絵画・彫刻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/17 09:22 UTC 版)
さまざまな理由から、芸術家達は未完成作品を残している。風景が変わってしまったり、描かれている人物が死亡してしまったりなど、題材が利用できなくなったことにより作品が完成しないこともある。エリザベス・シューマトフがアメリカ合衆国32代目大統領ルーズベルトを描いた『フランクリン・D・ルーズベルトの未完成肖像画』は、1945年4月12日の昼頃に描き始められたが、ルーズベルトがその日のうちに亡くなったため未完成のままになっている。この他にも、外部の状況によって本来完成したであろう作品を仕上げることができなくなる例もある。レオナルド・ダ・ヴィンチはグラン・キャヴァロの馬の、高さ24フィート(7.3メートル)の像に関してスケッチと模型を作っていたが、像に鋳造するための青銅が大砲を作るために徴発されてしまったのである。1999年、ダ・ヴィンチの資料を元にして2基の完全なサイズの像が完成した。 媒体にもよるが、別の芸術家が未完成作品を損傷させることなく完成させるのは時に困難である。芸術家の中には、師匠の絵の完成作業を行ったものもいる。たとえばジュリオ・ロマーノは、ラファエロ・サンティの『変容』(en:Transfiguration (Raphael))を、、ティツィアーノ・ヴェチェッリオはジョルジョーネの『眠れるヴィーナス』を完成させたとみられている。 未完成作品そのものを完成させるのではなく、(通常は未完成作品が作成されてからかなりの年月が経ってから)作品に刺激をうけた他の芸術家がそれぞれのバージョンを作成する、という事例もよく見受けられる。ミケランジェロは数点の未完成彫刻・絵画を残しており、そのスケッチや未完成絵画は他の芸術家を刺激している。注文を受けて作成される予定だった作品が完成しなかった場合、その作品は通常、他の作者の手にゆだねられることになる。サン・ドナト修道院のために描かれたレオナルド・ダ・ヴィンチの『賢者の崇拝』は、ダ・ヴィンチがフィレンツェからミラノへ移住した際に中止された。それでも祭壇画は必要であったため、サン・ドナト修道院はフィリッピーノ・リッピを雇って新たな祭壇画を作成させた。現在、これらの絵画は両方ともウフィツィ美術館に展示されている。 通常、絵画は本格的な制作開始前にキャンバスにスケッチされる。また彫刻作品の構想を練る際にスケッチが使用されることもよくある。有名芸術家によるこのような中途作品は、完成作品と同様、あるいはそれ以上に探し求められることになる。というのも、これらによって芸術作品の製作過程を明らかにできるためである。バロック時代の彫刻家、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニはプロトタイプ彫刻(ボツェッティ)を蝋や素焼きのテラコッタで制作して、依頼者に作品の完成予測を示していた。イタリアのピエトラサンタにあるMuseo dei Bozzetti(ボツェッティ博物館)など、彫刻スケッチに特化したコレクションを行う博物館もある。 ルネサンス期において、ドナテッロは石を部分的に彫刻し、像が素材の中に埋まっているような姿の、まるで未完成であるかのように見える彫刻を作っている。ドナテッロはこの技法をノン・フィニート(en:non finito)と呼び、それからも数人の芸術家が同様の技法を用いた。
※この「絵画・彫刻」の解説は、「未完成作品」の解説の一部です。
「絵画・彫刻」を含む「未完成作品」の記事については、「未完成作品」の概要を参照ください。
絵画・彫刻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 15:57 UTC 版)
絵画では足利将軍家の部下である同朋衆から能阿弥、真阿弥らによる山水画や、画僧である明兆・如拙・周文らを経て雪舟による水墨画が完成する。これには文化の担い手に宮廷や公家だけではなく、武家や武家との関係が強い禅宗寺院が存在したことが影響している。 狩野元信は水墨画と大和絵の技法を融合させ、のちに狩野派と呼ばれる。これらは仏絵などの宗教画と異なり、世俗的、あるいは芸術的な側面としての絵画の発生と言える。同時に、庶民階級の富裕化により、風俗屏風図や遊楽図など、風俗画というべき絵画も発生している。また、交易の発展による海外の絵画技術の影響が見られる。 彫刻ではそれまでの仏教彫刻に加えて、能面彫刻が作られるようになる。他方、鎌倉時代と比べると仏像彫刻が衰退した。旧仏教寺院から禅宗による新仏教寺院への変化や、公家政権下と異なり、武家政権下では新たな寺社の建立数が減ったことなど、複数の要因があると考えられている。いずれにしてもこの時代の仏像は慶派のような流派ではなく、個人の仏師が手がけた作例のほうが著名であり、全体としては少ない。その一方、城郭や書院の発達に伴い、建築の装飾彫刻は発展期にあたり、後の桃山建築を特色付ける木彫装飾の原型が室町時代後期に発生した。 また漆工にも高蒔絵や肉合研出蒔絵、切金の技法を蒔絵に応用するなど、伝統的な蒔絵技法のほかに新しい試みが行われた。蒔絵師の幸阿弥道長は土佐光信の下絵を使ったといわれており、絵画との融合も行われている。 また、武士階級の富裕化に伴い、刀剣の装飾などに使われる鍔の彫金など、金工業も独特の発展を遂げた。八代将軍足利義政に使えた後藤祐乗に始まる後藤家など、一般需要の町彫りとは別種の家彫りと呼ばれる流派の発生である。また、武具には七宝を用いた平田派などが知られるほか、冑の明珍派など、新たな一派が多く発生した。
