四天王像
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 06:27 UTC 版)
木造四天王立像として国宝に指定。飛鳥時代。金堂安置。現存する日本最古の四天王像である。像高は持国天133.3センチ、増長天134.9センチ、広目天133.3センチ、多聞天134.3センチ。なお、戦前の資料では、現・持国天像を増長天、現・増長天像を持国天とするものがある。須弥壇の南東に持国天、南西に増長天、北西に広目天、北東に多聞天が立つ点は、他寺院の四天王と同様である。ただし、他寺院の四天王は4躯とも正面向きに安置されるのが通例だが、法隆寺金堂の場合は後方に位置する広目天と多聞天の2躯が外向き(広目天は西向き、多聞天は東向き)に安置されている。各像はクスノキ材の一木造で、光背、台座もクスノキ材製である。本体は各像の手首から先(多聞天像は袖口から先)と、天衣の垂下部(腕から外側に垂れる部分)に別材を矧ぐほかは一材から彫成している。なお、天衣垂下部は広目天の右腕から垂れる分が当初のものであるほかは後補になる。後世の四天王像が怒りの表情を表し、足下で暴れる邪鬼を踏みつけるような動きのあるポーズを示すのに対し、法隆寺金堂四天王像はいずれも静かな表情で、両脚を揃えて直立し、足下の邪鬼も暴れる様子がない。よく見ると、邪鬼の四肢は手かせ足かせで拘束されており、暴れる心配がないので、四天王も静かに直立しているのだと解釈されている。各像の踏まえる邪鬼は顔つきが相互に異なっており、持国天の足下のそれは牛頭、増長天の足下のそれは一角をもつ。各像は円形の光背(頭光)を負う。この光背は各像の後頭部に金具で取り付けられている。各像は正面に引き合わせのある甲(よろい)を着用する。後世の四天王像が唐風の甲冑を着用するのに対し、本像の甲はより時代の古い六朝風のものである。腹部は太い紐で締め、肩には布を掛けてこれを正面側で結んでいる。腕の部分には手首までを覆う袖のほかに、細かい襞のある鰭袖(はたそで、ひれそで)と、長く垂れさがった広袖が見え、3枚の衣服を着ていることがわかる。下半身には足首で括る袴の上に裳を着用し、沓をはく。各像に当初の彩色と截金文様が残り、彩色には朱、丹、緑青、群青が用いられている。各像のポーズはほとんど同じだが、両手の持物(じもつ)が異なっている。持国天、増長天はともに左手に三叉戟(さんさげき)を持ち、右手に剣を持つ。多聞天は左手に三叉戟を持ち、右手は宝塔を捧持する。広目天のみ三叉戟を持たず、左手に巻物、右手に筆(各木製)を持つ。持国天と増長天が右手に持つ剣は明治時代の後補である。法隆寺には飛鳥時代の銅剣2口があり、これらが本来持国天・増長天像の持っていた剣であると伝えられている。うち、持国天像の剣は北斗七星の線刻文様があることから「七星剣」と通称される。広目天以外の3像が持つ戟は木製の棒に銅線を巻き付け、2か所に責金(せめがね)という金銅製の金具を巻く。調査の結果、多聞天の持つ戟の責金には、玉虫厨子と同様、タマムシの翅による装飾の痕跡が発見された。大江親通が嘉承元年(1106年)に南都の諸寺を巡拝した際の記録である『七大寺日記』には、「法隆寺金堂の四天王像は難波の四天王寺金堂の四天王像と同じ姿である」との記述がある。四天王寺像は現存しないが、図像集『別尊雑記』(仁和寺本)所収の「四天王寺金堂四天王像」の図像を見ると、各邪鬼は左前肢で戟の先端を支え、右前肢は剣の鞘を捧持している。法隆寺四天王像の場合、4体の邪鬼はいずれも両手の拳を掲げて、何かを支え持つような身振りをしているが、これらの邪鬼が戟の先端を支えることは、位置関係から見て不可能である。これは、邪鬼のポーズの示す意味が理解されずに、形だけが写されたことを意味している。 本四天王像については、当初から金堂に安置されていたとする説(便宜上、「当初安置説」とする)と、他所から移入されたものだとする説(便宜上、「後世移入説」とする)とがある。前述の『七大寺日記』の記述によれば、大江親通が法隆寺を参拝した1106年の時点で金堂に四天王像があったことが明らかであるが、四天王像のそれ以前の所在は明らかでない。後世移入説は、天平19年(747年)の『資財帳』に列挙されている「仏像二十一具五躯」の中に四天王像についての記載がないことをそのおもな根拠としている。一方、当初安置説を唱える研究者は、同じ『資財帳』の施入物について記載した部分には、銭と穀類の施入に関して「四天王分」という記載があることから、天平19年当時、法隆寺には四天王像があったはずであり、『資財帳』は「四天王」と書くべきところを1行書き漏らしたのではないかとする。これについては、次のような反論がある。(1)『資財帳』の「仏像二十一具五躯」という文言の後に列挙されている仏像を数えると正確に21躯5躯であって、1行分の脱落があったとは考えられない。(2) 列挙されている仏像には、具体的な像名を書かず、「金泥木造 三具」と書かれているものがあるが、金堂四天王像は「金泥」ではなく彩色像なので、これにも該当しない。なお、この「仏像二十一具五躯」はあくまでも当時金堂にあった仏像の数量を記したものであり、寺内の他の堂に四天王が安置されていた可能性は否定できない。したがって、前述の「四天王分」の記載は、金堂以外の他の堂にあった四天王の分である可能性がある。 広目天と多聞天の光背裏面にそれぞれ以下の刻銘がある。 (広目天)山口大口費上而次 / 木まら二人作 也〔「まら」の漢字は「門がまえ」に「午」〕 (多聞天)薬師徳保上而 / 鐵師まら古二人作 也〔「まら」の漢字は「司」の2画目以降を「手」に替えたもの〕 これは、広目天は「山口大口費」(やまぐちのおおぐちのあたい)を上位者として「木まら」と2人で造ったもの、多聞天は「薬師徳保」(くすしのとくほ)を上位者として「鐵師まら古」と2人で造ったものと解される。「山口大口費」は、『日本書紀』に白雉元年(650年)に千仏を刻んだ人物として言及される「漢山口直大口」(あやのやまぐちのあたいおおぐち)と同一人とするのが通説であり、本四天王像の制作年代も650年を大幅に前後しない時期と推定される。光背には上記刻銘のほか、持国天と多聞天の光背に「汙久皮臣」、広目天光背に「筆」、多聞天の光背に「薬師光」の針書文字がある。これらの文字は「銘」ではなく、製作時の覚書程度のものとみられている。持国天と多聞天の光背に見える人名は、かつては「片文皮臣」と読まれていたが、東野治之の研究により「汙久皮臣」(うくはのおみ)と読むのが妥当とされている。
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