商を営んでいた。農家風の民家で、18世紀中頃建築推定されるまた、1849年嘉永2年)には、内蔵蔵前座敷増築している。近年まで内蔵3棟あったが、現在は1棟のみになっている建物1956年国有になっており、内部無料一般公開されている。月曜日休館1972年昭和47年5月15日重文指定河合家住宅 - 屋号を「上品寺屋」といい、寛永年間上品寺橿原市上品寺町)から移住した家蔵文書によると1772年安永元年)には既に酒を造っており、今なお酒造業営んでいる。18世紀後半建築1976年昭和51年5月20日重文指定称念寺本堂 - 浄土真宗本願寺派寺院である。先祖は、佐々木氏随兵近江国犬上郡荘官務めていた河瀬城河瀬氏である。浅井長政家臣であった河瀬権八郎(河瀬兵部丞)が逃れて得度し寺号得て御坊今井山)を開いた今井町称念寺中心に発展した寺内町であったが、織田信長武装解除されてから以後は、自由商業都市として栄えた豊臣秀吉天下になって河瀬氏から今井氏改名し秀吉吉野花見途次、「兵部茶屋屋敷」を建て秀吉招いている。また、1877年明治10年2月10日11日明治天皇の「大和行幸」の際の今井行在所あんざいしょであった。このとき明治天皇は、西南戦争勃発第一報聞いている。本堂近世初頭再建されたものであるが、浄土真宗では本山本願寺以外で初め2002年平成14年5月23日に国の重要文化財に指定された。また、対面所元禄8年1695年)の棟札があり、庫裏客殿17世紀初期頃の建設で、太鼓楼1845年弘化2年)の再建いずれも橿原市指定文化財指定されている。

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国の重要文化財

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 19:00 UTC 版)

龍寶寺」の記事における「国の重要文化財」の解説

旧石井家住宅 - 江戸時代中期1601年-1700年)の建立桁行15.5m、梁間9.1m、寄棟造茅葺元禄期に建てられ農家移築したもの。石井家はもともと後北条氏属した地侍で、後北条氏滅亡後帰農し、関谷村名主代々務めたと伝わる。1969年昭和44年6月20日重要文化財指定

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国の重要文化財

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 17:52 UTC 版)

福智院町」の記事における「国の重要文化財」の解説

清冷山福智院(福智(地)律院清水寺前身736年天平8年)に玄昉創建し興福寺の僧が再興し福智院改名しその後叡尊再建した今西家書院 福智院氏の居宅大正13(1924)年、今西家が譲り受けた昭和12(1937)年8月25日国宝保存法により、京都二条陣屋大阪吉村と共に民間所有建造物として初め国宝指定を受ける。。昭和13(1938)年、根継ぎ床組などの部分修理次いで昭和53(1978)年工事期間16ヶ月をかけ解体修理工事を行う。角柱障子・襖など書院造り要素は、現代和室様式へと広く受け継がれている。 本尊 地蔵菩薩像 寄木造りの上に漆を塗り重ねその上に彩色施されている。。右手錫杖執り左手宝珠捧げ右足安座にした丈六(2.73m)の座像で、宜字座(1.60m)の上に、舟型光背(5.05m)一ぱいに小形化仏をつけた、千仏光背背負っている。台座からの総高は6.76mもあり、どっしりとした南都特有の鎌倉彫刻で、気魄満ちた御本尊は慈相をたたえて鎮座されている。千体仏舟型身光背で、二重円相部には、頂上不空成就如来釈迦同体)、左右三躰つづ、六体地蔵菩薩像六地蔵)、最下部左右に二体の冥官座像があり、諸定、諸地獄決定する?魔王太山王の二王で、周縁部光背千体地蔵は、簡略化した造りである。仏像光背多数化仏を表すことは、その仏の功徳世界観を表すものとして、経本には説かれているが、それを造像表現することは現存例としては少なく地蔵尊としては、福智院本尊のみである。光背化仏560体、六地蔵本尊入れると全部567体である。本尊地蔵菩薩坐像は、像高2.73mの大作で、威風堂々とし、光背にも千体地蔵表している。像内の墨書などにより、1203年に福智庄(現奈良市下狭川町付近)で造られ1254年当地に遷されたと考えられる鎌倉時代南都代表的な地蔵像である。

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国の重要文化財

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 14:23 UTC 版)

金刀比羅宮」の記事における「国の重要文化財」の解説

建造物 表書院 1955年昭和30年6月22日指定 奥書院 1955年昭和30年6月22日指定 旭社附棟札2枚 1982年昭和57年2月16日指定 四脚門 1982年昭和57年2月16日指定 美術工芸品 絹本著色弁財天十五童子像 1901年明治34年3月27日指定 紙本著色なよ竹物語絵巻 1901年明治34年3月27日指定 紙本墨画遊鶴図17 1901年明治34年3月27日指定 円山応挙の筆による表書院鶴の間」の障壁画紙本墨画遊虎図24 1901年明治34年3月27日指定 応挙の筆による表書院「虎の間」の障壁画日本には虎がいなかったため、虎の毛皮を見ながら描いたと伝わる。 紙本墨画竹林七賢図16 1901年明治34年3月27日指定 応挙の筆による表書院七賢の間」の障壁画紙本墨画瀑布及山水図33 1901年明治34年3月27日指定 応挙の筆による表書院山水の間」及「上段の間」の障壁画木造十一面観音立像 1919年大正8年8月8日指定 平安時代作られ材の一木造像高144cm。頭に着けられていた10面の仏や装飾および台座失われている。旧松尾寺観音堂本尊であった太刀 銘長光 1911年明治44年4月17日指定 太刀 銘備州長船(以下不明明徳不明)年(不明)月 1923年大正12年3月28日指定 師光による作と伝わる。 短刀筑州住国弘作 1922年大正11年4月13日指定 伏見天皇宸翰御歌集 1919年大正8年8月8日指定

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