※この「絵画・彫刻」の解説は、「室町時代」の解説の一部です。
「絵画・彫刻」を含む「室町時代」の記事については、「室町時代」の概要を参照ください。
絵画・彫刻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/29 04:06 UTC 版)
カメイが収集し社長室などに展示されていた絵画や彫刻作品が寄贈・寄託され展示されている。浅井忠、安井曾太郎、藤田嗣治といった日本の近現代の具象絵画を中心に、洋画や日本画、水墨画、彫刻などが展示されている。
※この「絵画・彫刻」の解説は、「カメイ美術館」の解説の一部です。
「絵画・彫刻」を含む「カメイ美術館」の記事については、「カメイ美術館」の概要を参照ください。
絵画・彫刻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 08:03 UTC 版)
キリスト教美術においてはモーセは通常老人の姿に描かれることが多い。 中世ヨーロッパ美術においては、ミケランジェロの彫刻やレンブラントの絵画にみられるごとく、モーセはしばしば角のある姿で描かれるが、この理由には二つの説がある。一つは、ヴルガタ訳の描写をもとにしたためだというものである(『出エジプト記』 34:29-30, 35)。元来、ヘブライ語には母音を表す文字が存在せず、ヘブライ語で「角」を意味する語は「輝く」という意味にも解釈可能であり、現在の『聖書』翻訳では一般に後者の意味で訳出されている。もう一つの説は、ヴルガータとは関係なく、モーセの顔が光り輝くのを角のような形で表現したというものである。フランスの美術史家エミール・マールは後者の説をとり、最初典礼劇でそのような表現がなされたものが絵画や彫刻にも影響を与えたと考えている。一方、日本の尾形希和子は前者の説をとりつつも、12世紀から13世紀のイングランドの教会法学者ティルベリのゲルウァシウス(英語版)の著書中に「モーセの角の生えた顔とは、すなわち彼の顔から輝く光が出ていたから」とあるのを紹介している。他の中世人の著作を見ると、クレルヴォーのベルナール『雅歌講解』にも件の場面でモーセの顔が光り輝いたということを前提としている記述がある。
※この「絵画・彫刻」の解説は、「モーセ」の解説の一部です。
「絵画・彫刻」を含む「モーセ」の記事については、「モーセ」の概要を参照ください。
絵画・彫刻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/23 06:37 UTC 版)
普賢延命菩薩の像容には、胎蔵界曼荼羅の大安楽不空真実菩薩と同型の20臂像と、金剛薩埵と同様に金剛杵と鈴を持つ2臂像がある。20臂像は真言系、2臂像は天台系とされる。菩薩の乗る蓮華座は、真言系20臂像では4頭の白象によって支えられ、天台系2臂像では3つの頭を持つ1頭の象が支えている。 絵画では、京都府の松尾寺の2臂像(国宝)、広島県の持光寺の20臂像(国宝)のような名品がある。また、アメリカ合衆国のボストン美術館には12世紀の普賢延命菩薩像が収蔵されており、3頭1体の象が菩薩を支えることから台密系の菩薩であることがわかる。 彫像としては、奈良県法隆寺大宝蔵殿(もと金堂安置)の20臂像などがあるが、遺例はさほど多くない[要出典]。 普賢延命菩薩像 広島・持光寺蔵 平安時代 国宝 普賢延命菩薩像 京都・松尾寺蔵 平安時代 国宝 普賢延命菩薩像 奈良国立博物館蔵 鎌倉時代 重要文化財
※この「絵画・彫刻」の解説は、「普賢延命菩薩」の解説の一部です。
「絵画・彫刻」を含む「普賢延命菩薩」の記事については、「普賢延命菩薩」の概要を参照ください。
絵画彫刻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 03:44 UTC 版)
絵画彫刻は取締を受けるのは公衆の観覧に供する場合に限られ、当局は公安を害し風俗をみだす場合は陳列場から撤回を命じることができ、極端なものは没収することもある(明治33年3月法律36号)。 新聞小説の挿絵などでも、軍事施設のある景観を題材にしていれば検閲の対象となった。吉川英治の小説『宮本武蔵』(昭和10年)では、当時巌流島に要塞施設があったため、石井鶴三の挿絵にまで要塞司令部検査済の文言がつけられた。
※この「絵画彫刻」の解説は、「日本における検閲」の解説の一部です。
「絵画彫刻」を含む「日本における検閲」の記事については、「日本における検閲」の概要を参照ください。
- 絵画・彫刻のページへのリンク