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だいとくじ 【大徳寺】

京都市北区にある臨済宗大徳寺派総本山山号竜宝山。後醍醐天皇の勅により、1324年宗峰妙超(しゆうほうみようちよう)開山として創建真珠庵聚光院大仙院など多数塔頭(たつちゆう)がある。


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寺院名辞典

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大徳寺


大徳寺

読み方:ダイトクジdaitokuji

別名 慈興寺の寺

宗派 真宗大谷派

所在 富山県魚津市

本尊 阿弥陀如来


大徳寺


大徳寺


大徳寺


大徳寺


大徳寺


大徳寺


大徳寺

寺院名辞典では1989年7月時点の情報を掲載しています。


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大徳寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/12/02 07:17 UTC 版)

大徳寺
Daitokuji Kyoto06n3200.jpg
仏殿(本堂)
所在地 京都府京都市北区紫野大徳寺町53
位置 北緯35度2分38.10秒
東経135度44分45.89秒
山号 龍寶山
宗派 臨済宗大徳寺派
寺格 大本山
本尊 釈迦如来
創建年 正中2年(1325年)
開基 宗峰妙超
正式名 龍寶山 大徳禅寺
文化財 方丈、唐門、絹本墨画淡彩観音猿鶴図ほか(国宝
勅使門、三門、仏殿、法堂、木造大燈国師坐像ほか(重要文化財
方丈庭園(非公開)(史跡特別名勝
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法堂
三門 (金毛閣)
三門の上層
勅使門
庫裏

大徳寺(だいとくじ)は、京都府京都市北区紫野大徳寺町にあるで、臨済宗大徳寺派大本山である。山号を龍寶山(りゅうほうざん)と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は大燈国師宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)で、正中2年(1325年)に正式に創立されている。

京都でも有数の規模を有する禅宗寺院で、境内には仏殿法堂(はっとう)をはじめとする中心伽藍のほか、20か寺を超える塔頭(たっちゅう、本山寺院の境内周辺にある関連寺院)が立ち並び、近世の雰囲気を残している。大徳寺は歴代多くの名僧を輩出し、茶の湯文化とも縁が深く、日本の文化に多大な影響を与え続けてきた寺院である。本坊および塔頭寺院には、建造物、庭園、障壁画、茶道具中国伝来の書画など、多くの文化財を伝えている。

目次

歴史

大徳寺の開祖である禅僧・宗峰妙超は、弘安5年(1282年)、播磨国兵庫県)に、同国守護・赤松氏の家臣・浦上(うらのえ)氏の子として生まれた。11歳の時、地元の大寺院である書写山円教寺に入り、天台宗を学ぶが、のち禅宗にめざめ、鎌倉の高峰顕日(こうほうけんにち)、京の南浦紹明(なんぽじょうみん)に参禅。南浦紹明が鎌倉の建長寺に移るにしたがって宗峰も鎌倉入りし、徳治2年(1307年)に師から印可を得た。

その後数年、京都東山で修行を続けていた宗峰妙超は、正和4年(1315年)(元応元年・1319年とも)、同郷の赤松則村(円心)の帰依を受け、洛北紫野の地に小堂を建立した。これが大徳寺の起源とされる。花園上皇は宗峰に帰依し、正中2年(1325年)、大徳寺を祈願所とする院宣を発している。寺院としての形態が整うのはこの頃からと思われる。

後醍醐天皇も当寺を保護し、建武元年(1334年)には大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけるとする綸旨を発した。

しかし、建武の新政が終わって足利氏が天下を取ると、後醍醐天皇と関係の深い大徳寺は足利氏から軽んぜられ、五山十刹から除かれてしまった。至徳3年(1386年)には、五山十刹の最下位に近い、十刹の第9位とされている。このため大徳寺は、政府の庇護と統制下にあり世俗化しつつあった五山十刹から離脱し、座禅修行に専心する独自の道をとった。五山十刹の寺院を「叢林」(そうりん)と称するのに対し、同じ臨済宗寺院でも、大徳寺、妙心寺のような在野的立場にある寺院を「林下」(りんか)という。

その後の大徳寺は、貴族、大名、商人、文化人など、幅広い層の保護や支持を受けて栄え、室町時代以降は一休宗純をはじめとする名僧を輩出した。侘び茶を創始した村田珠光などの東山文化を担う人びとが一休に参禅して以来、大徳寺は茶の湯の世界とも縁が深く、武野紹鴎千利休をはじめ多くの茶人が大徳寺と関係をもっている。

享徳2年(1453年)の火災と応仁の乱1467年 - 77年)で当初の伽藍を焼失したが、一休宗純が堺の豪商らの協力をえて復興。近世以降も豊臣秀吉や諸大名の帰依を受けた。

江戸時代初期に幕府の統制を受け、元住持である名僧、沢庵宗彭紫衣事件と呼ばれる流罪の圧迫を受けたが、幕府との関係ものちに回復した。寺運は栄え今日に至っている。

伽藍

勅使門、三門、仏殿、法堂(はっとう)がほぼ一直線に並び、これら中心伽藍の北・南・西に20ヶ寺以上の塔頭寺院が並ぶ。

勅使門 (重要文化財
慶長年間(1596年 - 1614年)建立の御所の門を下賜され、寛永17年(1640年)に移築されたもの。
三門 (重要文化財)
二層の山門。連歌師・宗長の寄進で享禄2年(1529年)にまず下層のみが竣工し、天正17年(1589年)、千利休が上層を完成させて「金毛閣」と名づけられた。利休は上層に自身の木像を安置したが(つまり、門をくぐる者は利休の下を通ることになる)、これが豊臣秀吉の怒りを買い、利休に切腹を命じたとする説がある。
仏殿 (重要文化財)
寛文5年(1665年)、京の豪商・那波常有(なわ じょうゆう)の寄進で建てられた。
法堂 (はっとう、重要文化財)
寛永13年(1636年)、小田原城稲葉正勝の遺志により、子の正則が建立した。天井に描かれている「雲龍図」は狩野探幽35歳の作。
方丈および玄関 (国宝)
江戸初期の建築で、禅宗様建築である法堂や仏殿と異なる日本様式の建物である。方丈は正面29.8メートル、側面17.0メートル、入母屋造で桟瓦葺(本来は檜皮葺)、玄関は桁行6間、梁間1間、一重、唐破風造で桟瓦葺。中心伽藍の北側に位置し、土塀に囲まれた一角にあたる。方丈は寛永12年(1635年)、玄関はその翌年、豪商・後藤益勝の寄進で建てられたもので開祖大燈国師(宗峰妙超)300年遠忌を記念して新築されたものである。玄関は翌寛永13年に完成している。「方丈」は元来は住職の居室を指したが、後に住持の居間は別所に移転され、朝廷の勅使や幕府役人の接待・宗教行事などに用いられる空間となった。通常の方丈建築は、前後2列、左右3列の計6室を並べる平面形式が多いが、大徳寺方丈は前後2列、左右4列の計8室をもつ特異な形式で、向かって右から2列目の前後2室は、開祖大燈国師(宗峰妙超)の塔所(墓所)である雲門庵となっている。雲門庵の一部は方丈北面の広縁を越えて北側に突出している。宗峰は、「自分の死後に、墓所として別の寺院を建てるには及ばぬ」と遺言していたため、このような形式になっている。方丈の障壁画は狩野探幽の作。枯山水庭園は国の特別名勝および史跡に指定されている。
唐門 (国宝)
近世初頭の四脚門切妻造檜皮葺。前後軒唐破風付。本願寺豊国神社の唐門とともに「桃山の三唐門」と呼ばれる。仏殿・法堂などの中心伽藍の北に位置し、方丈南の土塀に接続する。本来は大徳寺唐門の位置には明智門が存在し、唐門は三門西側から大慈院に通じる通りに建っていた。唐門は聚楽第から大慈院に移築されたと伝えるが、1886年(明治19年)に明智門を南禅寺金地院に売却したことに伴い大徳寺方丈前に移築された。この門の特徴は各所にみられる自由闊達な彫刻で、随所に龍や鯉などの彫刻が施され、一部では組物の代わりにこうした彫刻が用いられている。



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